2019年2月24日日曜日

Churchill

"Churchill"という本を読んだ。ポール・ジョンソンという英国の作家が2010年に書いた本です。

このところ第一次世界大戦ごろからの欧州の歴史に関する本を読んできて、やはり英国のことを知っておいた方がいいだろうと、ひいてはチャーチルを中心として英国史を解説してくれる本があれば分かりやすいんじゃないかと思って読んでみました。

ただ、ちょっと弱気になって「チャーチルの本なんて山ほどあるだろうから、まずは初心者向けの短いやつでも」と思って選んだ本です。192ページ。そしたらイマイチでした。ちょっとあっさりしすぎという感じ。チャーチルの人柄なんかについては詳しいのですが、歴史的な経緯についてもうちょっと丁寧に解説してくれる本が良かったです。

でもまぁ、ざっとした話は分かりました。

チャーチルが初めて首相になったのは1940年5月10日。ドイツがフランス侵攻を始めた直後のことだったそうです。前任のチェンバレン首相は1938年のミュンヘン会議でズテーテン割譲を認めるなどドイツに宥和的な政策をとってきましたが、ドイツの軍事的な拡大を招いてしまったという状況でした。

英国議会で後任候補にあがったのは、First Lord of Admiralty(海軍大臣)だったチャーチルと、外務大臣だったハリファックス伯爵。しかしハリファックス伯爵は首相になることを辞退し、チャーチルが首相に選ばれたという経緯だったそうです。チャーチルはチェンバレン内閣の一員でしたが、ミュンヘン会議などの対独宥和策には反対してきました。

チャーチルは第一次世界大戦後の1919年にSecretary of State for Warに就任し、空軍力の強化を進めるなど軍事には詳しかった。チャーチルは首相としてもさらに空軍力にこだわり、1940年末には戦闘機の性能でも生産能力でもドイツを上回るようになった。ドイツは英国への空爆で英空軍の拠点を破壊しようと試みますが、英国の空軍はこれを阻止。この”Battle of Britain”が第二次世界大戦の重要な転換点になったそうです。

あと、チャーチルは第一次世界大戦当時にも海軍大臣を務めていて、艦船の燃料を石炭から石油に切り替えていくことにも注力した。軍事通だったんですね。

まぁ、そんな感じです。

雄弁で茶目っ気があって、国民に愛された政治家。さらに戦後には全6巻の”The Second World War”を書いて、ノーベル文学賞までとってしまう。この本は第二次世界大戦当時の機密文書をチャーチル個人の所有物として政府に認めさせて書いたそうです。ヒトラーもムッソリーニもFDRも死んでしまい、スターリンは回想録を残さなかった。こうした中、チャーチルは戦後生き残った唯一の指導者として「正史」を書き切ったということなんだそうです。

ジョンソンさんはこう書いています。

“By giving his version of the greatest of all wars, and his own role in it, he knew he was fighting for his ultimate place in history. What was at stake was his status as a hero. So he fought hard and took no prisoners. On the whole he won the war of words, as he had earlier won the war of deeds.”

とんでもないオッサンですね。

2019年2月10日日曜日

Israel: A Concise History of a Nation Reborn

“Israel: A Concise History of a Nation Reborn” という本を読んだ。Daniel Gordisというイスラエルの作家が書いた本です。Gordisさんはエルサレム・ポスト紙が選んだ、世界で最も影響力が強いユダヤ人50人に選ばれたことがあるそうです。そこそこ有名な人なんだと思います。

この本を読んだのは、前の本”The Sleepwalkers”を読んだ後、キンドルからお勧めされたからです。以前、行動経済学の基礎を築いた2人のユダヤ人心理学者のストーリーを描いた”Undoing Project”を読んだとき、イスラエルの歴史を知りたいなと思っていたもんですから、これはなかなかのナイスお勧め。即決で購入しました。

イスラエルの建国のきっかけとなった19世紀後半のジオニズム運動の始まりから、2015年ぐらいまでのイスラエルの歴史を追った本です。勉強になります。ユダヤ人の立場からの歴史ですから、ちょくちょく「イスラエルは平和を愛しているのにアラブの奴らときたら」的な話が入ります。ただ、完全に中立な本なんて読みにくくて仕方がないでしょうからね。まぁ許容範囲に収まっていると思います。

ユダヤ人といえばナチスドイツに迫害されたイメージが強いですが、欧州では19世紀後半からユダヤ人への迫害は始まっていました。”pogrom”というユダヤ人に対する攻撃を指す言葉がありまして、こうしたpogromは1860年代のルーマニアとか、1871年のオデッサとかですでに起きていた。東欧では「ユダヤ人はキリストを殺した」なんていう宗教上の理由がつけられ、中・西欧では宗教とは切り離して、ユダヤの民族性そのものが迫害の理由になりました。

