2012年10月29日月曜日

1993年07月15日(7日目) バイカル湖

1993年07月15日(7日目) 晴れ

朝目覚める。夢を見た。悲しいことだ。バイカル湖に向かうバスの中で窓の外を眺めながら、"Fool On The Planet"を思い出すと、思わず感動する。ホテルに着いてしばらくして昼食にする。その伝票に「15万ルーブル」とあるのか「1万5000ルーブル」とあるのかでモメるが、2万ルーブルを渡すとちゃんとお釣りがきた。半信半疑で店を出たが、晩飯が7000ルーブルぐらいだったので正しかったのだろう。

リストビアンカに向かう前に洗濯物を出すか出さないかで少し腹を立てる。しかし所詮、怒りを持続できる性格でもないのですぐ忘れる。4人でリストビアンカまでてくてく歩いたが、風光明媚であることと、牛がいたこと、小学校2年の女の子が描くゆおな三角屋根に窓とカーテンとお花、さらに煙突まであるような家ばかりであったことが印象に残り、特に街までは行かなかった。

帰り道に見つけたプライベート・ショップという看板にひかれて本道をそれて歩いていると、偶然、有名な教会にたどり着く。思わず写真をとったりする。どーせ暇なので夕陽になるまでバイカルのほとりにいようということで、石を投げたり、名前を彫ったりしながら時を過ごす。のんびりしたもんだ。どーもこの時にペンを落としたらしい。今、Jのシャーペンを借りている。

それからカメラのバッテリーが切れそうだ。おとんもいい加減なもんである。モスクワーのゴーリキー通りとマルクス通りの交差点にあるナショナルホテルの一階にだいたい売っているらしい。もしなければグム百貨店にもあるそーだ。

晩メシ食ってシャワーを浴びて星を見る。まだ少し空が明るいせいか淡路島のときのような満点の星空ではなかったが、まぁよく見えた。砂漠に期待をかけながら、寝たりしよっかな。

1993年07月14日(6日目) シベリア鉄道、イルクーツク

1993年07月14日(6日目) 曇り

電車の中は何も起こらず、またしてもだらだらと昼になる。でも遠くの山のふもとに一面霧がたちこめていて、何とも不思議な光景だったので写真を撮っておいた。経ゼミはますます難しく困ってしまう。

ウラン・ウデの前の駅でジャガイモを200ルーブルで買う。「スコーリカ・ストーイト」を使うことに成功。ウラン・ウデではアイスクリームを買おうとしたが、オレンジ・エード(600ルーブル)を買っているうちに売り切れてしまう。結局、野望を果たせないまま再び列車に乗る。

ウラン・ウデを過ぎてしばらくすると、隣のコンパートメントのお父さんがドアをノックして、バイカル湖が見えると教えてくれた。通路には人が鈴なりで、私は気分がすぐれないというSとコンパートメント内で待機。ほとぼりが醒めてから、ゆっくりと見ることにする。

しばらくして通路に出てみると、人も少なくなっていたので座ってバイカル湖が見えるのを待っていると、ちょうど湖が見える頃に隣のコンパートメントの女の子が出てきて窓の外をながめだした。絶好のシャッターチャンスと思ったが、すぐお母さんが手前に立ったので撮る気がうせてしまう。(しばらく後に似たような写真は撮れた)

再びコンパートメントにひっこんで、女の子の気をひこうと「ウサギ」「カエル」などとやっているうちに、Jのマジックショーが始まる。マジックはウケたらしく、Jは車掌室に呼ばれてしまう。残った3人で洋楽の話をしているうちにイルクーツクに着く。

夜のロシアは真っ暗で、なぜかみんな急ぎ足でホテルに到着。ジュースを900ルーブルで買い、シャワーを浴びて日記を書く。止まっている場所で寝るのは久しぶり。ぐっすり9時まで眠ろう。明日は一応、Jのアラームで起きることになっているのだが、彼はアラームもセットせずに眠っている。大丈夫だろうか。あと、このホテルには日本人の団体がいて興ざめだ。一応私たちも団体だが、気概が違う。

2012年10月24日水曜日

イランといえばイスラエル

イランといえば、9月下旬の国連総会でイスラエルのネタニヤフ首相が爆弾の絵を持ちながら、何やら吠えていたので、今更ながら調べておいた。全文はこちら

ネタニヤフ首相が演説したのは9月27日の国連総会。

曰く、

・イスラエルは平和を愛する国であり、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教が共存できる世界を望んでいる。

