2016年12月18日日曜日

Exorbitant Privilege

“Exorbitant Privilege”という本を読んだ。Barry Eichengreenというカリフォルニア大学バークリー校の教授(政治経済史)が書いた、米ドルが国際基軸通貨であることの意味と今後について書いた本です。非常に面白かった。

読み終わったのは10月のなかばごろです。とてもためになる本だったので、なるべく詳しく内容をまとめておこうと思ったのですが、書いているうちに膨大な量になることに気づいてほったらかしになっていました。とりあえず、途中までの内容を仕上げておきます。


国際基軸通貨というと、分かったような分からないような概念なわけですが、要は「世界中の人が安心して受け取ってくれる通貨」ということです。著者は冒頭で、このことを分かりやすい例を挙げて説明しています。

それは、

・1940年代を舞台にした映画で、ホロコーストの生還者がモンテカルロのカジノにスーツケース一杯の現金を持ち込むシーンがある。その現金は当時のモンテカルロの公式な通貨であったフランではなくて、米ドルだった。

・現在でもブラックマーケットで通用する通貨といえば米ドルでしかない。

分かりやすいですね。第二次世界大戦のころの欧州のような政治的にも経済的にも混乱している場所で、人々が安心して価値を認めるものといえば米ドルだった。また、ブラックマーケットのような公式な権威がない世界でもやはり米ドルが信頼される。そりゃそうでしょう。ブラックマーケットでドラッグを取引するとき、北朝鮮かなんかの通貨で支払いをするといったら怒られますよね。

で、なんで米ドルが信頼されるかというと、世界中のどこででも受け取ってもらえるからです。ドラッグを売ったギャングが受け取った米ドルでマシンガンを買おうと思ったら、やっぱり米ドルでの支払いを要求されるわけですね。米ドルの価値は他の通貨に比較的安定した価値で交換してもらえると信じられていることも理由です。ギャングがフランスのニースかなんかで別荘を買おうと思ったとき、米ドルをユーロに交換してもらうことは難しくない。それにギャングは為替レートがそんなに急激に米ドル安に触れることはないだろうとも考えているわけです。もちろん実際には米ドルが安くなることはあるわけですが、それでもユーロを含めた他の通貨よりも安定しているということですね。

で、著者は、

“What is true of illicit transaction is true equally of legitimate business.”

と続けます。米ドルが国際通貨であるこということは、世界中の政府や中央銀行や企業や消費者が、ギャングたちと同じように考えているということです。なるほど。

実際の話として、世界の中央銀行が保有している準備資産の多くは米ドルです。米ドルの価値が安定してると考えられているからですね。世界で行われている商取引の多くが米ドルなのも、米ドルを受け取れば、それを支払いにも使えるからです。

で、なんでそんな風になっているかというと、米国の経済が大きいからです。

米国企業はたくさんの製品や資源を輸入しています。このとき、米国は米ドル建てで支払いをしたい。なぜなら、米国企業は米国内での経済活動で米国の消費者からたくさんの米ドルを集めていて、手元にたくさん米ドルがあるからです。もちろん米ドルを他国の通貨に交換したうえで支払うことも可能ですが、それには手間がかかるし、金融機関に手数料もとられます。

一方、製品や資源を米国に輸出する側の国は、できれば自分たちの国の通貨でお金を受け取りたい。米ドルを受け取っても、自国で働いている従業員の賃金支払いには使えないし、自国の生産拠点の設備投資には使えないからです。そのためには、米ドルを自国通貨に交換しなければならないわけですが、それには手間もかかるし、金融機関に手数料もとられます。

で、どっちの主張が通るかというと、米国なのです。というのは、米国はたくさんの製品や資源やサービスを輸出している国でもあるからです。米国に製品や資源を輸出する側が米ドル建てで代金を受け取った場合、今度はその米ドルを米国から製品や資源やサービスを輸入するときに使える。だから、米ドルを受け取ることへの抵抗感が比較的少ないわけです。

つまり、米国にモノを売る国が米国から「米ドルで支払っていい?」と聞かれたら、「いいよ。受けとった米ドルは次に米国からモノを買うときに使えるからね」と答えることが多いということですね。

これが米ドルが国際基軸通貨であるという状況です。この結果、米国企業は米ドルを他国通貨に交換する手間やその際の手数料を省くことができます。これが著者のいう”exorbitant privilege”のひとつです。この言葉は、フランスのジスカール・デスダンが言い出した言葉だそうです。

