2019年12月3日火曜日

“THE PRIZE: The Epic Quest for Oil, Money & Power”

“THE PRIZE: The Epic Quest for Oil, Money & Power”を読みました。Daniel Yerginが1990年に出した本です。日本でも「石油の世紀」のタイトルで1991年に出版されました。ピュリッツァー賞を取った超有名な本です。

ペーパーバックで928ページある長い本。以前、「長いなぁ」と思った”The Sleepwalkers”が736ページですから、おそらく英語の本として自己新記録です。読み終わるのに9カ月を要しました。

ただ、めちゃくちゃ面白いです。今まで読んでなかったのが恥ずかしくなるぐらい。未読の人は今すぐ読んだ方がいい。米国で初めて商業用途で石油の開発が始まった1850年代から、湾岸戦争が始まった1990年ごろまでの石油産業の歴史をたどった本です。それをただ単に時系列でたどるのではなく、石油産業の開発に関わった様々な人物の面白エピソードを交えながら綴っていくという形式で非常に読みやすい。

一言でまとめると、1850年代にアメリカで初めて見つかった原油が、インドネシアなんかでも開発されるようになり、灯りをとるための燃料から暖房や内燃機関に使われるようになり、そうした石油を運ぶための海運ルートが築かれ、それが第一次世界大戦の戦況を左右するにまでなって、中東やアフリカでの原油開発につながり、第二次世界大戦なんかでは日本なんかも原油を求めて南進したりして、戦後は原油ナショナリズムがますます強まり、原油を開発するメジャーと産油国政府の対立が激しくなり、北海での油田開発なんかが進んだり、OPECが作られたりしているうちに、Yom Kippur Warを機に第1次オイルショックが起こり、さらにはイラン革命きっかけで第2次オイルショックも起こり、そのうち資源保全とか環境とかの観点から脱原油を目指す動きも本格化してきて、原油価格が下がったりなんかもして、そんな中で、イラン・イラク戦争で勝ったサダム・フセインがアラブの盟主となるべくクウェートに侵攻したりなんかして、もうわやですわ、という話です。

で、こうしたストーリーの中で出てくる登場人物が滅茶苦茶多彩です。多彩すぎて書き出すのは無理なんですけど、日本のアラビア石油の創業者で「アラビア太郎」の異名で有名っちゃぁ有名な山下太郎も出てくるぐらいですから、かなりの範囲をカバーしているものと思われます。日本の満州進出から太平洋戦争に至るまでの経緯もかなり詳しく書かれています。

面白かったです。もう一度読みたい。



2019年4月20日土曜日

真空状態

No.110

真空状態が分からない。

空気がない状態だとは思うけど、「この箱の中は真空状態です」とか言われても、実は全くイメージが沸かない。何が入っているのだろう。何も入っていないというかもしれないが、何かは入っているだろう。空間があるのだから、そこを満たす何かがないと困る。

真空状態が分からないというより、空間というものが分かっていないのだろうか。

真空状態とは、空間があるということのような気もする。逆に何かがあるということは、空間が何かで埋められているということだ。普通の空っぽのペットボトルの中の空間は空気で満たされているので、ペットボトルの中には空間はなく、空気だけがあるということじゃないか。

じゃあ空間って何だ。3次元とか4次元とかそういう話か。

ここまで考えると「真空状態」という言葉はもう使えない。また日本語が難しくなった。


2005/12/9

誘惑のギターケース

No.109

ギターケースを担いでいる女性を見ると、グッとくるものがある。

私には楽譜をよめる人は無条件で偉いと思う性質がある。自分には使えない「世界語」を使えるいうイメージがあるからだろう。なんか交友関係が広くて、社交的で、しかも努力家で、才能があるという気もする。そういう私にとって、ギターケースを担いで歩いている女性は、交友関係が広くて、社交的で、努力家で、才能がある女性だ。心の中に湧き出る尊敬や憧れの感情は、恋心への第一段階といっていい。

そういうわけなので、クリスマスを前にどうしても私を誘惑したいという人がいれば、ギターケースを担いで歩くことをお勧めする。こういう場合には「実はギターが下手」とか「ギターは弾けるけど、楽譜はよめない」という可能性は考慮しないので、どしどしチャレンジしてもらいたい。


2005/12/8

プリペイドカード

No.108

電車のプリペイドカードの絵柄は誰が決めているのだろう。

可愛いネコとか、日本の有名なお城とか、景勝地に沈む夕日とか。ねらいが分からない。誰が喜ぶというのか。ネコマニアとか城マニアにはたまらないかもしれないが、そうでない者が買ったときは、いまいち釈然としないものがある。自動販売機で買う場合なんかは図柄を選べたりするが、率直に言ってどれも欲しくない。グラビアアイドルとか男前タレントとか、もっと大人が喜ぶような図柄にすればどうだろうとか、何かの広告を載せれば金儲けになるだろうとか、色々考えようもあると思う。

