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2017年8月30日水曜日

"The Curse of Cash"

"The Curse of Cash: How Large-Denomination Bills Aid Crime and Tax Evasion and Constrain Monetary Policy"という本を読んだ。2016年にハーバード大学のケネス・ロゴフ教授が出した、100ドルとか1万円みたいな高額紙幣がいかに犯罪や脱税に使われていて、金融政策の足かせにもなっているかということを解説した本です。タイトルそのまんまですね。

ロゴフ教授といえば、"This Time is Different"という国家の財政破綻の歴史について書いた本で有名になった人です。留学中にとった授業で教科書に指定されていたことと、その授業でBをとってしまったことが懐かしい。バーマン教授には心から御礼申し上げます。

で、この本でいわんとすることはさきほど書いた通りです。実際には高額紙幣がどのぐらい使われていて、それがどのぐらい犯罪や脱税に関わっているかなんていうことはオフィシャルな統計で示せるわけではないのですが、ロゴフ教授は入手可能なデータを駆使して、さらにそこに色んな仮定を重ねて、自説を補強していきます。現金がいかに闇経済で使われているかというのは、以前に読んだExorbitant Privilegeでも触れられていました。まぁ、具体的な規模は分かりませんが、そりゃそうだろうなという気はします。

あと、金融政策については、マイナス金利政策の効果が高額紙幣によって損なわれると主張します。中央銀行は景気を刺激するために金利を引き下げるわけですが、政策金利がゼロにまで到達してしまうと、そこから先は金利を引き下げることはできない。そこで量的緩和政策なんていうのが発案されたわけですが、それがどのぐらい景気を刺激する効果があったかどうかはよく分からないわけです。そこで、日本や欧州はマイナス金利を採用するようになりました。ところが中央銀行がマイナス金利をかけて景気を刺激しようとしても、預金者が銀行口座のお金を現金化してしまえば、そこにはマイナス金利の影響は及ばないわけです。だから、大きなお金の金額の現金化のツールである高額紙幣が金融政策のあしかせになっているといえるという主張です。

ロゴフ教授はここから、だから高額紙幣は廃止するべきだ。各種カードによる電子決済が普及している先進国だったら十分に可能だし、それで犯罪を抑え込み、金融政策の効果も大きくなるんだったら、いいことじゃないかと話を進めます。

こういう主張をすると、中央銀行の通貨発行益(シニョレッジ)が失われるからだめだとか、低所得者はカードなんて持っていないんだから困るだろうとか、犯罪者は高額紙幣が廃止されたって別の抜け道を見つけるだろうとか、マイナス金利みたいな銀行から強制的にお金を巻き上げるようなことをしていいのかとか、いろんな反論が出るそうです。で、ロゴフ教授は、そうした反論の有効性をひとつひとつ検証して、やっぱり高額紙幣廃止によるメリットの方が大きいですよね、と結論づけます。

まぁ、それだけの本です。ハーバードの教授が高額紙幣を廃止したらいいんじゃないのと思いついて、自説の正しさを証明するために反論を丁寧につぶしていく。ただ、個人的には高額紙幣廃止で犯罪が抑制できるんだからそれでいいじゃないかと思うんですが、別にそこまで説明してくれなくてもいいよっていう感じもします。「電子決済が普及しているんで、高額紙幣はなくてもいいですよね」って一言だけ言ってくれれば、みんなそれで納得するんじゃないか。

ただしシヨレッジについて丁寧に説明してくれるのはありがたかったです。中央銀行は通貨を発行することで利益を得られるっていうのはいろんなところで見聞きするんですが、具体的にはどういうことが行われているのかよく分からなかったからです。「何か物が欲しいときに印刷機を動かして好きなだけ紙幣を作っているの?」なんていう風にも思えるわけですが、実際には以下のような手順を踏んでいるそうです。

1.政府が収入以上にお金を使って、それを賄うために債券(debt)を発行する
2.中央銀行が市中からdebtを買い取る。この際、electric bank reserve (which are the electric equivalent of cash)を発行する
3.bank reserveに対して中央銀行が払う利息よりも、debtから得られる利息の方が大きいので中央銀行には長期的に利益が出る