1879年、ドイツでは「ユダヤ人は社会にassimilateすることができない」として、anti-Semitismと名付けられた運動が始まりました。1880年代のロシアでは、学校に入学できるユダヤ人の数が制限され、1891~92年にかけては2万人のユダヤ人がモスクワから追放されました。そんなわけで1882~1914年の間、250万人のユダヤ人がオーストリア、ポーランド、ルーマニアなどを去りました。ロシアからは、第一次世界大戦直前の15年間で、130万人のユダヤ人が脱出しました。

マイノリティーにすぎないユダヤ人がどうして迫害されるのかっていう背景には、このころのユダヤ人は社会の中で重要な役割を占めるようになっていたという事情があるらしい。”Jews, or people of Jewish origin, now played critical roles in economics, politics, science and the arts.”という感じだったんだそうです。

例えばドイツなんかでは、ユダヤ人は人口の1%以下にもかかわらず、特に金融や政治の世界で高い地位を占めるようになりました。それが多くのドイツ人の反感を買うようになります。新聞や本、雑誌などで、greedy, capitalist, and corrupt Jewというイメージが形作られるようになり、ナチスドイツの時代につながっていきます。ユダヤ人以外の人たちからすれば、王様や領主みたいな人たちも十分な金持ちなんですが、彼らはなんだかんだ言っても民衆のために統治してくれたり、戦ってくれたりする。でも、ユダヤ人はなんだよ、っていう雰囲気もあったようです。

これまでに読んだ本でも出てきましたが、18世紀ごろにイギリスで始まった産業革命が各地に伝わり、社会の構造が大きく変化していった時代の話です。そういう背景の中で、社会の現状に不満を持つ人たちが、なんとなく自分たちとは違う生活や文化を維持しているユダヤ人を目の敵にするような運動が出てきたんでしょう。想像ですが。


そんな中、1897年にスイスのバーゼルでThe First Zionist Congressが開かれます。各地からユダヤ人が集まって、自分たちの国を作るという目標を掲げた会議です。この会議を招集したのは、Theodor Herzl(ヘルツル)という人です。1860年にペスト(今のブダペストの一部)で生まれたそうですから、当時37歳。若い頃にハンガリーのナショナリストが、ユダヤ人は自分たちの国を作って出て行くべきだとして、”Jew, Go to Palestine!”と叫んでいるのを聞いて、そうすりゃいいんじゃないのって思ったのが会議を呼びかけるきっかけになったそうです。

そんなわけでヘルツルさんには、「みんながユダヤ人を嫌いなんだから、ユダヤ人の国を作って出て行くことにしたら、国際社会としても応援してくれるんじゃないか」という期待があった。なるほどある意味、理にかなっている。ヘルツルさんは1896年に”Jewish State”という本を出し、わずか1年後にZionist Congressの開催に成功しました。

会議では、“Zionism seeks to secure for the Jewish people a publicly recognized, legally secured homeland in Palestine.”と定め、その方法として、

・By fostering the settlement of Palestine with farmers, laborers, and artisans.
・By organizing the whole of Jewry in suitable local and general bodies, in accordance with the laws of their respective countries.
・By strengthening the national Jewish feeling and national consciousness.
・By taking preparatory steps to attain any Governmental consent which may be necessary to reach the aim of Zionism.

と定めます。

その一環として、Jewish National Fundなんていう構想も提起されました。みんなでお金をあつめてオスマントルコ帝国からパレスチナの土地を買っていこうぜ、っていうファンドです。

なかなかのもんですよね。

ここまでが第1章。


ここから先も長いお話が続きます。

ユダヤ人たちはこつこつオスマントルコ支配下のパレスチナへの入植を進めていきます。その数が増えてくると当然、地元のアラブ人たちからの反感が高まって、オスマントルコが入植を制限したりする動きが出ます。でも当時のオスマントルコは力が衰えてきていて、末端の組織まで十分にコントロールできない。そんなわけでユダヤ人は役人を買収したりして、さらに入植を進めていきます。こうした運動には、ロスチャイルド家が資金を出したりしていたそうです。おぉ。ロスチャイルドって、そういうことをしていたのか。

そんな中、1914年に第一次世界大戦が勃発。オスマントルコが敗北するという見立てのもと、パレスチナはヨルダンとかそのあたりと一緒にイギリスの統治下に入るんじゃないかという観測が浮上します。そこでユダヤ人たちはイギリスに対して、パレスチナの地にユダヤ人の国を作ることを認めるよう働きかけます。

そんな中、1916年にイギリスの首相になったロイド・ジョージは弁護士時代からZionismに大変な理解がある人でした。翌1917年、当時の外務大臣だったArthur Balfour がWalter Rothschildあての手紙で、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設を支持することを宣言します。いわゆるBalfour Declaration です。具体的には、以下のような記述があります。

”His Majesty’s Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people.”