向こう1カ月の占いが載っているとかでもいいじゃないか。そういうのが相応しくないというのであれば、無地とか鉄道会社のロゴマークだけとかでもいい。ただ、もしもその絵柄を決めるだけの仕事の人がいるとすれば、ちょっと羨ましいとも思う。

私なら、なぞなぞシリーズを出したい。ものすごく難しいやつ。


2005/12/7

クイズが分からない

No.107

クイズ番組の答えが分からなくなっている。

昔からクイズ番組が好きで、子供のころはよく見ていた。毎年秋になると、「今年のウルトラクイズはいつから放送だろう」と気になったものだ。さすがに最近はクイズ番組を見ることもないが、たまにテレビで見かけたりすると、2、3問は考えたりする。

ところが、その答えが分からない。「最近のヒット曲」みたいな話題はもちろん、「○○中学の受験問題」みたいな問題でも正解が答えられない。試験とは縁遠い生活をしているので仕方ないのかもしれないが、女子高生の格好をしたお笑いタレントに負けたりすると、寂しい。

今、頭の中には新聞の番組紹介記事に出ていた「ブラジャーの生地は何でできているか」というなぞなぞがグルグルと回っている。番組での正答率が低いことを願う。


2005/12/6

子供のころの夢

No.106

子供のころ、熱を出したときはいつも同じ夢をみた。

私がオサムシというかゴミムシというか、地面の上をはいつくばっている虫になっていて、目の前には昔のマンガに出てくるような、巨大なコンピューターがそびえ立っている。そこで私が立小便をしていると、後ろからやってきた別の虫に肩をたたかれて注意されるという内容だ。

相当訳が分からないが、この夢を何度も見た。偉い精神医学の先生とかだったら、この夢から何らかのトラウマを見つけ出すのかもしれないが、私にはさっぱり分からない。強いていえば、熱が出ているときは眠っているときでもトイレに行きたくなる、ということぐらいだろうか。

うちの息子(2歳)は先日熱を出したとき、「キリン食べちゃった」と泣き叫びながら、目を覚ましていた。きっと彼は大人になってから、「子供のころ、熱を出す度にキリンを食べる夢を見たな」と思い出すのだと思う。


2005/12/5

トップテン

No.105

「トップテン」が思い出せない。

「ザ・ベストテン」は思い出せる。黒柳徹子と久米宏が司会だったこととか、最後に記念写真を撮ることとか、セットの様子とかも分かる。ところがトップテンになると、思い出すのはかなり難しい。ベストテンとほぼ同じ仕組みの番組だったこと、月曜日に放送していたことぐらいは思い出せるが、それ以上は無理だ。司会が誰だったかも、セットがどんな風だったかも思い出せない。そもそもタイトルもうろ覚えだ。「歌のトップテン」だったか? 「ザ・トップテン」だったか?

私は別にベストテンしか見なかったわけではなく、普通にトップテンも見ていたと思う。それなのに、この頭に残った記憶の量の違いは一体何なのだろう。やはり老舗というか、一番手というか、そういったベストテンの存在感は圧倒的なのだろうか。

もし、そういうことなら、私はあえてトップテンを応援したい。もう随分と前に終了した番組だからどうしようもないが、とりあえずトップテンの記憶を蘇らせて、ことあるごとに「俺はトップテンの方が好きだったよ」と主張してみたいと思う。


2005/12/2

楽にしていい

No.104

ラクダって何を食べるのだろう。

ぱっと思いつくのは草だが、砂漠に草はないのではないだろうか。それじゃ砂? とも考えたくなるが、やはり砂ということはないだろう。いろいろと考えてみても、やはり思いつくのは「少量の草」といったところだ。

思えばラクダっていうのは、砂漠のなかで何も飲み食いしなくても、黙々と歩き続けることができるというイメージを与えられている。しかしそれは、実際以上にストイックなイメージなのではないか。ラクダだって水も飲めば、草も食べるだろう。木陰でゴロゴロしながら昼寝もしたいだろうし、荷物を運べといわれてたときに、「嫌」と答えたい気分の時だってあるに違いない。

それでもラクダとしてのイメージを押し付けられ続けるラクダ。今度ラクダに会ったら、「楽にしていいよ」と言ってあげたい。


2005/12/1

歯磨きできない

No.103

大人だからといって、きちんと歯を磨けるわけではない。

今朝、会社に行こうと靴のひもを結んでいたら、口のなかにごはん粒があるのに気付いた。今日の朝ごはんはパンだった。昨日の晩ごはんはパスタだった。昼ごはんはラーメンだ。一番最近、ごはんを食べたのは昨日の朝。ということは、このごはん粒は1日以上、口の中に入っていたことになる。

その間、私が歯を磨いた回数は3回。昨日の朝と夜と今朝。一体、何を磨いていたというのか。歯ブラシを口の中に突っ込んでグチャグチャやったところで、ごはん粒も取り除けていないようでは、歯垢とかバイキンとか、なんだかもろもろの悪いものが取り除けているはずがないだろう。