・しかし中世的な価値観を持ったイスラム原理主義者はこうした考えに反対していて、イスラムの価値観で世界を征服しようとしている。

・イスラムの価値観を持った軍や武装組織は、イランのイスラム革命防衛隊からアルカイダまでいろいろある。

・これらの組織は人類をイスラムの教義が絶対視され、無慈悲な争いが続いた時代にまで引き戻そうとしている。

・彼らの試みは失敗するだろうが、問題はそれまでにどれだけの人命が失われるかだ。

・70年ほど前、狂気に支配されたイデオロギーが世界を征服しようとした。その企みは失敗したが、数百万人の命が失われた。企みに反対した人たちは長く待ちすぎたのだ。

・同じ失敗を繰り返してはいけない。

・核武装したイランについて理解するには、核武装したアルカイダを想像してみればいい。

・イランは核武装しない状態でも様々なことをやってきた。

・2009年には国内の民主化運動を暴力的に押さえ込み、今はイランの取り巻きたちが子供も含めた何万人ものシリア人を殺している。

・イラクやアフガニスタンでは米兵殺害にも関わっている。イランの代理人は、ベイルートやサウジアラビアでもアメリカ人を殺している。レバノンやガザでもテロ活動を続けており、何千発ものロケットやミサイルがイランの代理人ともいえるテロリストの手でイスラエルに打ち込まれている。

・2011年にはテロリストのネットワークは5大陸の24カ国にまで広がり、外交官を殺すためにホワイトハウスから数ブロックしか離れていないレストランで爆弾テロを計画していた。

・もちろんイランは虐殺を否定している。そして毎日のようにイスラエルの破壊を求めている。

・こうしたイランの行動を前提として、核武装したイランについて想像せねばならない。

・国際社会は核武装したソ連を押さえ込むことができたのだから、イランも同じようにできるはずだというかもしれないが、それは危険な仮定だ。

・マルクス主義者には自爆テロをするような者はいなかったが、イランにはそういう人間はいくらでもいる。

・ソ連はイデオロギーと自らの生存の選択を迫られて、自らの生存を選んだ。でも、多くの中東専門家が指摘するように、イランにとって「相互破壊」は抑止力にはならず、核戦争につながる誘因になる。

・ラフサンジャニ元大統領はこう言っている。「一発の核爆弾をイスラエルに対して使えば全てが破壊される。しかし、そのイスラム世界が傷つけられるだけのことだ」「こうした結末について真剣に考えることは非合理的なことではない」。("The use of even one nuclear bomb inside Israel will destroy everything, however it would only harm the Islamic world." "It is not irrational to contemplate such an eventuality.")

・私はこの15年間、イランの核武装を阻止するべきだと言い続けてきた。

・手遅れになりつつある。イランの核武装に向けた計画が中断されることはない。

・20年近くにわたって国際社会は外交によってイランの核武装を食い止めようとしてきたが、失敗してきた。

・オバマ大統領のリーダーシップのもと、イランに対して史上類をみない厳しさの経済制裁が課されており、効果が出ている。しかし、経済制裁がイランの核武装計画を止めることができていないという事実にも目を向けねばならない。

・IAEAによると、イランは2011年だけで地下核開発施設の遠心分離器の数を2倍にした。

・この最終段階において、イランの核武装を食い止める唯一の方法は、イランの核武装計画に明確なレッドラインをひくことだ。

・レッドラインは戦争を誘発するのではなく、戦争を阻止するのだ。

・集団防衛について明記したNATO憲章はヨーロッパの平和の維持に貢献してきた。

・キューバ危機の際、ケネディ大統領が引いたレッドラインが戦争を回避した。

・今年、イランがホルムズ海峡を閉鎖すると言ったとき、アメリカがレッドラインを引いた結果、イランは引き下がった。

・レッドラインはイランの核武装計画の核心的な部分、ウラン濃縮に関連づけて引かれるべきだ。

・イランは来年春、遅くとも来年夏には、中程度のイラン濃縮を終え、最終段階に入るとみられる。

・最終段階に入ってしまえば、核爆弾に必要なウランを手に入れるまでに数カ月、悪くすれば数週間で済んでしまう。

・だから、イランが中程度のイラン濃縮を終える段階、ここにレッドラインが引かれるべきだ。(where should the red line be drawn? The red line should be drawn right here………….. Before Iran completes the second stage of nuclear enrichment necessary to make a bomb.)



