“The Residence: Inside the Private World of the White House”を読んだ。ブルームバークの記者のKate Anderson Browerさんがホワイトハウスで働くスタッフや大統領夫人や子供ら100人以上にインタビューして書いた、ホワイトハウスの内幕ものです。政治や外交の中心であるホワイトハウスの中で、大統領やその家族、スタッフたちがどんな私生活を送っているのかが描写されています。面白くて読みやすい。ただ、内容にまとまりはなくて、エピソードが羅列されているだけの感が強いです。
印象としては、
(気むずかしい人)
ジャクリーン・ケネディ、リンドン・ジョンソン、リチャード・ニクソン、ナンシー・レーガン、ヒラリー・クリントン
(優しい人)
ジェラルド・フォード、ジミー・カーター夫妻、ロナルド・レーガン、ジョージ・H・W・ブッシュ夫妻
(エロい人)
ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン、ビル・クリントン
(よく分からない人)
バラク・オバマ夫妻
という感じ。ファースト・レディーはおおむね難しい人で、共和党の大統領はおおむね優しくて、民主党の大統領はおおむねエロいという感じでしょうか。そんななか、H.W.ブッシュ夫妻の評価が高い気がします。あと、ホワイトハウスと黒人スタッフの歴史も興味深かったです。
以下、面白エピソードを列記してみます。
・オバマ大統領が2009年に就任式を終えて初めてホワイトハウスに入った夜。大統領家族の生活スペースである2階に上がったスタッフは、オバマが”I got this, I got this. I got the inside on this now”と叫んでいるのを聞いた。その後、Mary J. Bligeの”Real Love”が流れて、オバマはワイシャツ姿で、ミシェルはTシャツにスウェットパンツといういでたちでダンスを始めた。
・オバマの家族は初めのうちは多くのスタッフに囲まれるホワイトハウスの生活になじめなかった。シカゴ時代は家政婦を1人雇っていたけど、ナニーは雇わず、マリアとサーシャはミシェルの母親のマリアンと過ごしていた。なのでオバマの家族はホワイトハウスでもプライバシーを求めた。マリアンもホワイトハウスの3階に住むことになった。ミシェルはマリアには自分の洗濯物は自分でするように教えた。マリアンも自分の洗濯は自分でやった。
・就任式の朝、大統領は退任する大統領と自らの安全保障スタッフからブリーフィングを受ける。このブリーフィングの最後に、核攻撃開始のために必要なコードについて知らされる。実際に大統領が就任式で宣誓すると、コードを運ぶブリーフケース「フットボール」は常に大統領の身の回りにおかれ、大統領は攻撃開始に必要なカードを渡される。
・裕福な家庭で召し使いに囲まれて育ったジャクリーン・ケネディは完璧主義者でホワイトハウスの日々の運営に口出しした。夜のうちにやらねばならないことを書き出したメモを作り、仕事を終えるとメモにチェックマークをつけていった。いつも持ち運んでいるノートには、チーフ・アッシャー(総支配人的な役職)への支持が書き連ねられていた。
・アイゼンハワー大統領は毎晩10時に就寝する規則正しい生活を送った。でもケネディ一家は就任式の夜、午前2時にセレモニーの会場から友人たちを連れてホワイトハウスに戻って、2階でパーティを始めた。最後のゲストが帰ったのは午前3時15分。その後、ケネディはドアマンにコーラを部屋まで持ってくることと、夜風を部屋に入れるために窓を開けることを頼んだ。ジャクリーンはドアマンに食前酒を持ってくるように頼んだ。ドアマンは午前4時まで帰れなかった。
・ホワイトハウスの家具はメリーランド州リバーデールの完全空調が施された倉庫に保管されている。新しくホワイトハウスに入る大統領の家族は、ここで自分の好きな家具を選んでホワイトハウスに持ち込む。
・H.W.ブッシュはホワイトハウスをクリントン家に引き継ぐとき、ブッシュ家の飼い犬”Millie”をなでているチェルシーに対して”Welcome to your new house”と声をかけた。ブッシュは伝統に従って、オーバルオフィスのデスクにクリントンへのアドバイスを書いたメモを残した。クリントンが8年後にW.ブッシュにホワイトハウスを引き継ぐとき、自身のメモと一緒に、H.W.ブッシュのメモもデスクに残した。内容は公表されていない。
・クリントン一家はホワイトハウスのリフォームに40万ドルかけた。すべて個人としての寄付でまかなった。でもホワイトハウスの外部からは顰蹙の声もあがった。プライベートを重視するクリントン一家は、ホワイトハウスから電話をかけるのにオペレーターを通さなければならないことを不満に思って、ホワイトハウスの電話システムを完全に入れ替えた。