「きちんと歯を磨かないと虫歯になるで!」と息子(2歳)を叱るヨメの声が、今日からは違って聞こえると思う。


2005/11/30

予定のない日

No.102

散髪屋はどうして、人の予定を聞きたがるのか。

いつでもそうだ。日曜の午前中に髪を切りに行くと、「今日はどうされるんですか」と聞かれる。確実にだ。これまでに聞かれなかったことはないと言っていい。そんなこと聞かれたって、こっちはヒマだから髪を切りに来ているわけだ。スケジュールがびっちり決まっているような日にはこんなところには来ないだろうと問い詰めたい。

「今日はこれからデートなのぉ」とかいう答えが返ってくると思っているのなら、眼球を交換した方がいい。どうみたってオッサンなのだから、デートの予定などあるはずがなかろう。「実はこれから離婚調停でして…」という回答を予想しているのならば、脳みその交換をお勧めする。

ここまで毎回尋ねられると、散髪屋に会話を求めない私が悪いかのような気分にもなってくるから恐ろしい。私は引きこもりなのだろうか。


2005/11/29

チンコ攻撃

No.101

総合格闘技が盛んだが、チンコへの攻撃は禁止されている。

もしチンコへの攻撃が許されるなら、どんな闘いになるのだろう。やはり、チンコの蹴り合いになるのだろうか。まるで小学生がじゃれあっているみたいだが、そうなると、闘う際の選手たちの姿勢も違ってくる。やはりチンコを蹴られないように両方の太ももをぴったりつけて内股になって構えをとるのが最適だろう。そのうえで、相手のチンコを蹴るべく、技を繰り出す。寝技になってもチンコのつかみ合いだ。お互いが体を重ねながらチンコに手を伸ばしあう。
もしつかまれてしまったら大変だから、逃げる方も必死。懸命に体をくねらせながらも、相手のチンコをつかむべく一瞬のスキをつこうとしている。

きっと人気は出ないだろうけど、技術の高さと勝利への執念では、現在の総合格闘技の比ではないと思う。


2005/11/28

2019年3月2日土曜日

オッサン小学生(女子)

No.100

昼の3時ごろ地下鉄に乗ったら、小学生の女の子が寝ていた。

制服と帽子を身につけてシートに座り、ひざの上においたカバンを抱え込むようにして寝ている。おそらく2年生とか3年生ぐらいだろうが、寝姿は疲れきったオッサンのようなたたずまいだ。世間の相場では子供の寝姿は可愛いものと決まっているが、この場合はどうみてもオッサンである。オッサン小学生(女子)だ。

眼鏡をかけた、いかにも勉強ができそうな雰囲気の子だったので、「こんなに疲れるまで勉強させられて…」なんていう気分になりそうにもなったが、彼女が眠っている理由を「勉強による疲れ」と決め付けるのはよくない。

ここは、小学生女子でもオッサンのように見えるという事実だけを心に刻んで、笑っておこうと思う。


2005/11/25

唇にハチミツ

No.99

唇の下あたりがカサカサしているというか、荒れているというか、とにかくそんな感じになっているのに気付いた。

そういえば、子供のころはこういう状態になると、「ハチミツを塗れ」と言われた。いつも言われるがままにハチミツを塗り、そのまま放っておけば治った覚えがある。

ヨメには「ハチミツにはいろんな菌が入っているで」と言われたが、懐かしさもあってハチミツを塗った。一晩経っても治っていないので、朝になってもう一度塗ってみた。ハチミツのベトベトとした感触に覆われたせいであろうか。今、肌のカサカサしていた部分には、なんか白くて小さなブツブツができている。

そういえば、子供のころもそんな風になって、そのブツブツが潰れて、カサブタみたいになってから治ったような気がする。今になって思えば、それをハチミツの効果で治ったというのか、症状が悪化した末、自然治癒したというのかは不明だ。

私はまた間違った選択をしてしまったのだろうか。


2005/11/24

重いカバン

No.98

カバンがどうしても軽くならない。

小学生のころからそうだ。時間割に合わせて教科書とかを入れるのが面倒なものだから、全部の教科書をリュックサックに詰めていたような気がする。お陰で忘れ物をしないという美徳を得ることはできたが、極めて計画性に乏しい性格になった。明日どんな予定があるかと考えることを常に拒否している。

今でも通勤に持っていくカバンは異常に重い。何キロあるのかは知らないが、おそらく7~8キロぐらいあるのではないか。理由は仕事に使うパソコンと雑多な資料を詰め込んでいることにあるのだが、これも、いつパソコンや資料を使うことになるか分からないという発想に基づいている。冷静に判断すれば、当分の間使わない資料も多々ある。ただ、最初からそういう判断をしようという発想自体を拒絶しているので、カバンの中身は増える一方だ。