熱弁です。国際社会としてレッドラインを明確に示せば、イランは核開発計画を放棄するんじゃないかという趣旨のようですが、具体的にはどうしろというんでしょうかね。

次のアメリカの大統領とイスラエルが共同で「核濃縮の最終段階に入ったらただじゃおかないぞ!」と宣言すればいいのかもしれませんが、次期大統領がオバマかロムニーかによって情勢が変わってくるのかもしれません。

2012年10月20日土曜日

米国の対イラン制裁とハイパーインフレ

イランに対する経済制裁の結果、イランですごいインフレが起こっているらしい。ということで、米国のイラン制裁について調べておいた。

米国のイラン制裁は何度も何度も行われているけれど、最近では今年2月5日のExecutive Order 13599が話題になった。EO13599はこちら。これに関するホワイトハウスの声明はこちら。財務省の声明はこちら

で、これらの文書によると、この大統領令で、イラン政府、イラン中央銀行、イランの金融機関が米国内で保有している資産を凍結(blocked)。さらに、この凍結対象となっている組織(イラン政府、イラン中央銀行、イランの金融機関)と取引がある組織の資産も凍結された。財務省の声明では「これまではイランとの取引を”拒否”するように求められていただけだったけど、今回は”凍結”されることになる」と解説されています。

このあたりのニュースは当時の日本でも注目されて、イランからの原油輸入取引に関わっている日本の銀行の資産も凍結されちゃうんじゃないかと心配されたりもした。でも結局、日本と米国が協議をした結果、「日本はこのところずーっと、イランからの原油輸入を減らしてきているので、日本の金融機関が資産凍結の対象になったりはしないよ」ということで落ち着いた。よかった、よかった。

でも、良くないのはイランの方。この制裁によってイランの通貨、リアルには売り圧力がかかる。イランと海外の貿易が減るのだから、取引通貨としてのリアルは必要とされなくなるという見方が強まりますから(多分)。このリアル安の結果、イラン国内の輸入品の価格が上がることになって、イラン国民は困る。本来であれば、イラン政府が為替市場で外貨売りリアル買いの介入を行って、リアルの価値を維持したいところなんだけれど、制裁の影響はイラン政府にも及んでいるわけで、イラン政府には介入するだけの外貨準備がない。つまり原油をバンバン売って、外貨を獲得して、それを為替市場で売るということができないわけです。その結果、リアルは暴落モードに入って、国内の物価はハイパーインフレーション状態に突入している可能性もある。(参照)

暴落モードのきっかけは、イラン政府が食料や医薬品などの生活必需品を輸入する企業への支援策として、輸入用の外貨を割り当てる制度を作ったところ、「いよいよ外貨準備が尽きているんじゃないか」というパニックを呼び込んでしまったというものという説もある。(参照)

なるほどなぁ、経済制裁っていうのはこんな風な影響が出るものなんだなぁと。となると、なんですかね。イランでも暴動が起こったりするんでしょうか。イランが核開発疑惑を払拭できれば事は収まるのかもしれませんが、どうなんですかねぇ。


ただ、ちょっと面白い話もある。イランは紙幣の印刷を海外企業に頼っていて、その企業がイランへの紙幣供給を止めているので、インフレは加速しないかもしれないという話です。ほんまかいなという理屈ですが、ジョンズ・ホプキンス大学の偉い先生のコメントがニューヨークタイムズに載っています。(参照)

ハイパーインフレってどうやったら止まるんでしょうね。ジンバブエのケースでは米ドルそのものを決済通貨として使うようになった結果、ハイパーインフレが止まったってことらしいですけど、制裁を受けているイランでそのような政策が取れるはずもないです。

2012年10月17日水曜日

Budget Control Act of 2011とFiscal Cliff

Budget Control Act of 2011について調べておいた。

成立は2011年8月2日。
内容はこんな感じ。サマリーはこちら

・FY2012-2021の予算のうち、裁量的経費について国防関連も含めて自動的にカットする
・public debtのリミットを14.294 trillionから、$400 bn分だけ引き上げる
・議会からの反対がなければ、さらに$500 bn引き上げることができる
・同じような手続きで、さらに$1.2 trillion分引き上げることができる
・Joint Select Committee on Deficit Reduction(Super Committee)を作って、FY2012-2021にかけて$1.2 trillion以上の歳出削減のための合意を目指す