こうした米国の特権はほかにもあります。それは米ドルが国際基軸通貨であることで、米国の政府や企業は安い金利で資金を調達できるということです。

どういうことかというと、米ドルは国際的に流通して、他の通貨との交換も容易で、すでに各国に蓄えられていますから、米国がドル建てでお金を借りたくなったとき、世界中から「貸してもいいよ」という人たちがたくさん現れます。だから、米国側はそのなかから一番安い金利で貸してくれる人をみつけることができるというわけです。

一方で米国は他国に対して投資もしていて、その結果として利子や配当などのリターンを得ています。つまりは米国は全体として、他国からお金を調達しながら、他国へお金を投資しているわけですが、調達するときのコストが安いために、全体としての勘定がプラスになります。著者によると、「米国が支払う利子は、米国が受け取る利回りよりも2~3%低い」とのことです。

著者はこの説明のあと、”The U.S. can run an external deficit in the amount of this difference, importing more than it exports and consuming more than it produces year after year without becoming more indebted to the rest of the world. Or it can scoop up foreign companies in the amount as the result of the dollar’s singular status as the world’s currency.”と続けています。

ここは国際収支統計上の、経常収支赤字=資本収支黒字+外貨準備増減っていう関係の話をしているように思います。でも、「米ドルは基軸通貨で調達コストが安いから、経常赤字を出すことができる」っていうロジックになるのかどうかはよく分かりません。大事なところですけどね。また勉強します。


とまぁ、こういう風に米国は米ドルが国際基軸通貨であることで、さまざまな特権を得ているということになります。ただ米ドルが国際基軸通貨である理由は、米国経済が大きいからです。だから、米国は何もズルをしているわけじゃなくて、強い国だから特をしているんだというわけですね。



では、この米ドル国際基軸通貨体制が今後も続いていくかということになるわけですが、それを判断するには歴史をひもとく必要があります。なぜなら米ドルは世界が始まったときから国際基軸通貨だったわけではないからです。



当たり前の話ですが、北米大陸に欧州から人々が移住し始めたころには米ドルという通貨はありませんでした。1600年代の初めごろは、先住民との交易には”wampum”(貝殻)を公式な通貨として使っていたそうです。

ところが貝殻が足りなくなってくると、トウモロコシやタバコが使われるようになります。そして、そうなると、入植者たちには低い品質のタバコをたくさん栽培し始めます。そうすると、タバコを受け取る方は「こんな低い品質のタバコはいらないな」なんていうことになって、タバコの価値が低下する。となると一部の入植者が他の人のタバコ畑を荒らしたりする。そんな時代だったそうです。

当時の英国は植民地で貨幣を鋳造することを禁止していました。だから入植者たちが貨幣を手に入れるには、英国などに農産品とか魚などを輸出するのが公式な手段でした。また海賊行為で貨幣を手に入れるというパターンもあった。こうして北米大陸ではスペインの通貨が流通するようになります。このスペインの通貨がロンドンでは”Spanish dollar”と呼ばれていて、これが米ドルの始まりです。さらに貨幣が足りなくなってくると、”bills of credit”つまりは支払手形も通貨の代わりとして流通するようになります。ただし、英国の議会は1751年、借用書を通貨として使うことを禁止。このことが米国の独立戦争につながっていきます。

ここは勝手な解釈ですけど、「貝殻が足りない」とか「貨幣が足りない」とかいう状況がどんなものかを考えてみます。

例えば、入植者たちが先住民にビーバーの毛皮が欲しいと話しを持ちかけたところ、先住民たちが「貝殻とだったら交換してもいい」と言ったとします。さらに入植者たちはトウモロコシなら持っているけど、貝殻は持っていないとします。となると、入植者たちはどこかでトウモロコシを貝殻に交換してこなければならないわけですが、近くにトウモロコシと貝殻を交換したいと思っている先住民や入植者がいないことだってある。そんな場合は、入植者が先住民に対して、「申し訳ないけど、貝殻はないんだ。でもトウモロコシならあるから、トウモロコシとビーバーの毛皮を交換してくれないか」と持ちかけるしかない。そこで先住民側が「いいよ。トウモロコシと貝殻を交換したがっている友達がいるからね」ということになれば、「貝殻が足りなかったけど、トウモロコシが貝殻の代わりになって取引が成立した」ということになる。こんな感じでしょうか。