Gordisさんも認めるように、この文書は”astonishingly ambiguous document”でもあります。”national home for the Jewish people”の文言はあっても”Jewish state”という言葉はありませんし、いつまでにそれを作るのかというタイムラインも示されていません。さらに、”nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of exsiting non-Jewish communities in Palestine”という文言もあって、アラブ側の立場を尊重するようなことも書かれています。

ただ、当時のイギリスの政治家の間で、Zionismを支持した方が良さそうだという機運が生まれていたこともまた確かです。ユダヤ人は第1回のZionist Congress(1897年)からわずか20年で当時最強の帝国に自分たちの主張を認めさせたわけですから、あまりに出来過ぎた展開。「いくらカネ使ったんだ」なんて勘ぐりたくもなりますが、実際問題として、ユダヤ人はある種のお墨付きを得たわけです。

第一次世界大戦終戦後の1920年、イタリアで開かれた、イギリス、フランス、イタリア、日本による会議(San Remo Conference)で、オスマントルコ支配地域をどのように分割するかが協議され、英国がパレスチナを統治することで一致します。この際、Balfour Declarationも決議の中に盛り込まれました。戦勝国によって、パレスチナがユダヤ人の戻るべき場所であることと認められたことになります。

で、アラブの人たちは怒ります。すでにパレスチナに入植しているユダヤ人に対する攻撃が始まり、それに対抗するため、ユダヤ人による自警組織も強化されます。こうした組織が後のイスラエル軍の始祖になったとのこと。なるほど。

ただまぁ、どこまでがパレスチナなんだという問題もありまして、ユダヤ人は当初はヨルダン川の西側一帯(今のヨルダンにあたる地域)もパレスチナだろうと受け止めていたのですが、1921年にイギリスは「ヨルダン川の西側一帯はTransjordanです」と決めて、パレスチナから切り離します(当時の責任者はチャーチル)。それでもアラブ側は納得せず、ユダヤ人入植者への攻撃は激化します。

ユダヤ人はZionismの理想を掲げる際、「国際社会はユダヤ人国家を支持してくれるだろう」と想定していたのですが、アラブ側の反発を全く計算に入れていなかったようです。ユダヤ人の指導者の一人、Ahad Ha’amは、こんなことを書いています。

“We are used to thinking of the Arabs as primitive men of the desert, as a donkey-like nation that neither sees nor understands what is going on around it. But that is a great error.”

さらに、ユダヤ人指導者の中でタカ派として知られるZe’ev Jabotinskyなんかは1923年の文書の中で、「アラブ人がパレスチナに愛着を抱いているからこそ、パレスチナにおいてユダヤ人とアラブ人が自発的な和平に達することは不可能だ」と論じました。そして、パレスチナに和平をもたらすためにはアラブ人がユダヤ人を排除することを諦めるぐらいの”the iron wall: a strong power in Palestine that is not amenable to any Arab pressure”が必要だと主張します。

ヨーロッパでユダヤ人が迫害されたこと自体が許されないことであることは明らかです。一方、そのユダヤ人がアラブの人たちを見下すような感情を持ったうえで、パレスチナに入植を進めていったとも言えるようです。そして、それに対するアラブ側からの反感が、ユダヤ人を軍事化の道に後押ししていった。なんか、おそろしい話です。

このあたりまでで第5章。第6章ではヒトラーが登場します。

ヒトラーが「わが闘争」を書いたのは1925年。ジャボティンスキーの文書から2年後です。”If… the Jew is victorious over the other peoples of the world, his crown will be the funeral wreath of humanity and this planet will, as it did thousands of years ago, move through the ether devoid of men.”なんていう風にユダヤ人に対して敵意むき出し。もちろんZionismに対しても全否定で、

“They have not the slightest intention of building up a Jewish State in Palestine so as to live in it. What they really are aiming at is to establish a central organization for their international swindling and cheating.”

