“The Greatest Comeback: How Richard Nixon Rose from Defeat to Create the New Majority”という本を読んだ。
ウォーターゲート事件によるニクソン大統領辞任から40年の節目に出ているニクソン本のひとつで、側近だったパット・ブキャナンさんが1960年の大統領選でケネディに負けたニクソンがどんな道筋をたどって1968年の大統領選に勝利したかを書いた本です。面白いことは面白いんですが、米国の政治、社会状況に対するニクソン陣営の分析や裏話を集めたような内容なんで、そもそも表舞台で何が起こっていたかという事実関係がしっかりと頭に入っていないと理解が追いつかない部分が出てしまいます。ニクソン本や60年代に関する本なんていうのは無数に出ているでしょうから、まずは基礎知識を身につけてからの方が良かったかもしれません。
というわけでなかなか内容を紹介するのは難しいのです。ただ、ブキャナンさんが言わんとすることは、ニクソンは、ジョンソン大統領らがマイノリティや学生の一部が暴動や大学の占拠事件を起こすような事態になった際に毅然とした態度をとらなかったことで失った「普通の米国人」の支持と、当時の米国内に残っていた人種差別を容認するような古いタイプの人たちの支持を上手にすくい上げて、選挙戦で勝利したんだということだと思います。「普通の米国人」というのは低所得、中所得の白人たちで、公民権運動の流れのなかで忘れられた存在になっていたとのことです。
で、ニクソンがどうやってこの両方の層をまとめたかという話なんですが、まずニクソンはマイノリティや学生の暴動に対しては”law and order”の重要性を訴えます。暴動などを起こす側には差別撤廃などの理由があるわけですが、「どんな理由があろうとも法と秩序は守らねばならない」という立場を明確にするわけですね。そうすることで、「俺たちだって苦労しているんだよ」という普通の米国人の不満をすくいあげることに成功します。
一方、米国には古いタイプの人たちもいた。公民権法に反対票を投じて、1964年の大統領選で大敗したバリー・ゴールドウォーターを支持するような人たちですね。ニクソンはこの人たちとも連帯する。1964年の大統領選でニクソンは、共和党候補として正式に選出されたゴールドウォーターをきちんと応援していた。ゴールドウォーターはこのことを大変感謝し、恩義に感じていたそうです。共和党内のリベラル派であるネルソン・ロックフェラーとかジョージ・ロムニーのような人たちはゴールドウォーターから距離をとったりしたわけですが、そういう態度で共和党を分裂させるような真似は止めるべきだということですね。
ただ、もちろん、人種差別を肯定するような立場をとるわけではありません。ブキャナンによると、ニクソンはリベラルな家庭で育ったそうで、副大統領時代には1957年の公民権法の成立に力を尽くしてキング牧師から感謝の手紙をもらったりもしたそうです。ただ、公民権法に反対するような人たちを共和党から追い出すようなマネはしない。選挙で民主党に勝つためには、こうした人たちからの支持が重要であることを知っていたからです。人種差別撤廃には賛成しながらも、反対する人を批判しないというのはなかなか難しいポジション取りですけど、大統領選に勝つにはそのぐらい難しい配慮が必要だということですね。
1968年の大統領選では、民主党のヒューバート・ハンフリー副大統領と共和党のニクソンが出馬。さらに独立党のジョージ・ウォレスも立候補します。このウォレスという人は元は民主党なんですが、アラバマ州知事として人種差別を支持してきた人で、ニクソンにとってはリベラルのハンフリーと、古いタイプのウォレスから挟み撃ちを受けたようなかたちになります。ただ、ゴールドウォーターとしっかり連帯してきたこともあって、ディープサウスの5州(アーカンソー、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマ、ジョージア)はウォレスにもっていかれましたが、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、フロリダ、テネシーは確保できた。このあたりが勝因だったとのことです。
あとベトナム戦争に対する分析も面白いです。南北ベトナムの間での戦争はアイゼンハワー時代からあったわけですが、ケネディの時代までの米国の介入は軍事顧問団の派遣にとどまっていた。ところがジョンソンは1965年から北爆を始めて、さらには地上軍の投入に突き進んでいきます。ところが思うような成果が上がらず、米国内では厭戦ムードが高まっていた。で、ジョンソンは停戦の道を探り始めて、1966年のマニラ会議で「もしも北ベトナムが兵を引くなら、米国もベトナムから兵を引く」ことに合意します。これに対してニクソンは強く反発してみせます。もしもベトナムから兵を引けばベトナムが共産圏に落ちることを容認することになるし、さらに「撤兵してもいいよ」なんて弱気を見せようなことをすれば、北ベトナム側を「粘れば勝てるぞ」と勢いづかせることになるという判断があったようです。
ニクソンは大統領就任後の1972年にハノイ空爆、ハイフォン港への機雷封鎖などを行なって北ベトナムに壊滅的な打撃を与え、パリ和平会議のテーブルにつかせ、米兵捕虜の解放などと引き替えに、ベトナムからの撤退を約束します。南北ベトナムの戦闘はその後も続き、最終的には北ベトナムが勝利してベトナムは共産圏となる。ニクソンは大統領を辞めた後、ブキャナンさんに対して「ジョンソン大統領がハノイ空爆や機雷封鎖を1965年か66年にやっておくべきだった」と話したそうです。ニクソンは米国がベトナム戦争で負けたときの大統領なわけですが、負けた原因はジョンソンにあるというわけですね。なるほど、こんな理屈もあるのかという感じです。
現在の共和党指導部がティーパーティーみたいな極端な人たちの言動で支持を落としながらも、ティーパーティーを切り捨てるわけでもないのはニクソンがゴールドウォーターと連帯して党をまとめたことが頭にあるのかなという気もします。共和党の候補者としては予備選でティーパーティー系と対立するようなことが避けたいのはもちろんですけど、ティーパーティー系の機嫌を損ねて大統領選で候補者を立てられたりなんかしたら、共和党的には目もあてられない状況になりますからね。
あと、オバマ政権がイラクやアフガンから撤退してきたにも関わらず、ここにきてISIS相手に空爆を始めているところなんかも、あまりいいやり方ではないんだろうなという気もする。今のところは米国が地上軍を投入することはないということですが、うまくいくはずもないような気が。
ニクソンは思想的にはウィルソンを尊敬するような理想主義者なんだけれど、行動は現実主義に基づいていたということです。共産中国との国交を回復に手をつけ、長年の友人であった台湾の蒋介石との関係を切ったのも、ロシアを孤立させることがための判断だったとのこと。あと、「現実主義に基づいた妥協は人々にはアピールしない。現実的な妥協をとらなければならないんだけど、語るときは原則について語らなければならない」という言葉もあるんだそうです。
つまり心のなかに理想主義をもって、人々にはその原則を語るんだけど、行動は現実主義に則って妥協にも応じなければならないということですね。理想主義の原則を語り、理想主義で行動するのもだめだし、現実主義にのっとって行動する際に現実主義を語ってもいけない。ちなみにニクソンは1972年の大統領選では歴史的な大勝利を収めています。
深い。深いな、ニクソン。
でもウォーターゲート事件で失脚するんだけどね。この人のドラマはまだまだ続いていたんだと思います。
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