貨幣が足りないという状況も勝手に解釈してみると、陶器作りが得意な入植者が別の入植者からパンを買おうと思ったけれど、手元に貨幣がない。でも、何日か前に陶器を売ったとき、買い手から「1週間後に払うよ」と約束してもらった際の支払い手形なら手元にある。そこでパンを売っている入植者に、「この支払い手形を受け取ってくれないか。貨幣は1週間後に陶器を買った人から回収してよ」ということになる。そこでパンの売り手が「いいよ。その陶器を買った人は信用できる人だからね」ということになれば、「支払い手形が貨幣の代わりになって取引が成立した」ということになる。こんな感じじゃないですかね。

でも、本来ならトウモロコシは貨幣じゃないし、支払い手形も貨幣じゃない。だから受け取る側が「そんなもの受け取れないよ」ということだってありえる。そうなると、ビーバーの毛皮を買おうと思った入植者や、パンを買おうと思った入植者は困ってしまうわけです。その結果、取引ができなくなるわけだから、入植地の経済活動全体が停滞してしまう。トウモロコシや支払い手形をすぐに貝殻や貨幣に交換してくれるだけの市場があればいいんですけどね。

で、そんなこんなしているうちに米国が1776年に独立。1785年に連邦議会が米国の通貨単位は「ドル」ですと宣言します。銀や金との交換比率も純度に応じて定められました。議会のみが貨幣を鋳造することができ、州政府がIOU(借用書)を紙幣として発行することは禁じられます。


そして当たり前の話ですが、当時の米ドルは国際通貨ではありません。


19世紀まで世界経済の中心はロンドンでした。英国人は世界各国に投資しています。外国の誰かがお金を借りたいと思ったら、ロンドンに行ってポンド建てでお金を借ります。外国政府がロンドンで資金を調達したいと思ったら、ロンドンの銀行に口座を開いて、借り入れや返済の手続きをすることになります。こうした口座は”reserve”と呼ばれるようになります。

英国は各国から綿花などさまざまな産品を輸入していました。あと、海運やそれに関連する保険業務などを行う会社もロンドンに拠点を置いています。こうした会社は決済のためにロンドンの銀行に口座を開きます。もちろんポンド建てです。

こうしたロンドン中心の商取引は米国の企業家にとっては不便なものでした。例えば、ニューヨークの企業家がブラジルからコーヒー豆を輸入しようと思ったら、ニューヨークの銀行とロンドンの銀行とブラジルの銀行の間で、ものすごく煩雑な手続きが必要になり、その度に手数料や何やらをとられてしまいます。しかも、これらの取引はポンド建てですから、ポンドの価値がドルに対して下がった場合には損が出る可能性もあります。また、米国の銀行や保険会社がこうした商取引に関連する業務に参入しようとしても、英国の銀行や保険会社には敵いません。取引はロンドンでポンド建てで行われているからです。

一方、米国は急速に経済力をつけていきます。1870年までに米国のモノやサービスの生産量は英国を追い抜き、1912年までには輸出量でも英国をしのぎます。でも、英ポンドは国際基軸通貨であり続けます。

その理由はいろいろありますが、金融サービスの業務が英国に集中し、資金を集めようとする人が投資をしようとする人たちがロンドンに集まっていること自体が、ロンドンの優位性を高めていたという事情が大きかった。つまり市場参加者が多いために、調達する側はより安い金利で調達できるし、投資する側も優良な投資先を見つけられるということです。「現役王者の強み」ですね。

また、米国は銀行が海外に支店を持つことを禁じていました。さらに米国では中央銀行すらないという状況だった。ロンドンでは銀行が現金を必要とするようになれば、手持ちの債券をBOEに引き受けてもらって現金を手にすることができましたが、米国ではそうしたことができなかったわけです。

米国では1791年、ハミルトンが主導してフィラデルフィアにthe Bank of the United Statesが設立されました。州をまたいで営業できる唯一の銀行で、連邦政府の財政も管理することになります。ハミルトンの狙いはBOEのような中央銀行を作ることでした。しかしジェファーソンやマディソンは、一部の銀行に特権的な地位を与えることについて、「エリートによる米国金融業界の独占支配」の危険を感じ取ります。The Bank of the United Statesが提示するレートが悪かったり、一部の銀行の独占的な地位に監視の目をきかせるようになると、「エリートによる介入だ」と不満を感じるようになったわけです。