重いカバンを持っている人間は計画性がない。一つの真実だと思う。


2005/11/22

風邪薬にドクロ

No.97

風邪薬のCMは言い訳がましくないか。

「ひき始めには○○」とか「早めの○○」とかいった宣伝文句があるが、あれは、「仮に効かなかったとしても、早めに飲まなかったあなたが悪いんですよ」と言わんとしているのではないか。「眠くならない」などとアピールしている薬に至っては、風邪を治すという使命を放棄している気がする。私が欲しいのは、別に眠くなってもいいから、グダグダに悪化してしまった風邪でも、イッパツで治る薬である。

これだけ医学が発展しているのだから、何かそれぐらいの薬はあるはずだろう。副作用を懸念する国の規制がかかっているか、製薬会社が意図的に「効かない薬」を売っているとしか思えない。多少の副作用ぐらいいいじゃないか。タバコだって売っているんだし。

びんに小さいドクロマークぐらい付いていなければ、風邪薬に説得力はないと思う。


2005/11/21

働かざる者、食うべからず

No.96

「働かざる者、食うべからず」という言い回しは、厳しすぎるのではないか。

世の中には働いていない人だって沢山いる。子供とか、年寄りとか、病気の人とか。こういう人たちに、「食うべからず」というわけではあるまい。言わんとするところは、いい若い者がダラダラ過ごしていてはダメだ、というような意味だろうとは思うが、それならそれで、「若者は働け」と単純明快に言えばいいではないか。

私自身は年をとったら仕事もボランティアもせずにのんびりと過ごしたいので、「働かざる者、食うべからず」という意見には断固として反対の立場を貫きたい。


2005/11/18

ペペロンチーノ

No.95

ペペロンチーノの味の基準が分からない。

シンプルな味付けのパスタだから、そんなに違いはないのだろうが、色々食べてみると、塩が強かったり、辛味が強かったり、ベーコンとかキノコとかの具がたくさん乗っていたりと、以外とバリエーションがる。ただ、自分の中に「これがペペロンチーノだ」という基準がないので、どの店で食べても「まぁ、普通に美味しい」となってしまう。ペペロンチーノは好きなのに、いまいちこだわりを持てないのが悔しい。

本場のペペロンチーノって、どんなのだろうか。やっぱり店とか地方によってバリエーションがあるのだろうか。

それならば、一番家庭的なペペロンチーノを食べてみたい。っていうか、ローマとかナポリとか、それっぽい感じの町で普通の家に飛び込んで、その家のペペロンチーノを食べたい。そうすれば、それが一番美味いペペロンチーノだ
と思えるような気がする。

現段階であえて一番美味いペペロンチーノを選ぶなら。ローソンのやつ。


2005/11/17

フライドポテト

No.94

マクドナルドで一番美味いのはフライドポテトだ。

ハンバーガーとかナゲットなら、他のファーストフード店の方が美味い。ただ、フライドポテトとなれば、マクドナルドが勝つ。細いとかしなびているとか、色々と批判もあるだろう。太くてホクホクした感じのポテトも悪くないことは承知している。ただ、ハンバーガーと一緒に食べるフライドポテトとしては、あの細くてしなびた感じで、たまにカリッとしているとちょっと嬉しいという、マクドナルドのフライドポテトしかありえない。

多分、軽く洗脳されているのだと思うが、幸せならばそれでいいと思う。


2005/11/16

全てのロボットの父であり、母

No.93

自動車を組み立てるロボットがあるけど、あのロボットはどうやって組み立てるのだろう。

ロボットを組み立てるロボットがいるのだろうか。それでは、そのロボットはどうやって組み立てたのだろう。そうやってどんどんと系譜を辿っていけば、いつか全てのロボットの親となったロボットに行き着くのではないか。そこまでいけば、そのロボットを組み立てた人間を特定することも可能なはずだ。

全てのロボットの父であり、母でもある一人の人間。

実際にはそんな単純なものではないだろうと思うけれど、なんかカッコイイ。


2005/11/15

珍しい苗字

N0.92

仕事で珍しい苗字の人に会った。

私は会う前から、その苗字に関する話題に触れないよう肝に銘じていたのだが、よせばいいのに、一緒にいた先輩が「珍しい苗字ですね」などと話しだした。

珍しい苗字に関する話題がふくらまないのは、ちょっと珍しい苗字である私自身の実感として証明済みである。「なんともいえない空気が流れるな」。私はそう覚悟を決めた。

ところが、話を振られた相手側は、珍しい苗字に関する話題を3つ用意していた。おそらく、誰から話を振られても、必ず同じ話をしているのだろう。実によどみのない、持ちネタを披露していますというような内容だった。明らかに、一部には笑いをとるための作り話も混じっていた。私は思わず、「それはないでしょう」と突っ込んでしまったぐらいだ。