で、このSuper Committeeで何らかの合意がなされれば、予算の自動的カットを回避できるかもしれなかったけど、実際には合意に至らなかった。ということで、FY2012は$21 bn分の歳出抑制が行われ、FY2013から自動的な歳出カットが行われるということみたいです。(参照)

一方、オバマ大統領はこの法律に基づいて、11年9月にdebt limitを$900 bn分引き上げて、12年1月にさら$1.2 trillion分の引き上げを議会に要請した。(参照) この要請も認められて、今の債務上限は$16.394 trillion。で、この上限も来年1月ごろに突破するかもしれないという話もある。(参照)

とまぁ、こんな状態ですが、12年末にはブッシュ減税が期限切れとなって、13年1月からは増税となります。ブッシュ減税って10年にも期限切れになりかけたんだけど、オバマ政権が12月にTax Relief, Unemployment Insurance Reauthorization, and Job Creation Actを成立させて、期限が延長されていたのです。Congressional Budget Officeによると、現行法に基づいて、自動的な予算カットや増税が行われれば、FY2013の財政赤字は$607 bn(GDP比4%)も圧縮されます。経済成長が抑制されて税収が圧縮されるなどの効果を考慮しても、やっぱり$560 bnも財政赤字削減効果がある。(参照)

ただし、これでよかったよかったというわけではなくて、景気が下押しされることへの不安も大きい。これがいわゆるFiscal Cliff問題というやつですね。ウィキペディアによると、バーナンキさんが12年2月の議会証言で初めて使った言葉らしいです。(参照)


へぇ。

2012年10月12日金曜日

1993年07月13日(5日目) シベリア鉄道

1993年07月13日(5日目) 晴れのち曇って、ちょっと雨も降る

なんにも起こらないね。朝11時頃に目を覚まし、Сковоропино駅に降りる。別に何も売っていないし、することもなくて、外の空気を吸っただけで帰る。次の駅で降りたときはギョウザの変形版みたいなのにネギをまぶした様な、おそらくはマンタというやつであろうものを売っていたが、How much? がわからず断念する。帰ってから調べたが、また忘れた。再び調べ直さなければ。

列車に戻ると少しばかり経ゼミを読んでお昼寝である。この頃まで他の人間とはほとんど口をきかない。Sなんぞは1時頃まで寝ていた。ウラジオで買った時計が遅れていて、まだ10時ぐらいだと思っていたらしい。実にのんびりした生活である。

駅に止まって目を覚まし、ちょっと外の空気を吸って戻ってくると、流石にみんな元気が出てきたらしい。会話も交わされる。下ネタ、スカトロネタに続き、ノスタルジーネタも加わる。あまりにも暇なもんだから、虹が見えると盛り上がる。こうしてしげしげと虹を眺めるのも久しぶり。ロシアの虹は色濃くでっかく、力強い。虹を見ながら"Still love her"なんぞを口ずさむと思わずセンチメンタルな気分になってしまい腹が立つ。ロシアに来ても考えることはたいして変わらない。

暇ついでに白い馬がいただけで野良馬だと盛り上がる。川が見えると川だといって盛り上がる。日本にいると考えもしないだろうが、どれもこれも綺麗である。その綺麗な風景がごく当たり前に続いている。日本にいても綺麗な風景はごく当たり前に存在するのである。人工的に作られたビルだって高速道路だって、きっと綺麗だろう。でもそんな綺麗なものがごく当たり前に存在することに気づかせてくれるのは、日常と時間と義務から我々を解放してくれるこの鉄道の効用であろう。きっと日本も捨てたもんじゃない。

食堂車でチキンとサラダとボルシチを食べて満足である。経ゼミも肝心なところでもうひとつ納得ができない。まぁ、読むことに意義がある。意外と当たり前のことを見落としているのかもしれない。理解しようという義務感からはなれて、シベリア鉄道的にのんびり読もう。



★冒頭の駅名はキリル文字で書かれているのですが、アルファベットではSkovorodinoと表記するようです。

★ご存知かもしれませんが、"Still love her"というのは、あのTM Networkの名曲です。(参照)