2のところがミソなんでしょうけど、中央銀行は市中からdebtを買い取るときに売り手である銀行に現金を渡すわけじゃなくて、銀行の当座預金の残高の数字を変更するだけなわけですね。これが現代における通貨の発行だというわけです。で、いつでも引き出し可能な当座預金につく利息は、政府が発行した債券につく利息よりも小さい。だから3のところで中央銀行に利益が出る。これがいわゆるシニョレッジ(通貨発行益)というわけです。

だから、高額紙幣が廃止されて、印刷機を動かせなくなっても、中央銀行は利益を出すことができます。ロゴフ教授は"even if paper money revenue disappeared completely, the central bank would still earn money from electronic reserves"と明言しています。

ちなみにこの通貨発行益は中央銀行から政府に納められます。結局、政府は一切損をしていないようにも思ってしまいそうですが、実際には当座預金についた利息分は政府の負担が生じているのだと思います。ここは私の勝手な理解です。


また、ロゴフ氏は高額紙幣を廃止する際には、政府・中央銀行は債券を発行して高額紙幣を買い取らねばならない(it will have to issue ordinary interest-bearing debt to buy back the currency it is retiring)と書いています。

ここのところは直感的によく分からなかったのですが、多分、こういうことです。

1.「高額紙幣を廃止するぞ」とのお達しに従って、銀行が金庫に入っている大量の1万円札を中央銀行に持ち込む
2.中央銀行は銀行から受け取った金額を銀行の当座預金に電子的に記入する
3.でも、この受け取った大量の1万円札は無効になったただの紙切れだから、現金としてはもう使えない
4.だから、中央銀行の損失を埋めるために、政府は債券を発行して資金を調達せねばならない

どうでしょう。これで正しいんでしょうか?

とまぁ、こんなことをつらつらと説明している本です。
This time is differentのときは「そうか。やっぱり政府が負債を積み上げすぎるのは問題だな」という気がしましたが、今回は「知らんがな」という感は否めません。

2016年5月13日金曜日

"The Paper Menagerie and other stories"

"The Paper Menagerie and other stories"を読んだ。中国出身のSF・ファンタジー作家、Ken Liu(ケン・リュウ)の短編集です。米国版は2016年3月出版。日本版の短編集「紙の動物園」は2015年4月に出ています。短編集ですから、それぞれの作品はそれより先に発表されていて、日本の方で先に短編集が出たってことなんでしょうね。

表題作の"The Paper Menagerie"は2011年発表。この年のヒューゴー賞ショート・ストーリー部門、ネビュラ賞ショート・ストーリー部門、世界幻想文学大賞短編部門賞の三冠を獲得しました。これが日本のSFマガジン2013年3月号に掲載されています。

いつもチェックしている前川淳という折り紙作家のブログで2014年6月と2015年5月に「紙の動物園」が紹介されていて、読んでみたいなと思っていました。そしたら英語の短編集も最近になって出たということで、早速購入してみた次第です。

日本語版、英語版とも15編の収録ですが、作品は異なっています。同じなのは7作品。

The Paper Menagerie(紙の動物園)
Good Hunting(良い狩りを)
Mono No Aware(もののあわれ)
A Brief History of The Trans-Pacific Tunnel(太平洋横断海底トンネル小史)
The Waves(波)
The Bookmaking Habits of Select Species(選抜宇宙種族の本づくり習性)
The Literomancer(文字占い師)

英語版だけに載っている8作品は以下の通り。

State Change
The Perfect Match
Simulacrum
The Regular
An Advanced Readers' Picture Book of Comparative Cognition
All the Flavors
The Litigation Master and the Monkey King
The Man Who Ended History: A Documentary


どの作品も面白いです。

日本語版と共通作品のなかでは、「紙の動物園」「もののあわれ」「波」「文字占い師」、

英語版のみの作品のなかでは、

インターネットの検索を牛耳る企業による情報統制が常態化した社会を描く"The Perfect Match"

サイボーグ化した中国系米国人の女性のアクション活劇"The Regular"、

19世紀のゴールドラッシュで西海岸にやってきた中国人労働者の集団と三国志の関羽雲長のストーリーをごちゃませにした"All the Flavors"、

不都合な歴史を押し隠そうとする清王朝とそれに抵抗する詭弁家の男の話を西遊記で味付けした"The Litigation Master and the Monkey King"、

意識だけをタイムトリップさせて過去を観察する技術を開発した日系女性物理学者と、その夫で第二次世界大戦中の日本の731部隊の実体を世に知らしめようとする歴史家の男性の行動をとりあげながら、歴史と現在の関係性について考察した"The Man Who Ended History: A Documentary"