・ジョンソン大統領の娘のルーシーは、両親がディナーで不在の間に友達をホワイトハウスでのスリープオーバーに招待した。その夜、自分の部屋にある暖炉に火をつけてみたが、暖炉の使い方を知らなかったので、部屋の中に煙が充満。グラスやゴミ箱で水をかけて火を消そうとしたけれどうまくいかず、結局は机にのぼって窓を開けて煙を部屋から出した。結局、ホワイトハウスの警察官が部屋に駆けつける事態になった。
・フォーマルなスタイルの生活を好んだニクソンが辞任した後にホワイトハウスに入ったフォード一家はリラックスしたスタイルだった。フォードの4人の子供たちはジーンズ姿で暮らした。娘のスーザンは両親が不在の際、ホワイトハウスのフロアでローラースケートで遊んでいた。
・ホワイトハウスの食費などは大統領家族がプライベートで負担する。なので大統領家族は大抵の場合、スタッフに対してなるべく節約するように依頼する。例外はH.W.ブッシュのファーストレディーのバーバラ・ブッシュ。バーバラ曰く、食費やクリーニング代は個人として負担せねばならないけれど、電気代や空調、生花、執事、配管工などは負担しなくていいので、「ホワイトハウスに住むことはとてもお得。何の責任も負わなくていいのなら、また戻って暮らしたいぐらいだわ」
・ヒラリーが雇ったシェフのWalter Scheibはローラ・ブッシュに解雇された。Scheibはヒラリーが好んだ高級な米国料理を作ってきたが、ブッシュは正反対の好みだった。ヒラリーが”layered late-summer vegetables with lemongrass and red curry”のような料理が好きだとすれば、ブッシュはTex-Mex ChexとかBLTが好きだった。ちなみに、ビル・クリントン自身は遊説などでヒラリーの目が届かないときには、アンヘルシーな料理でも満足していた。
・H.W.ブッシュは副大統領、大統領を10年以上務めたので、退任したころは世間ずれしていた。バーバラ・ブッシュの回想録によると、当時、ピザの宅配を注文できることを知って大いに驚いたという。
・H.W.ブッシュはホワイトハウスのスタッフから心から好かれていた。ブッシュ家は何にでも喜んでくれたし、スタッフもリラックスできた。ある日、バーバラはChief Usherに対して、「ホワイトハウスで美味しくないものを食べたことがない。だからシェフには毎晩好きなものを作るように言って。私たちは毎晩、料理を楽しめると思うわ」と話した。Chief Usherが「でも、好きなものじゃなかったらどうしますか?」と尋ねると、バーバラは「そのときは次は出さないでってお願いします」と答えた。
・ホワイトハウスで使われる食材はStoreroom Managerが一般人として普通の食材店に買いに行く。その店は誰にも教えられていない。食材に毒物が混入されるなどのトラブルを避けるため。
・クリントン夫妻はホワイトハウス内で激しく口論しているところを何度か目撃されている。その後、ずっと口を聞かないこともあった。ただ、仲が良いときは、夜遅くまでおしゃべりを楽しむ睦まじさもみせた。
・カーターの3人の息子たちはホワイトハウスで大麻を吸っていたらしい。外で大麻を吸っているのが見つかれば逮捕されるが、ホワイトハウス内なら安心だったのだろう。
・ホワイトハウスでは仕事よりもプライベートを優先させるスタッフは解雇される。ファーストファミリーは理由を説明することなくスタッフを解雇する権限があるとされる。
・クリントン家は在任中、State Dinnerを29回開いたので、厨房のスタッフにとっては大変な負担だった。ミレニアル・ニューイヤーのイベントだけでも、1500人が招待され、Executive Pastry ChefのRoland Mesnierは翌朝7時まで帰宅できなかった。W.ブッシュのState Dinnerは6回だけ。
・ナンシー・レーガンも要求が高かった。オランダの女王を招いたState Dinnerの準備をしている際、ナンシーはMesnierが提案したデザートのオプションを3度却下して、最終的に自分でデザートのアイデアを提案。非常に手の込んだ時間のかかるデザートだったので、Mesnierが「とても素晴らしいのですが、ディナーまでtwo daysしかありません」と意見を述べると、ナンシーは”You have two days and two nights before the dinner”と応じた。
・1987年12月8日、ソ連のゴルバチョフ書記長がフルシショフ以来のワシントン訪問を行ったとき、ナンシーはホワイトハウス内の生花を、朝の到着時とランチ時とディナー時で、すべて取り替えさせた。