1993年07月12日(4日目) シベリア鉄道

1993年07月12日(4日目) 晴れだけど途中ちょっと雨

さすがに電車の中では何も起こらない。朝起きたのは10時すぎ。だらだらパンを食べたり、ジュースを飲んだり、本を読んだりして過ごす。いくつかの駅に止まったが、別に降りるつもりもなく、だらだらする。

窓から見える風景はハバロフスクまでは湿原みたいな感じであったが、ハバロフスクをすぎてしばらくすると、ふつーの草原というかなんというか。夕方頃見えた景色はきれいであった。

食堂車でも食事をしたが、まずまず美味である。キャビア+ゆで卵とボルシチ、更にハンバーグがついて2800ルーブルぐらい。でも、オレンジジュースはまずかった。

4人の会話は下ネタからスカトロネタに移り、ますます男臭さを増している。今、夜の11時ぐらいだが、まだ太陽の光でほの明るい。下手したら星が見れないのでは。

電車の揺れや狭さにも慣れ、車内にも危険な雰囲気もなく、可愛らしい子供と太ったおばちゃんを視界の端に入れながら、通路の外をながめていると、たっぷりと異国情緒にひたれる。明日もこんなだらだらした1日であることを嬉しく思いながら、便所に行くことにする。

2012年10月9日火曜日

ベネズエラあれこれ

ベネズエラでチャベス大統領が選挙戦で勝利しました。事前の報道では対立候補のカプリレスさんが結構いい闘いをするんじゃないかと言われていましたが、結局は得票率で10ポイントぐらいの差がつきました。で、米国なんかからは蛇蝎のごとく嫌われていて、国内でも不満が高まっているといわれているベネズエラで、なんでチャベス大統領が再選できたんでしょうっていうことで、ちょっとだけ数字をみてみた。世界銀行のdatabankというサイトが超便利です。

とりあえず名目GDPをみてみると、成長率は04~08年は20%台後半から30%台後半という猛烈な勢いです。ただしこれは、この期間のインフレ率が平均25%という事情がありまして、実質GDPでは5~18%という成長率になります。リーマンショック後の09、10年は実質GDPの成長がマイナス3.2%、マイナス1.5%となりますが、11年は4.2%成長。もちろん先行きには不安があるんでしょうが、チャベスの施政下で経済がボロボロになったとか、長期低迷から抜け出せないということではないように思います。ベネズエラは原油埋蔵量がサウジアラビアよりも多いということらしくって(参照)、問題はその富をどうやって分配するっていうことなんじゃないか。

で、チャベス大統領は貧困対策で大きな成果を上げているっていうことらしいので、そのあたりのデータもあるかと思って、Poverty headcount ratio at national poverty lineというデータをみてみた。National Poverty Lineっていうのは、こういうことらしい。この数字をみていると、チャベス就任前の1998年は人口の50.4%が貧困状態だったけど、この数字は09年には28.5%まで下がっている。Poverty headcount ratio at $2 a dayという数値でも、98年の20.4%が、06年に12.9%に下がっているので、まぁ、そういうことなんじゃないだろうか。

あとベネズエラは治安が悪化しているという記述もよく見かけたのでIntentional homicides(10万人あたり)というのも調べてみると、98年の19.4が、2000年以降に増加基調に入って、09年は49になっている。

っていうことで、原油がジャバジャバ出てくるベネズエラでは、経済はインフレ問題は抱えながらも実質ベースでも経済成長は続いているし、貧困対策では成果が出ているわけです。だからチャベスが当選するのはそんなに不思議な気もしない。ただまぁ、治安も悪くなっているし、反米路線は鮮明ですから、「アメリカとビジネスしたいな」なんて思っている人たちからすればチャベスは邪魔なんでしょう。それに「21世紀型の社会主義」を目指すということですから、民主主義とか資本主義を求める人たちからしてもチャベスは不都合。そんな人たちがベネズエラでも増えてきたけど、やっぱりチャベスを支持する人たちも多いってところですかね。

まぁ、ちょっと調べただけなんで、また機会があったら勉強しておきます。ベネズエラの歴史とか何も知りませんし。

2012年10月3日水曜日

ソニーの初代社長

ソニーの初代社長は前田多門さんといいます。井深大でも盛田昭夫でもない。

ソニーのサイトによると、

1946年5月7日の昼、総勢二十数名の小さな会社「東京通信工業」(現ソニーの前身、以下東通工)の設立式が始まった。社長には戦後すぐの内閣で文部大臣を務め、文化人でもあった井深の義父の前田多門(まえだ たもん)になってもらい、専務に井深、取締役に盛田が就いた。(参照)