しかしまぁ、話題を3つも用意しているのは、大した大人力だと思う。私も自分の苗字に関する面白い話を用意しておいた方がいいのではないかと反省させられた。

次の機会には、誰もが大笑いするような、グレードの高いネタを仕込んでおきたいと思う。


2005/11/14

初白髪

No.91

どうも前髪に白髪が一本まじっているような気がする。

白髪を発見したのは生まれて初めてだ。正確に言うと、以前にも白髪かなと思ったことはあったのだが、次の日にはどこにいったのか分からなくなっていた。その点、今回の白髪はもう2週間ぐらいは確認できている。光の関係で、白く光っているように見えるだけかもしれないが、本当に白髪である可能性が高いのではないだろうか。

白髪は年をとってきた証拠なのだろうが、何故だか知らないけれど、ちょっと嬉しいような気もする。本当に白髪だったら、「抜かずにとっておきたい」という気持ちになるのだ。嬉し恥ずかし初白髪である。そういえば、昔から年寄りに対する憧れがあった。子供のころから、ひげを生やしたようなじいさんになって、本でも読んで、孫と遊んだりして過ごしたいという願望があったと思う。

そんな私だが、頭頂部が薄くなることだけは避けたいと思う。理屈ではない感覚だ。


2005/11/11

2019年2月24日日曜日

Churchill

"Churchill"という本を読んだ。ポール・ジョンソンという英国の作家が2010年に書いた本です。

このところ第一次世界大戦ごろからの欧州の歴史に関する本を読んできて、やはり英国のことを知っておいた方がいいだろうと、ひいてはチャーチルを中心として英国史を解説してくれる本があれば分かりやすいんじゃないかと思って読んでみました。

ただ、ちょっと弱気になって「チャーチルの本なんて山ほどあるだろうから、まずは初心者向けの短いやつでも」と思って選んだ本です。192ページ。そしたらイマイチでした。ちょっとあっさりしすぎという感じ。チャーチルの人柄なんかについては詳しいのですが、歴史的な経緯についてもうちょっと丁寧に解説してくれる本が良かったです。

でもまぁ、ざっとした話は分かりました。

チャーチルが初めて首相になったのは1940年5月10日。ドイツがフランス侵攻を始めた直後のことだったそうです。前任のチェンバレン首相は1938年のミュンヘン会議でズテーテン割譲を認めるなどドイツに宥和的な政策をとってきましたが、ドイツの軍事的な拡大を招いてしまったという状況でした。

英国議会で後任候補にあがったのは、First Lord of Admiralty(海軍大臣)だったチャーチルと、外務大臣だったハリファックス伯爵。しかしハリファックス伯爵は首相になることを辞退し、チャーチルが首相に選ばれたという経緯だったそうです。チャーチルはチェンバレン内閣の一員でしたが、ミュンヘン会議などの対独宥和策には反対してきました。

チャーチルは第一次世界大戦後の1919年にSecretary of State for Warに就任し、空軍力の強化を進めるなど軍事には詳しかった。チャーチルは首相としてもさらに空軍力にこだわり、1940年末には戦闘機の性能でも生産能力でもドイツを上回るようになった。ドイツは英国への空爆で英空軍の拠点を破壊しようと試みますが、英国の空軍はこれを阻止。この”Battle of Britain”が第二次世界大戦の重要な転換点になったそうです。

あと、チャーチルは第一次世界大戦当時にも海軍大臣を務めていて、艦船の燃料を石炭から石油に切り替えていくことにも注力した。軍事通だったんですね。

まぁ、そんな感じです。

雄弁で茶目っ気があって、国民に愛された政治家。さらに戦後には全6巻の”The Second World War”を書いて、ノーベル文学賞までとってしまう。この本は第二次世界大戦当時の機密文書をチャーチル個人の所有物として政府に認めさせて書いたそうです。ヒトラーもムッソリーニもFDRも死んでしまい、スターリンは回想録を残さなかった。こうした中、チャーチルは戦後生き残った唯一の指導者として「正史」を書き切ったということなんだそうです。

ジョンソンさんはこう書いています。

“By giving his version of the greatest of all wars, and his own role in it, he knew he was fighting for his ultimate place in history. What was at stake was his status as a hero. So he fought hard and took no prisoners. On the whole he won the war of words, as he had earlier won the war of deeds.”

とんでもないオッサンですね。

2019年2月10日日曜日

Israel: A Concise History of a Nation Reborn

“Israel: A Concise History of a Nation Reborn” という本を読んだ。Daniel Gordisというイスラエルの作家が書いた本です。Gordisさんはエルサレム・ポスト紙が選んだ、世界で最も影響力が強いユダヤ人50人に選ばれたことがあるそうです。そこそこ有名な人なんだと思います。

この本を読んだのは、前の本”The Sleepwalkers”を読んだ後、キンドルからお勧めされたからです。以前、行動経済学の基礎を築いた2人のユダヤ人心理学者のストーリーを描いた”Undoing Project”を読んだとき、イスラエルの歴史を知りたいなと思っていたもんですから、これはなかなかのナイスお勧め。即決で購入しました。

