2017年8月30日水曜日

"The Curse of Cash"

"The Curse of Cash: How Large-Denomination Bills Aid Crime and Tax Evasion and Constrain Monetary Policy"という本を読んだ。2016年にハーバード大学のケネス・ロゴフ教授が出した、100ドルとか1万円みたいな高額紙幣がいかに犯罪や脱税に使われていて、金融政策の足かせにもなっているかということを解説した本です。タイトルそのまんまですね。

ロゴフ教授といえば、"This Time is Different"という国家の財政破綻の歴史について書いた本で有名になった人です。留学中にとった授業で教科書に指定されていたことと、その授業でBをとってしまったことが懐かしい。バーマン教授には心から御礼申し上げます。

で、この本でいわんとすることはさきほど書いた通りです。実際には高額紙幣がどのぐらい使われていて、それがどのぐらい犯罪や脱税に関わっているかなんていうことはオフィシャルな統計で示せるわけではないのですが、ロゴフ教授は入手可能なデータを駆使して、さらにそこに色んな仮定を重ねて、自説を補強していきます。現金がいかに闇経済で使われているかというのは、以前に読んだExorbitant Privilegeでも触れられていました。まぁ、具体的な規模は分かりませんが、そりゃそうだろうなという気はします。

あと、金融政策については、マイナス金利政策の効果が高額紙幣によって損なわれると主張します。中央銀行は景気を刺激するために金利を引き下げるわけですが、政策金利がゼロにまで到達してしまうと、そこから先は金利を引き下げることはできない。そこで量的緩和政策なんていうのが発案されたわけですが、それがどのぐらい景気を刺激する効果があったかどうかはよく分からないわけです。そこで、日本や欧州はマイナス金利を採用するようになりました。ところが中央銀行がマイナス金利をかけて景気を刺激しようとしても、預金者が銀行口座のお金を現金化してしまえば、そこにはマイナス金利の影響は及ばないわけです。だから、大きなお金の金額の現金化のツールである高額紙幣が金融政策のあしかせになっているといえるという主張です。

ロゴフ教授はここから、だから高額紙幣は廃止するべきだ。各種カードによる電子決済が普及している先進国だったら十分に可能だし、それで犯罪を抑え込み、金融政策の効果も大きくなるんだったら、いいことじゃないかと話を進めます。

こういう主張をすると、中央銀行の通貨発行益(シニョレッジ)が失われるからだめだとか、低所得者はカードなんて持っていないんだから困るだろうとか、犯罪者は高額紙幣が廃止されたって別の抜け道を見つけるだろうとか、マイナス金利みたいな銀行から強制的にお金を巻き上げるようなことをしていいのかとか、いろんな反論が出るそうです。で、ロゴフ教授は、そうした反論の有効性をひとつひとつ検証して、やっぱり高額紙幣廃止によるメリットの方が大きいですよね、と結論づけます。

まぁ、それだけの本です。ハーバードの教授が高額紙幣を廃止したらいいんじゃないのと思いついて、自説の正しさを証明するために反論を丁寧につぶしていく。ただ、個人的には高額紙幣廃止で犯罪が抑制できるんだからそれでいいじゃないかと思うんですが、別にそこまで説明してくれなくてもいいよっていう感じもします。「電子決済が普及しているんで、高額紙幣はなくてもいいですよね」って一言だけ言ってくれれば、みんなそれで納得するんじゃないか。

ただしシヨレッジについて丁寧に説明してくれるのはありがたかったです。中央銀行は通貨を発行することで利益を得られるっていうのはいろんなところで見聞きするんですが、具体的にはどういうことが行われているのかよく分からなかったからです。「何か物が欲しいときに印刷機を動かして好きなだけ紙幣を作っているの?」なんていう風にも思えるわけですが、実際には以下のような手順を踏んでいるそうです。

1.政府が収入以上にお金を使って、それを賄うために債券(debt)を発行する
2.中央銀行が市中からdebtを買い取る。この際、electric bank reserve (which are the electric equivalent of cash)を発行する
3.bank reserveに対して中央銀行が払う利息よりも、debtから得られる利息の方が大きいので中央銀行には長期的に利益が出る

2のところがミソなんでしょうけど、中央銀行は市中からdebtを買い取るときに売り手である銀行に現金を渡すわけじゃなくて、銀行の当座預金の残高の数字を変更するだけなわけですね。これが現代における通貨の発行だというわけです。で、いつでも引き出し可能な当座預金につく利息は、政府が発行した債券につく利息よりも小さい。だから3のところで中央銀行に利益が出る。これがいわゆるシニョレッジ(通貨発行益)というわけです。