とのことです。

井深さんは2代目社長。3代目が盛田さんで、4代目が岩間和夫、5代目が大賀典雄、6代目が出井伸之。

テストには出ないので、忘れてもいいです。

2012年10月1日月曜日

米大統領選

アメリカの大統領選が11月6日にあります。RealClearPoliticsによるまとめでは、今のところ現職のオバマ大統領が共和党のロムニー候補を4.1ポイントリードしているそうです。ロムニーさんは金持ちすぎて嫌われているようで、なんとなく「オバマで決まりなんじゃないの」っていう雰囲気もあります。そんななか今さらなんですが、米大統領選のあれこれについて調べてみました。

まず「大統領選なんて現職が勝つに決まってんじゃないの?」と思ったもので、ちょっと調べてみたところ、第二次世界大戦後の米国の大統領選挙はこれまで16回ありまして、このうち現職が出馬したのは10回。で、現職がそのまま勝って2選を果たしたのが7回。つまり現職の勝率は7割ということで、基本的には現職は勝って当然ぐらいのイメージでいいんだと思います。

では今回の大統領選はオバマさんが勝って当然の情勢かというと、なかなかそうともいえない。再選を果たした7人の現職のうち5人は9月時点の世論調査で対立候補に10ポイント以上の差をつけている。つまり現職はぶっちぎりで勝つのが当たり前なんだけれど、9月時点で4.1ポイントしか差をつけられていないオバマさんは現職のわりには苦戦している。

しかも現職が負けた3つの選挙戦は、いずれも大統領選段階(11月)の失業率が7%を超えているという共通点がある。つまり「失業率を7%未満にできない現職大統領」は再選できないというわけです。現在の米国の失業率は8%超という状態ですから、オバマさんが悪いジンクスを踏襲してしまう可能性もある。

では、失業率を7%未満にできない現職大統領を相手にして、ロムニーさんは健闘しているのかというと、実はそんな感じでもない。11月の失業率が7%超で現職が破れた3回の選挙では、対立候補は9月時点の世論調査で悪くともポイント差なしにまで現職に迫っている。ロムニーさんは失業率を7%未満にできない現職大統領に対して、9月時点で4.1ポイントのリードを許しているわけで、大して強い候補ではないということだと思います。

ちなみに現職大統領を破った3人の候補というのは、1976年にフォード大統領を破ったカーターさん、1980年にカーター大統領を破ったレーガンさん、1992年に父ブッシュ大統領をやぶったクリントンさんです。1976年のフォード大統領は、74年のウォーターゲート事件で辞任したニクソン大統領の後任として副大統領から昇格した人ですから、人気がなかったのは当然。このフォード大統領が敗れた選挙を例外とするならば、現職大統領を破ったのはレーガンさんとクリントンさんだけということになります。では、ロムニーさんがレーガンさんやクリントンさんに匹敵するほどの対立候補といえるかどうかというと、これはもう甚だ疑問だというしかありません。

つまり今回の大統領選は「失業率を7%未満にできない大統領」対「大したことない対立候補」という図式。まぁ、なんか盛り上がりに欠けるのもうなずけますけど、弱弱対決で接戦になるんじゃないですかね。


あと、大統領選と失業率について調べて気づいたんですが、大統領選からの4年間で失業率を下げた大統領というのは、トルーマン(2期目)、ケネディ+ジョンソン(1期目)、ジョンソン(2期目)、カーター、レーガン(1期目)、レーガン(2期目)、クリントン(1期目)、クリントン(2期目)となりまして、レーガンの2回以外はすべて民主党です。

逆に任期中に失業率を上げた大統領というのは、アイゼンハワー(1期目)、アイゼンハワー(2期目)、ニクソン(1期目)、ニクソン(2期目)+フォード、父ブッシュ、子ブッシュ(1期目)、子ブッシュ(2期目)で、例外なくすべて共和党。ただしオバマ大統領は民主党として初めてこのリストに名前を連ねることになるかもしれません。前回大統領選時(2008年11月)の失業率は6.8%でしたから、ちょっとハードルは高い。