イスラエルの建国のきっかけとなった19世紀後半のジオニズム運動の始まりから、2015年ぐらいまでのイスラエルの歴史を追った本です。勉強になります。ユダヤ人の立場からの歴史ですから、ちょくちょく「イスラエルは平和を愛しているのにアラブの奴らときたら」的な話が入ります。ただ、完全に中立な本なんて読みにくくて仕方がないでしょうからね。まぁ許容範囲に収まっていると思います。

ユダヤ人といえばナチスドイツに迫害されたイメージが強いですが、欧州では19世紀後半からユダヤ人への迫害は始まっていました。”pogrom”というユダヤ人に対する攻撃を指す言葉がありまして、こうしたpogromは1860年代のルーマニアとか、1871年のオデッサとかですでに起きていた。東欧では「ユダヤ人はキリストを殺した」なんていう宗教上の理由がつけられ、中・西欧では宗教とは切り離して、ユダヤの民族性そのものが迫害の理由になりました。

1879年、ドイツでは「ユダヤ人は社会にassimilateすることができない」として、anti-Semitismと名付けられた運動が始まりました。1880年代のロシアでは、学校に入学できるユダヤ人の数が制限され、1891~92年にかけては2万人のユダヤ人がモスクワから追放されました。そんなわけで1882~1914年の間、250万人のユダヤ人がオーストリア、ポーランド、ルーマニアなどを去りました。ロシアからは、第一次世界大戦直前の15年間で、130万人のユダヤ人が脱出しました。

マイノリティーにすぎないユダヤ人がどうして迫害されるのかっていう背景には、このころのユダヤ人は社会の中で重要な役割を占めるようになっていたという事情があるらしい。”Jews, or people of Jewish origin, now played critical roles in economics, politics, science and the arts.”という感じだったんだそうです。

例えばドイツなんかでは、ユダヤ人は人口の1%以下にもかかわらず、特に金融や政治の世界で高い地位を占めるようになりました。それが多くのドイツ人の反感を買うようになります。新聞や本、雑誌などで、greedy, capitalist, and corrupt Jewというイメージが形作られるようになり、ナチスドイツの時代につながっていきます。ユダヤ人以外の人たちからすれば、王様や領主みたいな人たちも十分な金持ちなんですが、彼らはなんだかんだ言っても民衆のために統治してくれたり、戦ってくれたりする。でも、ユダヤ人はなんだよ、っていう雰囲気もあったようです。

これまでに読んだ本でも出てきましたが、18世紀ごろにイギリスで始まった産業革命が各地に伝わり、社会の構造が大きく変化していった時代の話です。そういう背景の中で、社会の現状に不満を持つ人たちが、なんとなく自分たちとは違う生活や文化を維持しているユダヤ人を目の敵にするような運動が出てきたんでしょう。想像ですが。


そんな中、1897年にスイスのバーゼルでThe First Zionist Congressが開かれます。各地からユダヤ人が集まって、自分たちの国を作るという目標を掲げた会議です。この会議を招集したのは、Theodor Herzl(ヘルツル)という人です。1860年にペスト(今のブダペストの一部)で生まれたそうですから、当時37歳。若い頃にハンガリーのナショナリストが、ユダヤ人は自分たちの国を作って出て行くべきだとして、”Jew, Go to Palestine!”と叫んでいるのを聞いて、そうすりゃいいんじゃないのって思ったのが会議を呼びかけるきっかけになったそうです。

そんなわけでヘルツルさんには、「みんながユダヤ人を嫌いなんだから、ユダヤ人の国を作って出て行くことにしたら、国際社会としても応援してくれるんじゃないか」という期待があった。なるほどある意味、理にかなっている。ヘルツルさんは1896年に”Jewish State”という本を出し、わずか1年後にZionist Congressの開催に成功しました。

会議では、“Zionism seeks to secure for the Jewish people a publicly recognized, legally secured homeland in Palestine.”と定め、その方法として、

・By fostering the settlement of Palestine with farmers, laborers, and artisans.
・By organizing the whole of Jewry in suitable local and general bodies, in accordance with the laws of their respective countries.
・By strengthening the national Jewish feeling and national consciousness.
・By taking preparatory steps to attain any Governmental consent which may be necessary to reach the aim of Zionism.