なんかが印象的です。

ケン・リュウさんは中国の甘粛省蘭州市生まれで11歳で渡米したということです。中国、台湾、日本の文化や歴史にも詳しいのでしょう。「もののあわれ」では典型的な日本人観に基づいた日本人を描いています。一方、"The Man Who Ended History: A Documentary"では、第二次世界大戦中の日本人による残虐な行為を中国視点で描きつつ、日本としての「歴史的な過ちは認めるんだけれど、過去の行為を否定しきってしまうこともできない」という悩ましい内面も描いています。


また別の本も読んでみたい。

2015年8月22日土曜日

太平洋戦争と新聞

「太平洋戦争と新聞」を読んだ。元毎日新聞記者の前坂俊之さんが1989年と1991年に書いた2冊の本をまとめて大幅に修正を加えた本で、満州事変から日中戦争、太平洋戦争、敗戦にいたるまでのメディアの報道ぶりを追っています。主に朝日新聞(東京朝日、大阪朝日)と毎日新聞(東京日日、大阪毎日)の論調に重点が置かれていますが、時事新報、福岡日日、信濃毎日などの論調も取り上げられています。面白かったです。

当時は1909年に公布された新聞紙法という法律がありました。そのなかで、政府は新聞の内容が「安寧秩序を紊(みだ)し、又は風俗を害するものと認めた時はその発売頒布を禁止し、必要な場合はこれを差し押さえることができる」という規定があった。この新聞紙法に基づいた発売禁止件数は1931年の満州事変前後から急速に増えます。1926年は251件だったのが、1931年には832件、1932年は2081件、1933年は1531件といった具合です。

政府や軍は事実をまともに公開せずに新聞をミスリードするという手法もとります。例えば、1931年6月に起きた中村震太郎大尉が中国側に射殺された事件も、そもそもは中村大尉が中国人になりすまして外国人の立ち入りが許されていない北部満州で偵察活動をしていところを殺害されたのですが、奉天特務機関はスパイ活動の部分は伏せて中村大尉殺害の事実だけを発表するといった具合です。すると、東京朝日新聞は「耳を割き、鼻をそぐ、暴戻! 手足を切断す 支那兵が鬼畜の振舞い」なんていう風に報じるわけです。こんな風にして、国内世論は「暴支膺懲」のムードが出てくるんですね。

1931年9月18日の満州事変だって、実際は関東軍が中国側から攻撃を仕掛けられたと装って部隊を動かしたわけですが、当時はその謀略の事実は伏せらた。でも当時の新聞社は満州事変の発端の真相には疑問を抱かず、戦闘の現状や見通しの方に注目。新聞社内は「奉天で日支軍衝突!」「原因は支那正規兵の満鉄線爆破」といった至急電を受けて騒然となり、航空機を総動員した速報競争が始まります。連日号外が発行されたほか、特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、約60万人が詰めかけた。また満州事変のニュース映画の公開回数は4002回、聴衆1000万人といった盛り上がりだったそうです。

1932年2月には「爆弾三勇士」のストーリーが報じられます。上海での日本軍との中国側との衝突で、3人の日本軍兵士が爆弾を抱えて敵側に身を投じて鉄条網を破り、日本軍の進路を切り開いたという話で、各新聞は大々的に美談として報じました。「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死 志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した勇士」「世界比ありやこの気魄 点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す 廟行鎮攻撃の三勇士」といった感じですね。新聞社は遺族への弔慰金を募ったり、「三勇士の歌」を公募してイベント化したりして、三人を軍神として祭り上げ、戦時ムードを盛り上げていく。朝日の三勇士の歌には12万4561通、毎日には8万4177通の応募があったそうです。毎日のケースでは、与謝野寛(鉄幹)の作品が入選。日露戦争時に「君死にたまうことなかれ」と歌った与謝野晶子の夫が爆弾三勇士の歌を作ったというわけですね。このエピソードをテーマにした映画が作られたり、文楽にも「肉弾三勇士」が登場したり、「三勇士まげ」という女性の髪型、爆弾チョコレート、肉弾キャラメル、三勇士せんべい、なんていうものまでできた。