1993年07月11日(3日目) ウラジオストク

1993年07月11日(3日目) 曇り、晴れとみせかけて雨

なんだか知らんが、今日は疲れた。まず朝、あのモジャオが向かいのコンパートメントであったことに気づく。話が筒抜けだったのではという話もあったが、結局無視してしゃべり続ける。

ウラジオに着くと、上陸までに2時間程待ったのでは? やはり入国手続きに時間をかけるのかと思っていると、一発で終わる。さて、いよいよウラジオ観光と思っていると、両替をする場所が見つからない。困っているうちん、1ドル700ルーブルという現地人が現れ、そのレートで手をうつ。このときJはちょとだけしか両替しなかった。レートが気に入らなかったらしい。

次に手荷物をあずけることにしたのだが、いくらかかるのか、何時まで引き取りができるのか、全くわからない。しかし、ここはさすが旅慣れたJである。ペンと言葉を巧みに用いて情報を仕入れ、無事に預けることができた。

ウラジオの街に出ると小雨。この悪天候の中、展望台にのぼり、雨にけむったウラジオベイを見下ろす。情緒がないこともない。雑多な船の甲板がいとをかし。

それから博物館の前にゆくと、物売りの少年が寄ってくる。私はレーニンのバッヂと絵はがきを買ったのだが、Nの買ったマカロフバッヂがうらやましい。その後、Sの強い主張でウラジオホテルでリッチなランチ。ウェイトレスのお姉ちゃんは親切で、我々にとても評判が良かった。

しかしそれよりも、ここでは謎の日本人、カメ田とアレックスがいたのである。カメ田はモスクワに自費留学している人で、ロシア語が上手い。アレックスは正に謎。何を考えているのか私にはわからない。最初は物売りかと思ったが、そうでもなく、ボートに乗ろうと言ったり、泳ぎだしたり、わけがわからない。親切なのは結構なのだが、行動の主導権を握り、時に友人とわけのわからん事を話したりするので、私はあまり快く思っていなかった。2時間ほど一緒にいたのだろうか、ついに我々はウラジオ駅でアレックスを振り切り、再び4人での行動に戻った。

まず念願のシベリア鉄道に備えるための買出しである。あっさりジャイケンで負けた私とNがが買いに行くことになった。しかし実際は私は荷物持ち程度で、交渉はほとんどNがやった。私などはロシア語で数も数えられないのである。旅行前の不勉強を深く恥じる。

でもなんとかパンも買え、ひたすら鉄道の時間を待つ。8時から12時半までの長丁場であったが、Sの下ネタ作戦や地べたに座りむ同化作戦でなんとかしのぐ。

私とNで列車を捜し(これも実際はNだけの活動である)、列車に乗り込むが、この列車がまた、狭い、暑い、きたないと三拍子そろったうえに、縦横の激しい揺れ、更にはシーツが濡れているという条件である。みんな怒りでテンションが高くなるが、疲れのせいか皆、寝つきが早い。今、起きているのは私だけか?

そうそう、Jがルーブルを手に入れるとき、トリックにひっかかり、30ドルを2ドルにして返されてしまった。あの旅人でマジシャンのJでさえトリックにひっかかるのである。恐るべきロシア人。私などトリックにひかっかっても気づいてないだけかもしれない。

この列車の揺れの中、書くのはしんどい。もう便所に行ってねる。


★天気のところの「みせかけて雨」というのは、愛読していた「がんばれタブチくん」に出てくるクワタのキャラクターを意識したものです。

★「雨にけむったウラジオベイ」というのは、アルフィーの曲「ふたりのGraduation」に出てくる「雨にけむる TOKYO-BAY」という歌詞を意識したものですが、別にアルフィーのファンというわけではないです。

★いろいろと分かりにくいところの多い文章ですが、おつきあい頂ければ幸いです。

1993年07月10日(2日目) 船中

1993年07月10日(2日目) 曇のちちょっと晴と思ったら少し雨も降ったらしい

ロシア人は大量の食事をとるらしい。朝食から異常に量が多いのである。おまけにお茶の時間まであるから、私は生まれて初めてではないかというぐらい大量の食物を摂取した。こんな食事をするからロシア人はでっかいのだろう。踊っていたおねーさんもデカイ。水夫のオヤジもでかい。