と定めます。

その一環として、Jewish National Fundなんていう構想も提起されました。みんなでお金をあつめてオスマントルコ帝国からパレスチナの土地を買っていこうぜ、っていうファンドです。

なかなかのもんですよね。

ここまでが第1章。


ここから先も長いお話が続きます。

ユダヤ人たちはこつこつオスマントルコ支配下のパレスチナへの入植を進めていきます。その数が増えてくると当然、地元のアラブ人たちからの反感が高まって、オスマントルコが入植を制限したりする動きが出ます。でも当時のオスマントルコは力が衰えてきていて、末端の組織まで十分にコントロールできない。そんなわけでユダヤ人は役人を買収したりして、さらに入植を進めていきます。こうした運動には、ロスチャイルド家が資金を出したりしていたそうです。おぉ。ロスチャイルドって、そういうことをしていたのか。

そんな中、1914年に第一次世界大戦が勃発。オスマントルコが敗北するという見立てのもと、パレスチナはヨルダンとかそのあたりと一緒にイギリスの統治下に入るんじゃないかという観測が浮上します。そこでユダヤ人たちはイギリスに対して、パレスチナの地にユダヤ人の国を作ることを認めるよう働きかけます。

そんな中、1916年にイギリスの首相になったロイド・ジョージは弁護士時代からZionismに大変な理解がある人でした。翌1917年、当時の外務大臣だったArthur Balfour がWalter Rothschildあての手紙で、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設を支持することを宣言します。いわゆるBalfour Declaration です。具体的には、以下のような記述があります。

”His Majesty’s Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people.”

Gordisさんも認めるように、この文書は”astonishingly ambiguous document”でもあります。”national home for the Jewish people”の文言はあっても”Jewish state”という言葉はありませんし、いつまでにそれを作るのかというタイムラインも示されていません。さらに、”nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of exsiting non-Jewish communities in Palestine”という文言もあって、アラブ側の立場を尊重するようなことも書かれています。

ただ、当時のイギリスの政治家の間で、Zionismを支持した方が良さそうだという機運が生まれていたこともまた確かです。ユダヤ人は第1回のZionist Congress(1897年)からわずか20年で当時最強の帝国に自分たちの主張を認めさせたわけですから、あまりに出来過ぎた展開。「いくらカネ使ったんだ」なんて勘ぐりたくもなりますが、実際問題として、ユダヤ人はある種のお墨付きを得たわけです。

第一次世界大戦終戦後の1920年、イタリアで開かれた、イギリス、フランス、イタリア、日本による会議(San Remo Conference)で、オスマントルコ支配地域をどのように分割するかが協議され、英国がパレスチナを統治することで一致します。この際、Balfour Declarationも決議の中に盛り込まれました。戦勝国によって、パレスチナがユダヤ人の戻るべき場所であることと認められたことになります。

で、アラブの人たちは怒ります。すでにパレスチナに入植しているユダヤ人に対する攻撃が始まり、それに対抗するため、ユダヤ人による自警組織も強化されます。こうした組織が後のイスラエル軍の始祖になったとのこと。なるほど。

ただまぁ、どこまでがパレスチナなんだという問題もありまして、ユダヤ人は当初はヨルダン川の西側一帯(今のヨルダンにあたる地域)もパレスチナだろうと受け止めていたのですが、1921年にイギリスは「ヨルダン川の西側一帯はTransjordanです」と決めて、パレスチナから切り離します(当時の責任者はチャーチル)。それでもアラブ側は納得せず、ユダヤ人入植者への攻撃は激化します。

ユダヤ人はZionismの理想を掲げる際、「国際社会はユダヤ人国家を支持してくれるだろう」と想定していたのですが、アラブ側の反発を全く計算に入れていなかったようです。ユダヤ人の指導者の一人、Ahad Ha’amは、こんなことを書いています。

“We are used to thinking of the Arabs as primitive men of the desert, as a donkey-like nation that neither sees nor understands what is going on around it. But that is a great error.”

さらに、ユダヤ人指導者の中でタカ派として知られるZe’ev Jabotinskyなんかは1923年の文書の中で、「アラブ人がパレスチナに愛着を抱いているからこそ、パレスチナにおいてユダヤ人とアラブ人が自発的な和平に達することは不可能だ」と論じました。そして、パレスチナに和平をもたらすためにはアラブ人がユダヤ人を排除することを諦めるぐらいの”the iron wall: a strong power in Palestine that is not amenable to any Arab pressure”が必要だと主張します。

ヨーロッパでユダヤ人が迫害されたこと自体が許されないことであることは明らかです。一方、そのユダヤ人がアラブの人たちを見下すような感情を持ったうえで、パレスチナに入植を進めていったとも言えるようです。そして、それに対するアラブ側からの反感が、ユダヤ人を軍事化の道に後押ししていった。なんか、おそろしい話です。

このあたりまでで第5章。第6章ではヒトラーが登場します。

ヒトラーが「わが闘争」を書いたのは1925年。ジャボティンスキーの文書から2年後です。”If… the Jew is victorious over the other peoples of the world, his crown will be the funeral wreath of humanity and this planet will, as it did thousands of years ago, move through the ether devoid of men.”なんていう風にユダヤ人に対して敵意むき出し。もちろんZionismに対しても全否定で、

“They have not the slightest intention of building up a Jewish State in Palestine so as to live in it. What they really are aiming at is to establish a central organization for their international swindling and cheating.”