そんなわけで、1810年に迎えたThe Bank of the United Statesの認可の更新は、ジェファーソンが主導する民主党の反対で否決されました。

しかしその結果、各州の銀行が勝手に紙幣を発行したりして空前の貸出ブームとなり、インフレが起き、景気はクラッシュします。で、1816年になって、Second Bank of the United Statesがフィラデルフィアに設立されることになりました。しかしこのSecond Bankもジャクソン大統領と金融業界の反対で1836年に認可の更新に失敗。米国は再び中央銀行がない時代に入ります。1907年に起きた金融危機の収束に際して、民間銀行のトップだったJ. Pierpont Morganが大きな役割を果たしたのには、こうした米国の事情がありました。

で、やっぱり中央銀行が必要だろうという機運が盛り上がり、中央銀行支持のNelson Aldrich上院議員らのグループがドイツ生まれのPaul Warburgに計画策定を託します。一部の銀行にだけ特権を与えるような制度には反対が強いことを考慮して、ウォーバーグは1911年、それぞれが債券引き受けの権限を持った15の地域銀行で構成されるNational Reserve Associationの設立計画を発表。各銀行のトップは地域の民間銀行によって選ばれるという仕組みを公表しました。

ただ、Aldrichの娘がロックフェラー家に嫁いでいたことから、この計画には「ロックフェラーを利するだけのものだろう」という印象を持たれてしまいます。また計画を策定したグループのなかにNational City Bank(シティグループの前身)のトップが含まれていたことも疑念をかきたてました。しかしその後、約2年間の審議を経て、トップが民間銀行によって選ばれる地区銀行の連合体を作り、それにFederal Reserve Boardが監視の目を光らせるという体制が作られることになりました。1913年のことです。同時に米国の銀行が海外に支店を持つことも認められるようになりました。

その後、第一次世界大戦が始まると、米国の輸出は急増。世界経済における米国の存在感は急速に大きくなって、米国は債務国から債権国に転じます。戦争で現金が足りなくなったドイツや英国は債券の引き受けをニューヨークの銀行に頼むようになります。この取引はドル建てで行われるようになりました。1915年ごろにはポンドと金の交換レートが不安定になる一方で、米ドルは金との交換レートが強く固定されていました。すると世界中の市場参加者が「ビジネスをするにはドル建てが一番だ」と考えるようになります。

米国政府はとりあえずはドル・ポンドレートの維持に協力しますが、英国の戦費拡大やインフレを背景にポンドに対する信頼は失墜。戦後になって米国がレート維持への協力を取り下げると、ポンドのレートは弱くなっていきます。こうしたなかで、National City Bankなど米国の銀行が海外業務を拡大していきます。

ただ、それでもニューヨークの債券市場の深みは、現役王者のロンドンには敵いません。そこでニューヨーク連銀の総裁だったBenjamin Strongが各地区連銀に対して債券を活発に引き受けるように指示。海外の中央銀行などからも債券を引き受けるようになります。こうした取り組みの結果、ドル建て取引の人気は高まり、1920年代後半には米国の輸出入の半分以上がドル建てとなり、米国を介さない第三国同士での取引でもドル建ての比率が増していきます。

また米国は欧州の復興資金を供給するようになります。英国は欧州各国に「米国ではなく、国際連盟(米国は非加盟)を通じて資金を調達しよう」と呼びかけますが、ストロングは欧州への貸出を積極的に推進することで対抗し、ドルの国際化がどんどん進んでいくことになりました。

しかし経験不足の米国の銀行は欧州の質の悪いプロジェクトにも資金を供給してしまい不良債権化が進行。1920年代の終わりには借り換えも続けられないようになって、世界恐慌につながっていくことになります。

世界恐慌の時代、各国政府は関税引き上げなどの保護主義的な政策をとり、世界の貿易量が減っていきます。貸し付けを回収できなくなった銀行は世界中で破綻。世界中というのは、アルゼンチン、メキシコ、オーストリア、ベルギー、フランス、ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、バルト各国、エジプト、トルコ、英国っていうことですから、本当に世界中です。

英国なんかは資金流出を防ぐために利上げをしたいところでしたが、利上げをすると景気に悪影響が出ます。英国のためらいを察した投資家はポンド売りを加速させ、英国は1931年9月にポンドの金兌換を停止します。一方、ニューヨーク連銀はドル防衛のため、利上げを実施。結果、ドルの資金流出の危機は収まりますが、調達コストが増した金融機関は数多く破綻することになります。