そうそうデカイといえば、謎の美女(レイナというらしい)の父にして、木彫り職人、更には宗教活動も行い、一説にはホモだとも噂されるモジャイスキーもでかい。船の上では運動不足になってしまうので私もモジャイスキーの様になってしまうのではないだろうか。しかし明日ウラジオに上陸すれば、あの荷物を持って半日以上活動せねばならない。おそらくモジャイスキーになっている暇は無いであろう。

それから今日は入門経ゼミを読んだ。私は勉強家であるなーとつくづく感心する。シャワーも浴びた。おそらくイルクーツクまで浴びることはないだろう。狭かったが、結構さっぱりした。

さっぱりと言えば、あの宮沢りえ主演の豪姫がビデオルームで流れていた。ラストシーンだけみると実につまらない映画であったことが想像される。映画館で見た人は気の毒なことだ。

昼間にナースと話をした。別にこれといった話もしてないが、彼女は夜勤明けにカバンに水をつめて、富山県内から伏木港に行き、この船に乗り、昔バレーボールをやっていたそーだ。連れの友達は船酔いがひどいらしい。

明日はいよいよ本土上陸。まずシベリア鉄道のチケットをつつがなくもらえるかという不安を抱いている今日このごろである。

それにしてもJはよく寝る。

1993年07月09日(初日) 船中

1993年07月09日(初日) 晴れのち曇、夜には小雨

伏木まではひどく暑い。出国手続きする人も、手続きを待っている人も、船の中の人も皆、不慣れである。アントニーナなんたら号の甲板に、阪神の帽子を被った謎の美女を発見。我々の話題の中心となるが、MUSIC HALLで話しかけてきたのは、伏木で会った一瞬遠目にはみゆきちゃん似かと思ったが、実際にはそうでもなかったピンクのリュックの女性であった。

この船にはMUSIC HALLなるものがあって、夜毎宴が繰り広げられているらしい。この船には酒の入ったおっちゃんが多く、我々の部屋のトイレを借りて、我々を困らせる者も現れる。海外旅行では現地人より、日本人に気をつけた方がよいようだ。まぁ、我々も似たようなものかもしれないが。

あと書くことといえば、Jがよく寝る。しかも寝起きはよくない。また、船中の食事は質、量ともにまずまず。ただし、パンはカスカスであまりうまくない。シベリア鉄道内でもこんな感じのパンを食うことになるのだろうか。少し不安であるが、まぁ、旅とはこんなものであろう。何でも食べなければ世界には出れないと、宇治の木幡から来たという内装屋のおっちゃんも言っていた。

このおっちゃんによると、我々は30歳まで頑張れば楽な暮らしができるそーだ。一理あるようだが、別に楽な暮らしをするために生きているのではないと考えるのは、若さゆえであろうか。

あと、私はロシア語の会話が全く覚えることができない。完璧に覚えたのはスパシーバぐらいで、これも明日になれば覚えているかどーか疑わしい。ズトラストヴィーチェ(?)やスパコーイナイノーチやオーチェニ・フクスーナは極めて怪しい。

最後に例の阪神美女はアイヌ系と噂されるヒゲオヤジと、ロシアの人らしいオカンが一緒にいる。

夜になって船の揺れが激しく、Nが苦しそうである。にもかかわらず、隣の部屋のロシア人グループは日本オヤジに負けず騒々しい。最初のうちは許せたが、ちょっぴり腹をたてつつある自分がいる。あー、揺れが激しい。これ以上書くと、Nの二の舞である。では、スパコーイナイノーチ。

街道を遼かにゆく

今は2012年なわけですが、今からさかのぼること19年前、大学3年生だった私は友人3人と一緒にウラジストクからシベリア鉄道でモスクワに行って、そこから飛行機てタジキスタンだかカザフスタンだかに入って、そこから鉄道で中国新疆ウイグル自治区のウルムチに入って、さらに鉄道で上海まで行って、そこから船に乗って神戸まで戻るという旅行をしたことがある。

で、そのときつけていた日記が手元にある。せっかくなので、「街道を遼かにゆく」のタグで公開していこうと思います。私も内容は全然覚えていないのでドキドキなんですが、ほぼ20周年なんでまぁやってみようかなと。

基本的には原文ママです。文体は「である」調になっています。ただ、同行した友人の名前は、イニシャル(SとNとJ)でごまかします。