ちなみに爆弾三勇士のエピソードの真相は、「上官に命じられた3人が点火した爆弾を置いて帰ってくるつもりが、途中で転んだ。3人は引き返そうとしてが、上官が怒鳴るものだから、改めて爆弾を抱えて鉄条網に向かて爆死した」といったものだという説もあるそうです。なんか、いしいひさいちの漫画っぽいですが、前坂さんは「これが事実なら軍神に祭り上げられた三勇士こそ災難である」としています。

ただ、新聞紙法による発売禁止が増えたということは、それだけ新聞の方も政府や軍の意向に沿わない報道をしようとしていたということでもあります。実際、満州事変前は朝日新聞は軍部の独走を厳しく批判していた。1931年8月の社説では軍部の独走ぶりを「少なくとも国民の納得するような戦争の脅威が、どこからも迫っているわけでもないのに軍部は、いまにも戦争がはじまるかのような宣伝に努めている。今日の軍部はとかく世の平和を欲せざるごとく、自らことあれかしと望んでいるかのように疑われる」としています。満州事変前日の9月17日の社説では「(若槻首相が軍部をコントロールできなければ)徒に退嬰の結果による衰頽か、または猪突主義による顚落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうと確信する」と予言しています。

この反戦の論調が満州事変を境として転換していった理由として、前坂さんは「国家の重大事にあたって新聞として軍部を支持し、国論の統一をはかるのは当然だとするナショナリズム」と「軍部、在郷軍人会、右翼などによる不買運動」を挙げています。満州事変直後に右翼団体、国龍会が大阪朝日の調査部長と接触し、その後の朝日の重役会で満州事変に対する編集方針が転換されたという疑いもあるようです。黒龍会は朝日の村山社長を襲撃したこともある団体ですから、新聞社にとっては脅威。さらに内田の背後には参謀本部があったといいます。

また毎日新聞は朝日新聞以上に満州事変に肯定的で、満州事変は「毎日新聞講演、関東軍主催」なんていう言いぐさもあったそうです。東京日日の社説は「満州に交戦状態 日本は正当防衛」「満州事変の本質 誤れる支那の抗議」「強硬あるのみ 対支折衝の基調」といった具合。「堂々たる我主張 国論一致の表現」「正義の国、日本 非理なる理事会」「我国の覚悟 今日の憂慮は誤りだ」といった具合です。

国際連盟のリットン調査団が1932年10月の報告書で、満州事変を日本による侵略と位置づけた際も各紙の論調は強硬でした。「錯覚、曲弁、認識不足 発表された調査団報告書」(東京朝日)、「認識不足も矛盾のみ」(大阪朝日)、「夢を説く報告書 誇大妄想も甚だし」(東京日日、大阪毎日)、「よしのズイから天井覗き」(読売)、「非礼誣匿たる調査報告」(報知)、「報告書は過去の記録のみ」(時事新報)という感じですから、当時の雰囲気が分かります。

1932年5月の五・一五事件では、東京朝日が犬飼首相を暗殺した青年将校は「純情」の末に事件を起こしたとしたり、犯人の肩を持つような論調を掲げた。読売も事件の背後には失業者があふれている経済の実態があるとして、政治家の責任を取り上げている。前坂さんはこうした踏み込み不足の論調が軍部や右翼を増長させたとしています。一方、大阪朝日や河北新報、東洋経済新報の石橋湛山、福岡日日の菊竹六鼓、信濃毎日の桐生悠々らは軍に否定的な論調で筆を振るいました。福岡日日は右翼などからの不買運動にさらされますが、永江真郷副社長は「正しい主張のために、わが社にもしものことがあったにしてもそれはむしろ光栄だ」と六鼓を励まし、会社がつぶれるかもしれないと不安がる販売担当には「バカなことを言ってはいかん。日本がつぶれるかどうかの問題だ」と一喝したといいます。桐生悠々は信濃毎日が不買運動に屈した後は、個人誌「他山の石」を創刊して、1941年9月にガンで亡くなるまで軍部を批判し続けた。カッコいいですね。

ところがこうした新聞社に対する右翼勢力からの圧力はさらに強くなります。1934年3月には時事新報の武藤山治社長が凶漢に襲われ、死亡します。武藤社長は鐘紡時代の手腕を買われて時事新報の経営をまかされ、政財界の癒着を批判した「番町会を暴く」のキャンペーンを張って、売り上げを伸ばしだしていたころでした。犯人の動機は私怨とされましたが、番町会批判キャンペーンとの関連があるとの疑惑は残りました。またこの年にはヤクザの一員が東京朝日を襲撃する事件も発生。1935年2月には、読売新聞の正力松太郎社長が右翼に襲われて重傷を負います。新聞報道が命がけの時代に入ったわけです。