・Mesnierはゴルバチョフのディナーの際、ソ連ロシアでは「キャビアと同じぐらい高価」とされるラズベリーをふんだんにつかったデザートを出した。ゴルバチョフが帰ったあと、ソ連からホワイトハウスの厨房に届けられた小包には7ポンドもの最高級キャビアが入っていた。
・H.W.ブッシュは気さくな人柄で、馬蹄投げをしているときスタッフに虫除けスプレーを持ってくるように頼んだ。ところがスタッフが誤って業務用の強力な殺虫剤を使ってしまい、大統領の顔が赤くなり、シャワーで殺虫剤を洗い流さなければならない事態になった。スタッフは真っ青になったが、大統領は「大丈夫、大丈夫。馬蹄投げを続けよう!」と問題視せず、誰も解雇しなかった。
・あるホワイトハウスのスタッフは父親が亡くなった際、キャンプデービッドにいたH.W.ブッシュから直接お悔やみの電話を受けた。それだけでも信じられないほどなのに、H.W.ブッシュの後にはバーバラも電話口に出て、お悔やみの言葉をかけた。
・ジョンソン大統領は荒々しい性格で何事にも満足しなかった。いつでも”Move it, Damn it, move your ass,”と叫んでいた。
・高校教師だったこともあるジョンソンは、ホワイトハウスのスタッフ1人1人にグレードをつけていた。突然、電気工事技師の事務所に顔を出して、「お前は今日、Fを取ったぞ」と言い放ったりした。
・ジョンソンは水圧の強いシャワーが好きだった。就任前、DCの自宅のシャワーは、あらゆる方向に取り付けられた複数のノズルから針のような刺激の水が吹き出て、そのノズルのひとつは自身の性器(自分で「ジャンボ」とあだ名をつけていた)に当たるようにしつらえられていた。ジョンソンは就任後、同じタイプのシャワーをホワイトハウスに取り付けた。配管やポンプの取り付けで数万ドルの費用がかかり、警護費用として支出された。ジョンソンの後任のニクソンは就任後、このシャワーをみて、「外せ」と命じた。
・ジョンソンは自分の周囲の人に子供が生まれると、自分の名前「リンドン」を付けるように説得しようとした。断られると、ひどく残念そうな表情をみせた。
・ナンシー・レーガンはジョンソン大統領と同じぐらい奇妙な振る舞いが目立った。ナンシーはスタッフの女性にロングヘアーを許さず、家政婦に対しては自分の衣類に購入した日付と最後に着た日を記したラベルを取り付けるように命じた。
・ヒラリー・クリントンには「仕えるのが難しい」という評判もあるが、「家政婦のような働く女性にはとても共感してくれるし、どのスタッフの強みや弱みも知っている」という評価もある。「男性に対しては、女性に対してよりも厳しい」との評価も。
・クリントン家には「彼ら自身も何が欲しいのか分かっていない」という評判もある。あるとき、ヒラリーがある鶏肉料理が頻繁に出てくるので出さないで欲しいというのでメニューから外したら、数カ月後に、「どうして私たちの大好きなあの鶏肉料理を出さないの?」と言われたりした。
・クリントン家はいつ食事をするのかも予測できなかった。就任当初、クリントン家はディナーの席について「今から食事を出して」と頼んで厨房を困惑させた。ブッシュ家は事前に「12時半から2人分の昼食をお願い」などと連絡を入れていた。
・モニカ・ルインスキーのスキャンダルが発覚したのは1998年1月だが、2人の関係が継続していた1995年11月~1997年3月の時点からホワイトハウスのスタッフは気づいていた。
・スキャンダル発覚後の1998年の3~4カ月間、ヒラリーの怒りを買ったクリントン大統領は個人の書斎のソファーで寝ていた。ホワイトハウスの女性スタッフのほとんどは「当然の報いだ」と思っていた。
・UsherのSkip Allenはクリントン家のことを”the most paranoid people I’d ever seen in my life”と評している。
・レーガン大統領はスタッフに対してとてもフレンドリーだったので、スタッフたちは大統領との長話につかまってしまうことがしばしばあった。なのでスタッフたちは忙しいときは、大統領に会わないようなルートで移動することを覚えた。
・オバマ大統領はプライベートを大切にするので、レジデンスのエリアにはValerie Jarrettら数人の側近しか立ち入らせない。
・ホワイトハウスのスタッフはかつては奴隷的な身分の者でしめられていた。ミシェル・オバマの家系は奴隷の血筋を引いていて、母方の祖父はシカゴのハンディーマンで、叔母の1人はメイドをしていた。オバマ家は、ホワイトハウスでスタッフにかしづかれるようにして暮らすのが心地よくないのかもしれない。