だから、高額紙幣が廃止されて、印刷機を動かせなくなっても、中央銀行は利益を出すことができます。ロゴフ教授は"even if paper money revenue disappeared completely, the central bank would still earn money from electronic reserves"と明言しています。

ちなみにこの通貨発行益は中央銀行から政府に納められます。結局、政府は一切損をしていないようにも思ってしまいそうですが、実際には当座預金についた利息分は政府の負担が生じているのだと思います。ここは私の勝手な理解です。


また、ロゴフ氏は高額紙幣を廃止する際には、政府・中央銀行は債券を発行して高額紙幣を買い取らねばならない(it will have to issue ordinary interest-bearing debt to buy back the currency it is retiring)と書いています。

ここのところは直感的によく分からなかったのですが、多分、こういうことです。

1.「高額紙幣を廃止するぞ」とのお達しに従って、銀行が金庫に入っている大量の1万円札を中央銀行に持ち込む
2.中央銀行は銀行から受け取った金額を銀行の当座預金に電子的に記入する
3.でも、この受け取った大量の1万円札は無効になったただの紙切れだから、現金としてはもう使えない
4.だから、中央銀行の損失を埋めるために、政府は債券を発行して資金を調達せねばならない

どうでしょう。これで正しいんでしょうか?

とまぁ、こんなことをつらつらと説明している本です。
This time is differentのときは「そうか。やっぱり政府が負債を積み上げすぎるのは問題だな」という気がしましたが、今回は「知らんがな」という感は否めません。

2017年8月17日木曜日

"The Healing of America"

"The Healing of America: A Global Quest for Better, Cheaper, and Fairer Health Care"という本を読んだ。T. R. Reidという、慢性的な肩の痛みを抱えるジャーナリストが世界各国の医者にかかりながら、各国の医療制度について探求し、米国の医療保険制度の問題点をあぶり出すという内容です。2010年8月出版。オバマケア関連法案成立して間もないころですね。

とても面白かった。American Sicknessよりも格段に読みやすい。米国医療がいかにしてダメになっていったかということはAmerican Sicknessでこれでもかと言わんばかりに書かれていたわけですが、こちらのThe Healing of Americaでは、他の国はどうしてダメになっていないのかということが書かれています。さらに、かつてはダメな制度だったのに改革に成功した、台湾とスイスのケースも紹介しています。なのでAmerican Sicknessよりも救いがあります。

書かれていることは単純。米国の医療制度をまともなものにするには、国民が「全員が医療保険に加入できるべきだ」という考え方で一致できるかどうかがキモだということです。世界の医療保険制度はいろんな仕組みがありますが、米国以外の先進国はすべてこの考え方に基づいています。

ところが米国ではこういう主張をすると、必ず「社会主義化された医療制度だ! ムダだらけで、革新も生まれない。国民の医療への選択肢も狭められる。自由を尊ぶ米国の理念に反する」という反発が出ます。そういった主張に、現在の医療保険制度で恩恵を受けている医療保険会社や医療機関、製薬会社が乗っかってロビー活動を展開するので、議会は動きがとれなくなります。オバマ大統領に上院60議席、下院過半数の議席を与えたって、問題は解決できなかったわけですからなかなか根深い問題です。

そこでリードさんは、こうした「社会主義化された医療制度だ!」という批判は的外れだと繰り返し説明します。

まず、他の先進国の医療制度は別に社会主義化されているわけではないという点です。

リードさんは先進国の医療制度を以下のように分類します。

ビスマルク型(ドイツ、日本など)=医療保険提供者が民間、医療サービス提供者も民間
ベバリッジ型(英国、北欧など)=医療保険提供者が国、医療サービス提供者も国
国民健康保険型(カナダ、韓国など)=医療保険提供者は国、医療サービス提供者は民間

まぁ、ベバレッジ型は国が全面的に関与していますから、バリバリの自由経済主義者からみれば「社会主義的」といえるかもしれません。でも英国を社会主義国だと思う人は多くはないです。あとビスマルク型や国民健康保険型は民間が関与していますから、社会主義ってわけじゃないですよね。

ただし、こうした民間が関与する仕組みでも規制はきついです。例えばビスマルク型として取り上げられている日本は、医療保険は主に企業別の医療保険組合が提供していて、医療サービスも民間がやっているわけですが、医薬品の価格なんかは政府がコントロールしているわけです。それは「すべての国民が医療保険に加入できるべきだ」との考え方から正当化されます。こうした厳しい規制のおかげで日本の医療費は国際的にみて安いですし、しかも患者は自由に医療機関を選べる。