こうしたなかで1935年には天皇機関説が問題になります。美濃部達吉・東京帝大教授が唱える天皇機関説は、大日本帝国憲法の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という文言を、統治権は法人である国家に属しており、天皇はその最高機関として他の機関と参与・輔弼を得ながら統治権を行使すると解釈するもの。天皇はあくまで国家の一部であって、天皇が自らの意思で何でも出来るわけじゃないんだよということですね。ところが右翼勢力は「日本の国家体制は、万世一系の天皇が天孫降臨の際の天照大神の神勅に基づいて統治することをはっきりとさせるべきだ」という「国体明徴」の立場をとって、美濃部を攻撃します。

美濃部の立場は当時の日本の学会では現実に即した主流の立場でしたが、右翼勢力は時代を逆戻りさせるような議論をふっかけてきたというかたちでした。ところが徳富蘇峰は東京日日のコラムで「記者は如何なる意味においてするも、天皇機関説の味方ではない。いやしくも日本の国史の一頁でも読みたらんには、斯かる意見に与することは絶対に不可能だ」「日本の国民として九十九人迄はおそらく記者と同感であろう」と断じます。東京日日はその後の社説でも「国体明徴に対して何人も異論のないことはいうまでもない。わが国民の心理が一、二の学説によって国体に対する信念に何等動揺を感じていないことは国民の堅い信念であり、その点については一人の疑惑をさしはさむものもない」と書きます。1936年2月には右翼組織の一員が美濃部を拳銃で襲撃。文部省は大学や高校から天皇機関説の抗議や著書を排除し、1937年5月には「国体の本義」を発効して全国の小、中、高、大学に配布しました。「天皇陛下万歳」な雰囲気が教育面からも作られていくわけですね。

さらに1936年には二・二六事件も起きます。皇道派の青年将校20人が率いる反乱軍1400人が首相官邸、内大臣私邸、蔵相私邸などを次々と襲い、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせたという事件です。新聞社では東京朝日も襲われました。内務省は各新聞社の幹部を出頭させて、「当局公表以外は絶対に掲載を禁止する。多少でも侵すものは厳罰を以て報いる」と警告し、ニュースはすべてラジオを通じて発表されるようになります。前坂さんは、「速報性や報道でもラジオに抜かれ、事実は報道禁止で書けず、テロの前に批判も恐ろしくて抑えざるを得ない、という三重苦に陥った」とします。五・一五事件の際には、大阪朝日や福岡日日が軍部に批判的な論調を取りましたが、二・二六事件ではそうした気迫ある論説も後退します。「それまで半死の状態だった言論の自由は完全にトドメを刺された」というわけです。

一方、時事新報は二・二六事件後、3月末までに17本の社説で軍部批判、時局批判を展開したそうです。近藤操社説部長の手によるもので、攻撃の矛先は同業の新聞社にも向けられました。「近年わが国に行わるる政治論は、時局の悪影響を受けて甚だしく歪曲され、軍部官僚に対しては不必要の程度まで阿諛迎合の言を連ね、政党に対しては不当に非難攻撃を浴びせる悪癖がある。(中略)五・一五事件、二・二六事件に於て、何者かに脅かされたる世間の所謂、識者、大言論機関なるものの所論が、一向に当てにならざることは概ね比類である」といった具合です。結局、時事新報は1936年12月25日に廃刊になって、毎日新聞に吸収されます。

面白いといっては何ですが、二・二六事件から時事新報廃刊までの10カ月の間、戒厳司令部からの注意は一回だけ。右翼や軍人団体からの言論脅迫もピタリと止んだそうです。近藤は「当時、言論は事実かなり自由なのに、なぜもっと強く軍部を批判しないかと、筆者は不思議に堪えなかった。要するに社説担当者も新聞経営者も、身辺や事業の安全だけを考えて、軍部の暴走を阻止すべき言論機関の使命を軽視した結果といわれても致し方ない」と回想しています。朝日の緒方竹虎は「自分も大いに書きたかったが、何分大世帯で差し障りが多く、思うにまかせなかった」と言い訳したといいます。