ってな具合です。

そんなヒトラーが1933年にドイツの首相となります。

このころ、多くのユダヤ人は「ドイツとの直接交渉でヒトラーに路線変更を迫るべし」と考えていたそうです。タカ派の間ではドイツ製品のボイコット運動を支持する動きもありましたが、ボイコットにはかえってドイツを刺激するリスクがあります。1933年にユダヤ人とドイツの間で結ばれた”Ha’avarah (Transfer Agreement)”は、ドイツ内のユダヤ人が国外に亡命する際には資産をドイツに没収されなくて済むという内容。さらにユダヤ人は資産をパレスチナの銀行に預け、その資金でドイツ製品を買って、パレスチナに送ることができるという内容も含まれていました。ドイツ製品をボイコットすべきという動きがある中で、実際には移民拡大と引き換えにドイツ製品を買う動きが承認されたということです。また、こうした資金はアラブからパレスチナの土地を買うことにも使われました。

そんなわけでパレスチナにおけるユダヤ人の人口は1933年の23万4967人から、1936年には38万4078人に増えます。もちろんアラブのユダヤ人入植者に対する反感は高まり、改めてユダヤ人への攻撃が激しくなります。

このころパレスチナを統治しているイギリスが方針変更します。これまでは治安を悪化させるアラブ人を厳しく取り締まっていたのですが、アラブの不満を抑えるためにユダヤ人の入植を制限することにしたのです。イギリスは1936年後半のユダヤ人入植者の数を4500人に設定。前年の1935年は1年間で6万1000人でしたから、85%減少という計算になります。ところがアラブ側は「ゼロが当然だろう」ということで、イギリスの9000人案を蹴ります。治安はさらに悪化。イギリスは問題解決のため、William Robert Wellesley Peelを団長とする調査団(Peel Commission)を派遣。ユダヤとアラブの双方から言い分を聞くことにしました。

1937年に出たPeel Commissionの報告書は、ユダヤとアラブは両方とも同じ地域に対する主権を主張しているのだから双方が納得する解決策はないとして、パレスチナの分割案を提示します。

Balfour Declaration当時、ユダヤ人は現在のヨルダンまで含めた地域が自分たちのものになると解釈していました。しかしこのPeel Commissionの報告書でユダヤ人に割り当てられたのは、その20%にすぎません。しかもエルサレムとベツレヘムはアラブ側のものになります。1921年にチャーチルがTransjordanを切り離したときよりもさらに小さい範囲です。

当然、ジャボティンスキーら多くのタカ派はこの提案に反対しますが、David Ben-Gurionを初めとする現実路線の指導者たちは「どんな提案でもユダヤ人国家が認められるなら受け入れるべきだ」との立場をとります。そして1937年の第21回 Zionism Congressで、Peel Commissionの提案は受け入れられます。

でもアラブ側は拒否。ユダヤ人への攻撃が激しくなります。

1938年11月、イギリスなどがチェコのズデーテン地域をドイツに割譲することで合意。ヒトラーがノリノリになります。Ben-Gurionはこの決定を知り、「ヨーロッパ最悪の日」と評したそうです。イギリスがチェコをドイツに割譲するなら、次に引き渡されるのはパレスチナだと予見したのです。このころ、パリでユダヤ人がドイツ人の役人を殺害する事件があり、ドイツとオーストリアで反ユダヤ感情が爆発。各地でシナゴーグが焼かれ、2万6000人のユダヤ人が収容所に送られました。1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻。イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まります。

これはユダヤ人にとって悩ましい問題です。イギリスはBalfour Declarationに反してアラブの肩を持ち、ユダヤ人のイスラエルへの移民を制限しているという意味でユダヤ人にとって敵ですが、同時にドイツと戦ってくれる味方でもあります。ところがアラブはアラブでイギリスに敵意を抱いています。そもそもパレスチナにおけるユダヤ人国家なんていう話が現実味を増したのは、イギリスがある種のお墨付きを与えたことが発端です。こうした中、イギリスは1943年、正式にパレスチナのユダヤ人入植者による部隊をイギリス軍に加えることを決定。これらの部隊が独立後のイスラエル軍の基盤となります。


まぁ、ちょっと疲れましたんで、このあたりで終わります。話はまだまだ続くんですが。第二次世界大戦後は、周辺アラブ諸国との対立の話です。エジプトのナセル大統領とかPLOのアラファト議長なんかが敵役です。第二次世界大戦後のイスラエル人にとって、ホロコーストの時代にナチスに立ち向かわなかったことが口にはできない恥の意識としてすりこまれていたなんていう話とか、建国間もないころのイスラエルは今とは違って経済的にもひどく困窮していたという話とか、イスラエルの中でも「どこまでがユダヤ人なんだ」という論争がある(エチオピア系ユダヤ人: Beta Israel, Falasha なんていう概念もある)なんている話もあって、いろいろと興味深いです。

Balfour Declaration(1917年)は100年以上も昔の話ですが、中東和平交渉は今でも続いています。つまりは紛争は世代を超えて引き継がれているわけです。

面白い本でした。英語も読みやすいです。