英米の異なる金融政策の結果、1ポンド=4.86ドルだったレートは、1931年12月には1ポンド=3.25ドルまでポンド安が進みました。すると英国にとっては輸出が楽になるわけで、英国で緩やかな景気回復が始まります。英国はこれを好機とみて、利下げに踏み切って"cheap money"政策をとります。米国も1933年に金兌換を停止。1936年までには各国も同様の政策をとります。世界恐慌のダメージは英国よりも米国の方が大きく、長かったため、国際経済におけるドルの地位は後退しました。

しかし第二次世界大戦後の世界は別です。世界の主要国のなかで強さを維持できたのは米国だけだったからです。米国は金1オンスを35ドルで売ると約束したため、価値が保証されたドルは世界中の取引で使用されることになります。また、各国の中央銀行は金を蓄えるという選択肢もありましたが、当時の主な金の産出国はソ連と南アフリカで、金は十分に供給されていませんでした。


で、ここがキモですが、著者は

American consumers and investors could acquire foreign goods and companies without their government having to worry that the dollar used in their purchases would be presented for conversion into gold. Instead those dollars were hoarded by central banks, for which they were the only significant source of additional international reserves. America was able to run a balance-of-payments deficit "without tears," in the words of the French economist Jacques Rueff. This ability to purchase foreign goods and companies using resources conjured out of thin air was the exorbitant privilege of which French Finance Minister Valery Giscard d'Estaing so vociferously complained.

と書いています。

訳しますと、

米国の消費者や投資家が外国の製品や企業を買った場合でも、米国政府は(海外の売り手から)支払いに使われたドルを金に交換するように要求されることを心配する必要もなかった。むしろ、支払いに使われたドルは海外の中央銀行に蓄えられた。こうした取引は海外の中央銀行にとって、準備資金を調達するための唯一の手段だった。フランスの経済学者、ジャック・ルエフの言葉を借りるなら、米国は「涙を流すことなしに」貿易赤字を出すことができる。空気のなかから魔法のように取り出された資金を使って外国の製品や企業を買うことができる能力は、フランスのジスカール・デスタン財務相が強く不満を示した途方もない特権だった。

ということですね。

つまり、米国だけが自国通貨であるドルを発行しさえすれば、自由に他国から物資を買うことができるという状況です。

ただし第二次世界大戦後の各国は米国に売るような製品を作ることはできない状況です。なので米国はマーシャルプランやドッジプランのようなかたちで、欧州や日本の復興のための資金を拠出します。マーシャルプランは1年目、米国の連邦予算の10%を占める規模でしたから、とんでもない大盤振る舞いでした。この結果、1950年代の終わりには「ドル不足」は解消されます。

それと並行して、1960年には、各国が保有するドルの額は米国が保有する金の量を超えました。各国のドル保有者が一斉に金への兌換を求めれば、米国は対応しきれない状況で、このままでは各国が保有するドルの価値が値下がりする恐れがあります。一方、だからといって米国がドルの供給を止めてしまえば、ドル不足が再燃して世界の経済活動が停滞してしまう。いわゆる「トリフィンのジレンマ」です。

こうしたなか、各国には「米国はドルの金への兌換に応じられるように、先手を打って金の価格を引き上げる(ドル金レートを引き下げる)のではないか」という観測が生じます。そうなると各国は「今のうちにドルを金に交換してしまおう」という誘惑にかられます。

つまり、米国が1オンス=35ドルでの交換を保証しているなか、ロンドン市場での金の取引価格は1オンス=35ドルで推移しています。しかし将来的に米国が金の価格を引き上げるのであれば、今のうちにロンドン市場で金を買っておいて、後になって金を米国に持ち込めば利益を出すことができます。こうした思惑のなかで、ロンドン市場では金の価格が値上がりします。ウィキペディアによると、大統領選があった1960年の終わりにはロンドン市場の金価格は1オンス=40ドルを超えました。

そこで米国は1961年に「金プール」を提案します。各国が金をプールに拠出し、金を買う動きが強まった場合に「金売りドル買い」を浴びせることで、市場での金とドルの交換レートを維持しようという狙いです。こうしたプールを作るだけで、各国の「金買いドル売り」の誘惑を抑え込むこともできます。

しかし1965年になってソ連や南アフリカによる金の供給が落ち込むと、金買いの圧力が強まり、各国は実際に金売りを始めざるをえなくなります。となると、値下がりが続くドルを買い続けることになるわけですから、各国は厳しい状況に追い込まれ、1967年にはフランスがプールから脱退します。