1936年1月には日本電報通信社(電通)と新聞連合社(連合)の合併により、国策通信会社である同盟通信社も発足。巨大通信社の豊富な配信が始まったことを機に、新聞社では合理化が進められ、通信社依存の体質が広がります。ただ、同盟には莫大な交付金とともに、何を目的として報道すべきかという指示書が出されていたため、政府による言論統制が効果的に進むという側面もありました。また政府は7月には内閣情報委員会が発足させ、報道統制を強化しています。

こうした事情を背景にして、1937年7月7日に盧溝橋事件で日中戦争が始まると、新聞は猛然と「暴支膺懲」のキャンペーンを展開して、反中ムードを煽ります。その後、7月29日には陸軍が内務省警保局に新聞・通信各社の代表を集めて、新聞紙法27条の発動について了承を要請。反戦的な記事、日本が好戦的であるという印象を与えるような記事、日本に不利な外国報道の転載、国内の治安を乱すような記事の掲載を禁じるというものでした。

日中開戦後の新聞の競争のポイントは、郷土部隊の活躍を早く伝え、戦死者の氏名と写真を一人でも多く載せることに絞られます。その結果、読売、毎日、朝日の大新聞は大幅に部数を伸ばし、地方紙は危機的な状況に追い込まれます。また、その後、物資に統制がかけられた結果、新聞用紙の不足が発生。1938年4月の国家総動員法の公布、8月の新聞用紙制限令で、新聞同士の自由な競争すらも封じられた。1939年発行の「新聞総覧」で、読売新聞の編集局長は「言論の自由はもとより尊重されねばならぬが、徒に取り締りに反抗し、禁を犯してまでも筆を進めることを自由の極致だと稽(かんが)るのは一つの大きな誤りではなかろうか」と記しています。ダメだこりゃ。

そして1941年12月8日、真珠湾攻撃で日米開戦。東京日日はこの開戦日を当日付紙面でスクープしました。海軍省担当の後藤基治記者が米内光政海相を情報源として書いたそうです。が、日米開戦後は、特高課員が新聞社に常駐するようになり、大本営発表以外の報道は許されなくなります。「我軍に不利なる事項は一般に掲載を禁ず。ただし、戦場の実相を認識せしめ、敵愾心高揚に資すべきものは許可す」との命令も出されました。もう後はイメージ通りの展開で、国民には真実が伝えられないまま敗戦を迎えます。

まぁ、だらだらと書いてきましたが、印象に残るのは1931年の満州事変から、1936年の二・二六事件の間のわずか5年間で、新聞の骨抜き化が一気に進んだということですね。新聞が満州事変が謀略であるという真相をすぐに見抜けなかったのは仕方無いとしても、1932年10月にリットン調査団の報告書が出た段階ではもっと冷静に軍を批判する論調になってもよかったのではないか。すでに1932年2月の段階で爆弾三勇士状態だったわけですから、今更引き返すのは難しかったのかもしれませんが、そこは言い訳にならんですよね。

あと、新聞社のバカな論調が国民に受け入れられた背景には、1929年に米国で起きた金融恐慌の余波を受けた日本経済の不調っぷりもあったんだと思います。新聞がバカな記事を書いたら、景気のいい話題を欲しがっていた国民がバカみたいに買っちゃうもんだから、そりゃ新聞はバカな記事を書き続けるというわけです。そのうちバカが狂気をはらみだして、テロ事件が相次ぐもんですから、バカな新聞はバカであることを止められなくなる。さらにバカが国家の中枢を握るようになっちゃうと、もうバカがバカを量産していくようなもんで、もう日本中がバカになっちゃうわけですよね。満州事変から5年で二・二六事件、さらに5年で真珠湾攻撃、そこから敗戦まで4年。病気の進行は早いです。

現在の日本でも「戦争法案」とかややこしいわけです。国民がしっかりしていないと、新聞のバカな記事を止められなくなるかもしれません。あと、バカなのは誰なのかという問題もあります。日本なのか、米国なのか、中国なのか、ロシアなのか、韓国なのか、北朝鮮なのか、イスラム系テロリストなのか。戦前の日本のように国際協調主義に背中を向けているのは誰なのかっていう風にも言えるかもしれません。まぁ、難しい問題ですけどね。