ってな具合です。

そんなヒトラーが1933年にドイツの首相となります。

このころ、多くのユダヤ人は「ドイツとの直接交渉でヒトラーに路線変更を迫るべし」と考えていたそうです。タカ派の間ではドイツ製品のボイコット運動を支持する動きもありましたが、ボイコットにはかえってドイツを刺激するリスクがあります。1933年にユダヤ人とドイツの間で結ばれた”Ha’avarah (Transfer Agreement)”は、ドイツ内のユダヤ人が国外に亡命する際には資産をドイツに没収されなくて済むという内容。さらにユダヤ人は資産をパレスチナの銀行に預け、その資金でドイツ製品を買って、パレスチナに送ることができるという内容も含まれていました。ドイツ製品をボイコットすべきという動きがある中で、実際には移民拡大と引き換えにドイツ製品を買う動きが承認されたということです。また、こうした資金はアラブからパレスチナの土地を買うことにも使われました。

そんなわけでパレスチナにおけるユダヤ人の人口は1933年の23万4967人から、1936年には38万4078人に増えます。もちろんアラブのユダヤ人入植者に対する反感は高まり、改めてユダヤ人への攻撃が激しくなります。

このころパレスチナを統治しているイギリスが方針変更します。これまでは治安を悪化させるアラブ人を厳しく取り締まっていたのですが、アラブの不満を抑えるためにユダヤ人の入植を制限することにしたのです。イギリスは1936年後半のユダヤ人入植者の数を4500人に設定。前年の1935年は1年間で6万1000人でしたから、85%減少という計算になります。ところがアラブ側は「ゼロが当然だろう」ということで、イギリスの9000人案を蹴ります。治安はさらに悪化。イギリスは問題解決のため、William Robert Wellesley Peelを団長とする調査団(Peel Commission)を派遣。ユダヤとアラブの双方から言い分を聞くことにしました。

1937年に出たPeel Commissionの報告書は、ユダヤとアラブは両方とも同じ地域に対する主権を主張しているのだから双方が納得する解決策はないとして、パレスチナの分割案を提示します。

Balfour Declaration当時、ユダヤ人は現在のヨルダンまで含めた地域が自分たちのものになると解釈していました。しかしこのPeel Commissionの報告書でユダヤ人に割り当てられたのは、その20%にすぎません。しかもエルサレムとベツレヘムはアラブ側のものになります。1921年にチャーチルがTransjordanを切り離したときよりもさらに小さい範囲です。

当然、ジャボティンスキーら多くのタカ派はこの提案に反対しますが、David Ben-Gurionを初めとする現実路線の指導者たちは「どんな提案でもユダヤ人国家が認められるなら受け入れるべきだ」との立場をとります。そして1937年の第21回 Zionism Congressで、Peel Commissionの提案は受け入れられます。

でもアラブ側は拒否。ユダヤ人への攻撃が激しくなります。

1938年11月、イギリスなどがチェコのズデーテン地域をドイツに割譲することで合意。ヒトラーがノリノリになります。Ben-Gurionはこの決定を知り、「ヨーロッパ最悪の日」と評したそうです。イギリスがチェコをドイツに割譲するなら、次に引き渡されるのはパレスチナだと予見したのです。このころ、パリでユダヤ人がドイツ人の役人を殺害する事件があり、ドイツとオーストリアで反ユダヤ感情が爆発。各地でシナゴーグが焼かれ、2万6000人のユダヤ人が収容所に送られました。1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻。イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まります。

これはユダヤ人にとって悩ましい問題です。イギリスはBalfour Declarationに反してアラブの肩を持ち、ユダヤ人のイスラエルへの移民を制限しているという意味でユダヤ人にとって敵ですが、同時にドイツと戦ってくれる味方でもあります。ところがアラブはアラブでイギリスに敵意を抱いています。そもそもパレスチナにおけるユダヤ人国家なんていう話が現実味を増したのは、イギリスがある種のお墨付きを与えたことが発端です。こうした中、イギリスは1943年、正式にパレスチナのユダヤ人入植者による部隊をイギリス軍に加えることを決定。これらの部隊が独立後のイスラエル軍の基盤となります。


まぁ、ちょっと疲れましたんで、このあたりで終わります。話はまだまだ続くんですが。第二次世界大戦後は、周辺アラブ諸国との対立の話です。エジプトのナセル大統領とかPLOのアラファト議長なんかが敵役です。第二次世界大戦後のイスラエル人にとって、ホロコーストの時代にナチスに立ち向かわなかったことが口にはできない恥の意識としてすりこまれていたなんていう話とか、建国間もないころのイスラエルは今とは違って経済的にもひどく困窮していたという話とか、イスラエルの中でも「どこまでがユダヤ人なんだ」という論争がある(エチオピア系ユダヤ人: Beta Israel, Falasha なんていう概念もある)なんている話もあって、いろいろと興味深いです。

Balfour Declaration(1917年)は100年以上も昔の話ですが、中東和平交渉は今でも続いています。つまりは紛争は世代を超えて引き継がれているわけです。

面白い本でした。英語も読みやすいです。