ベバレッジ型は医療保険も医療サービスも国が主体です。そのおかげで患者は病院に行っても請求書を受け取ることはありません。それだったら患者が好きなだけ病院に行くことになって医療費が高騰しそうなものですが、「国はすべての人を保険でカバーするけれど、すべての医療行為をカバーするわけじゃない」という立場をとっているため、たいしたことのない病気であったりすれば病院にかかる前に行くことになる"general practitioner"のオフィスの段階で「病院に行かなくていいですよ。様子をみましょう」ということになる。また、すべての医療費は国民の税金で負担することになりますから、有権者や政治家も医療費の無駄遣いには敏感です。「94歳の女性への人工関節手術を認めるべきか」「50歳以上の男性すべてに前立腺がんの検査を認めるべきか」といった問題が、医学的なエビデンスの基づいて議論されたりします。

国民健康保険型も医療保険を国が提供するわけですから、どんな治療に対しても費用を払うというわけではないです。医療サービスは民間ですから、民間同士の競争がありますし、国がいくらでも医療費を払ってくれるわけじゃないので、コスト意識が働きます。

もちろん、それぞれの制度には問題点があります。日本なんかは「医療従事者の報酬が低い」なんていう問題点も指摘されます。ベバレッジ型の英国や北欧は米国に比べて税金が高いです。国民健康保険型のカナダなんかは、緊急性がない治療の場合は、受診までに数カ月~1年以上も待たねばならないという問題があります。

ただ、それだって米国の医療制度よりは格段にいいわけです。一人あたり医療費は安いし、健康を維持できる年齢も高い。どこの国だって「米国みたいにはなりたくない」と思っています。それなのに、どうして米国が現在の米国の医療制度にこだわる必要があるのかというわけです。


リードさんはさらに、米国内の「他の国の医療制度は自由を尊ぶ米国の理念に反する」という意見も的外れだとします。それは米国の医療制度のなかには、すでにこれらの仕組みが根を張っているからです。

例えば、高齢者向け公的医療保険のメディケアは国が医療費を負担して民間が医療サービスを提供していますから国民健康保険型です。退役軍人向けには専門の病院もありますから、これは医療保険も医療サービスも国が提供するベバリッジ型です。そのほかの企業が提供する医療保険に加入している米国人にとっては、ビスマルク型の医療保険制度が存在しているわけです。

ただ、米国には「全員が医療保険に加入できるべきだ」という理念がないために、どの制度からもこぼれてしまっている人たちがいます。メディケアに入れるほど年寄りではないし、低所得者向けのメディケイドに入れるほど所得が低いわけでもないし、医療保険を提供してくれる会社に勤めているわけでもないし、退役軍人でもないという人たちですね。この人たちは行き所がないです。利益目的の保険会社に高い保険料や高い自己負担額を強いられ、病院からも高い医療費を請求されて、生活を維持できなくなってしまうような人たちです。さらに医療保険を提供してくれる会社に勤めていたけど、病気で仕事を続けられなくなって退職したら、医療保険がなくなったなんていう事態も起きるわけです。

また、こうした医療保険制度のパッチワーク状態が余計なコストを生みます。オバマケアはこのパッチワークに拍車をかけました。

リードさんはこう書いています。

Facing an entrenched army of well-financed and powerful interests determined to preserve the status quo, Obama declared from the start that he would not seek to replace the existing health care system with a simpler, cheaper model. "We have to build on what we've got already," Obama said. The result was an enormously expensive and complicated piece of legislation ---the "Obamacare" bill runs to 2,400 pages of legalese ---that retains most of the structure of the U.S. system ....

もちろんリードさんはオバマケアが結果的に無保険者を大幅に減らすであろうことや、保険会社が病歴のある人の加入を断ることを禁じる制度を作ったことは高く評価しているわけですが、根本的な問題解決にはほど遠いということなんでしょう。

あと、リードさんは医療保険制度の抜本的な改革に成功した台湾やスイスの取り組みも詳しく取り上げています。どちらも、まず最初にリベラル側が「全員が医療保険に加入できるべきだ」と声を上げ、それを国民が熱狂的に支持し、保守側が人気とりのためにそれを受け入れたという展開だったようです。あと、どちらも経済が好調だったという背景もあるそうです。

米国では2016年に民主党の大統領候補指名争いで健闘したバーニー・サンダース上院議員が"single-payer"のシステムを目指しています。これは医療保険を国が提供するという意味です。オバマケアの失敗を踏まえたうえで、より抜本的な改革を実現させるということなのでしょう。

じゃあ、2020年の大統領選で79歳になったサンダース氏が当選。そのときには2018年の中間選挙と大統領選と同時に行われる議会選挙で、上下両院ともに民主党が過半数を握っていて、サンダース氏が訴える抜本的な医療保険制度改革をトランプ政権にこりた共和党も受け入れる。そんなシナリオはどうでしょうか。

どうでしょうか。米国人のみなさん。