・カーター大統領夫妻はジョージア州知事時代、殺人罪による終身刑判決を受けたMary Princeという女性の無罪を信じて恩赦を与え、知事公邸のナニーとして雇った。プリンスはカーターの大統領就任後もナニーとしてホワイトハウスで働き、シンデレラストーリーとして話題になった。
・1961年当時、ホワイトハウスで働いていた黒人スタッフの給料は白人スタッフよりも大幅に低かった。
・1967年当時、ホワイトハウスのドアマンは名字だけで呼び捨てにされていた。
・アイゼンハワー大統領はホワイトハウスを軍隊のように規律正しく運営しようとした。
・公民権運動のころ、黒人のスタッフのなかには白人と同等の権利を要求するものもいたが、職を失うことを恐れて不満を口にしない者もいた。古い世代の黒人は、白人に対して”mouthy”にならないように教え込まれて育っていた。
・レディ・バード・ジョンソンは黒人の女性家政婦と一緒にホテルに泊まろうとして断られたとき、怒りをあらわにしてホテルを出た。レディ・バードは公民権法の成立に熱心で、ジョンソン大統領自身も自ら主導した公民権法で自らの友人の人生に影響を与えたことを誇りとしていた。
・ただ、ジョンソンは一部の黒人の指導者がより大胆な改革を求めていたことについては、差別用語を使って怒りをあらわにした。議会の同意を得るには現実的な策をとる必要があったが、それでも不満を示す黒人指導者に納得がいかなかったようだ。
・ケネディはホワイトハウスで働いていた女性たちとも愛人関係にあった。ジャクリーンが不在のとき、ケネディはやりたい放題で、あるスタッフは裸の女性がキッチンから出てくるところを見たこともある。
・ジョンソンはパーティー会場でかわいい女性をみつけると部屋の隅に連れて行ってキスしようとせまった。顔にキスマークをつけていることもよくあった。
・ケネディは世間知らずで、缶切りの使い方すら知らなかった。
・レーガン大統領はホワイトハウスのスタッフに裸をみせても気にしないほど親しく接していたが、息子のロン・レーガンは「両親のスタッフに対する態度は、スタッフを同等の人間として扱っていなかったといえるかもしれない」としている。H.W.ブッシュとバーバラ・ブッシュのスタッフへの態度は、スタッフに対する尊敬をともなったものだった。
・カーター大統領は子供をDCの公立学校に通わせた。
・ヒラリーは娘のチェルシーに対しては非常に心優しい。
過去の回想録などで周知の事実というような内容もあるのでしょうけど、なかなか勉強になりました。
2015年10月14日水曜日
2015年8月26日水曜日
The Global War on Morris
"The Global War on Morris"を読んだ。スティーブ・イスラエル下院議員が書いた小説です。米国の政治家は選挙前に自分をアピールするために出版する自伝的な本を出したりして、私もそうした本を面白がって読んできたわけですが、ワシントンポストの今年5月の記事で「イスラエル議員は政治風刺小説を書くという同僚たちとは違った道をとった」というのをみかけて、読んでみました。2014年末に出版された本です。
面白いかどうかと問われれば面白いですけど、別にそんなに滅茶苦茶面白いというわけでもないです。
ストーリーは2004年の米国が舞台。とにかく周囲ともめごとを起こすのが嫌いな、控えめで大人しいモリス・フェルドスタインという医薬品のセールスマンが、ひょんなことからテロリストとして誤認逮捕されてグアンタナモに収容されるのですが、2009年にオバマ政権が誕生した後で疑いが解かれて釈放されるというもの。こう書くとシリアスな話のようにも思えますが、基本的にはコミカルなタッチで、つまらないジョークを交えながらストーリは進展します。しかもモリスが逮捕されるのは物語が始まってから9割ほど過ぎたところで、ストーリーのほとんどは、いかに対テロ戦争にたずさわる政治家や官僚組織がくだらないもので、米国内に潜むテロリスト集団もつまんない平凡な組織であるかという描写に費やされています。
もうちょっと具体的に書くと、テロ対策の強化を主張するチェイニー副大統領は「2004年の大統領選でブッシュ大統領を再選させるため、大したことのないテロの脅威を過剰に煽って国民の危機感を高めようとしているだけの人物」として描かれます。NSAやらCIAやらの対テロ戦の前線にたつ工作員たちは「巨大な連邦政府のなかのあらゆる官庁のなかに作られた数多の対テロ組織のなかで、なんとかして手柄を挙げようと些細な出来事に目を光らせるつまんない官僚たち」ですし、NSAが情報分析のために開発した巨大コンピューターシステム"NICK"は「的外れな情報と的外れな情報を結びつけて、的外れな警告を発するヘボコンピューター」といった具合です。さらに、米国内に潜むテロリスト集団は「米国内に潜り込んだはいいものの、3年以上も組織からテロ実行の指令は降りず、そのうちアメリカの生活になじんで愛着までもってしまった純粋な人々」となります。そういう人たちの行動がなんとなくからみあった結果、極めて平凡なモリスという男が誤認逮捕されて、グアンタナモに送られてしまう。で、ブッシュ政権がオバマ政権に変わった途端、政府は「やっぱり誤認逮捕だったわ」と認めて釈放される。そんな雰囲気の話です。テロを防止する方も、テロを起こす方も、誰もシリアスになっているわけじゃないのに、ひどい結果が起こってしまうわけです。