また1967年には第三次中東戦争が起きて、スエズ運河が閉鎖される事態に発展。アラブ各国はイスラエルを支援していた英国への報復としてポンド売りを始め、英国はポンドの14%切り下げに追い込まれます。するとドルへの不安も高まり、ドルを売って金を買う動きが進みます。金プール参加国はドルの防衛を続けることができず、米国は1968年3月、英国に対してロンドンの金市場を閉鎖するように提案。金市場を自由に取引できる市場と、各国の中央銀行が1オンス=35ドルでの交換を保証する市場に分けることになります。ただ、これは単なる弥縫策にすぎません。

一方、1969年にニクソン大統領が就任した米国は、ドル危機は欧州各国が米国の防衛費を負担し、米国に市場を開放することで解消されるべきだという立場をとります。

いまいち、よく分からない理屈ですが、「第二次世界大戦後、米国が世界にドルを供給してきたことがドルの信任低下につながったのだから、ドルを米国に環流させればドル危機も解消される」ということだったのでしょうか。

さらに米国は、欧州が要求に応じない場合には、次の手段をとると脅迫します。すると、こうした米欧の対立は投資家の不安をあおり、米国の思惑とは裏腹にドルを売って金を買う動きが加速。この結果、1971年8月、米国はドルの金兌換停止を発表しました。ニクソン・ショックです。

このとき、ニクソンは同時に米国企業を守るために10%の関税引き上げを発表します。米国が通貨防衛に敗れたとの印象を避ける効果も狙っていました。

ニクソンは1971年12月のスミソニアン協定で、この上乗せ関税を取り下げることと引き替えに、各国に対してドル安水準での固定相場を維持することを約束させます。さらにニクソンは1972年の大統領選前に景気を浮揚させることを狙って、FRBに対して金融緩和するよう圧力をかけます。この結果、米国でインフレが始まり、ドル売り圧力も高まります。スミソニアン体制は1973年に終焉を迎え、各国は変動相場制に移行していきます。

こうなると、「ドルの信頼はガタ落ちじゃないか。ドルは国際基軸通貨の座を追われてしまうの?」っていう気もしますが、実際にはそうはなりませんでした。ゴルのレートは引き下げられたものの、各国の中央銀行に占めるドルの割合は大きく変化しませんでした。変動相場になったといっても、一方的にずーっとドルが値下がりを続けたわけではなかったからです。

ただし、1970年代後半になると、米国でインフレが始まります。ドル安要因です。一方、カーター政権のブルーメンソール財務長官は1977年夏に「ドルが強すぎる」と発言。ドル安を望んでいることを示唆しました。つまり、ドル安を容認するということです。すると、欧州から「ドル安になったら、欧州の輸出が苦しくなる。米国はドル安容認を止めろ」という声があがり、ブルーメンソールは一転して「強いドル」の支持を表明します。

1978年3月にFRB議長になったウィリアム・ミラーはとにかく雇用の増大を重視すべきだという人で、中央銀行がインフレを抑制する能力は乏しいと考えている人でした。FRB外のアラン・グリーンスパンやチャールズ・シュルツらはインフレを抑えるために金融を引き締めるべきだとの声が上がっていましたが、ミラーは抵抗します。すると、当然ながら、ドルが安くなっていきます。ドルが安くなると、欧州に駐留する米軍の負担が大きくなるという問題が起きますし、もちろん米国外のドル保有者にも損が出ます。

そんなわけで1979年8月、ポール・ボルカーがFRB議長に就任します。利上げを行って、ドル高が始まります。やはりドルは基軸通貨であり続けます。そもそも、ドル以外の通貨に、基軸通貨となるような実力がないのが実情です。



で、ここまでが第3章です。この本は第7章まであります。非常に長くなってきたので、このあたりで止めます。



第4章以降では、欧州でユーロが創設される話やリーマン・ショックの話、ユーロや円がドルを凌駕する基軸通貨になりきれない理由などです。SDRの話も結構出てきます。

中国の人民元については第3章までも折に触れて言及されていますが、「国際通貨としての存在感を増してはいるし、中国政府も基軸通貨にしようと努力を続けている。このあたりはかつての米国とよく似ている。ただし、ドルがポンドをしのぐ基軸通貨となれたのは、第二次世界大戦後の英国経済の失墜という要因があった。米国経済が健全さを保ち続けることができれば、現役王者であるドルが人民元に完全に負けてしまうことはない」という話です。


あと、今になってざっとチェックしてたところ、レーガン政権下での1985年のプラザ合意の話が出てきません。日本にとっては非常に大事な話なので残念ですけど、また別の機会に勉強します。


いずれにしろ大変勉強になりました。