終わりの方にこんな文章が出てきます。
"Sure there were a few times when the Feds may have inadvertently spied on the harmless phone conversations of innocent Americans. Few, as in thousands. Or hundreds of thousands. Maybe millions. No one knew. The whole matter was classified. But that was a small price to pay for freedom, wasn't it?"
まぁ、そんな連邦政府内のムードを皮肉っているんだと思います。
ただ、この本は現役の下院議員が書いたとはいえフィクションですからね。「へぇ、そうなんだぁ」と納得するわけにもいきません。しかもバカ売れした本でもないですから、「世の中の連邦政府に対するイメージはこんなもんなんだぁ」と思うわけにもいきません。「ちょっと変わった下院議員もいるんだな」ぐらいの感想ですかね。
面白いかどうかと問われれば面白いですけど、別にそんなに滅茶苦茶面白いというわけでもないです。
ストーリーは2004年の米国が舞台。とにかく周囲ともめごとを起こすのが嫌いな、控えめで大人しいモリス・フェルドスタインという医薬品のセールスマンが、ひょんなことからテロリストとして誤認逮捕されてグアンタナモに収容されるのですが、2009年にオバマ政権が誕生した後で疑いが解かれて釈放されるというもの。こう書くとシリアスな話のようにも思えますが、基本的にはコミカルなタッチで、つまらないジョークを交えながらストーリは進展します。しかもモリスが逮捕されるのは物語が始まってから9割ほど過ぎたところで、ストーリーのほとんどは、いかに対テロ戦争にたずさわる政治家や官僚組織がくだらないもので、米国内に潜むテロリスト集団もつまんない平凡な組織であるかという描写に費やされています。
もうちょっと具体的に書くと、テロ対策の強化を主張するチェイニー副大統領は「2004年の大統領選でブッシュ大統領を再選させるため、大したことのないテロの脅威を過剰に煽って国民の危機感を高めようとしているだけの人物」として描かれます。NSAやらCIAやらの対テロ戦の前線にたつ工作員たちは「巨大な連邦政府のなかのあらゆる官庁のなかに作られた数多の対テロ組織のなかで、なんとかして手柄を挙げようと些細な出来事に目を光らせるつまんない官僚たち」ですし、NSAが情報分析のために開発した巨大コンピューターシステム"NICK"は「的外れな情報と的外れな情報を結びつけて、的外れな警告を発するヘボコンピューター」といった具合です。さらに、米国内に潜むテロリスト集団は「米国内に潜り込んだはいいものの、3年以上も組織からテロ実行の指令は降りず、そのうちアメリカの生活になじんで愛着までもってしまった純粋な人々」となります。そういう人たちの行動がなんとなくからみあった結果、極めて平凡なモリスという男が誤認逮捕されて、グアンタナモに送られてしまう。で、ブッシュ政権がオバマ政権に変わった途端、政府は「やっぱり誤認逮捕だったわ」と認めて釈放される。そんな雰囲気の話です。テロを防止する方も、テロを起こす方も、誰もシリアスになっているわけじゃないのに、ひどい結果が起こってしまうわけです。
終わりの方にこんな文章が出てきます。
"Sure there were a few times when the Feds may have inadvertently spied on the harmless phone conversations of innocent Americans. Few, as in thousands. Or hundreds of thousands. Maybe millions. No one knew. The whole matter was classified. But that was a small price to pay for freedom, wasn't it?"
まぁ、そんな連邦政府内のムードを皮肉っているんだと思います。
ただ、この本は現役の下院議員が書いたとはいえフィクションですからね。「へぇ、そうなんだぁ」と納得するわけにもいきません。しかもバカ売れした本でもないですから、「世の中の連邦政府に対するイメージはこんなもんなんだぁ」と思うわけにもいきません。「ちょっと変わった下院議員もいるんだな」ぐらいの感想ですかね。
2015年8月22日土曜日
太平洋戦争と新聞
「太平洋戦争と新聞」を読んだ。元毎日新聞記者の前坂俊之さんが1989年と1991年に書いた2冊の本をまとめて大幅に修正を加えた本で、満州事変から日中戦争、太平洋戦争、敗戦にいたるまでのメディアの報道ぶりを追っています。主に朝日新聞(東京朝日、大阪朝日)と毎日新聞(東京日日、大阪毎日)の論調に重点が置かれていますが、時事新報、福岡日日、信濃毎日などの論調も取り上げられています。面白かったです。
当時は1909年に公布された新聞紙法という法律がありました。そのなかで、政府は新聞の内容が「安寧秩序を紊(みだ)し、又は風俗を害するものと認めた時はその発売頒布を禁止し、必要な場合はこれを差し押さえることができる」という規定があった。この新聞紙法に基づいた発売禁止件数は1931年の満州事変前後から急速に増えます。1926年は251件だったのが、1931年には832件、1932年は2081件、1933年は1531件といった具合です。
政府や軍は事実をまともに公開せずに新聞をミスリードするという手法もとります。例えば、1931年6月に起きた中村震太郎大尉が中国側に射殺された事件も、そもそもは中村大尉が中国人になりすまして外国人の立ち入りが許されていない北部満州で偵察活動をしていところを殺害されたのですが、奉天特務機関はスパイ活動の部分は伏せて中村大尉殺害の事実だけを発表するといった具合です。すると、東京朝日新聞は「耳を割き、鼻をそぐ、暴戻! 手足を切断す 支那兵が鬼畜の振舞い」なんていう風に報じるわけです。こんな風にして、国内世論は「暴支膺懲」のムードが出てくるんですね。
1931年9月18日の満州事変だって、実際は関東軍が中国側から攻撃を仕掛けられたと装って部隊を動かしたわけですが、当時はその謀略の事実は伏せらた。でも当時の新聞社は満州事変の発端の真相には疑問を抱かず、戦闘の現状や見通しの方に注目。新聞社内は「奉天で日支軍衝突!」「原因は支那正規兵の満鉄線爆破」といった至急電を受けて騒然となり、航空機を総動員した速報競争が始まります。連日号外が発行されたほか、特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、約60万人が詰めかけた。また満州事変のニュース映画の公開回数は4002回、聴衆1000万人といった盛り上がりだったそうです。
1932年2月には「爆弾三勇士」のストーリーが報じられます。上海での日本軍との中国側との衝突で、3人の日本軍兵士が爆弾を抱えて敵側に身を投じて鉄条網を破り、日本軍の進路を切り開いたという話で、各新聞は大々的に美談として報じました。「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死 志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した勇士」「世界比ありやこの気魄 点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す 廟行鎮攻撃の三勇士」といった感じですね。新聞社は遺族への弔慰金を募ったり、「三勇士の歌」を公募してイベント化したりして、三人を軍神として祭り上げ、戦時ムードを盛り上げていく。朝日の三勇士の歌には12万4561通、毎日には8万4177通の応募があったそうです。毎日のケースでは、与謝野寛(鉄幹)の作品が入選。日露戦争時に「君死にたまうことなかれ」と歌った与謝野晶子の夫が爆弾三勇士の歌を作ったというわけですね。このエピソードをテーマにした映画が作られたり、文楽にも「肉弾三勇士」が登場したり、「三勇士まげ」という女性の髪型、爆弾チョコレート、肉弾キャラメル、三勇士せんべい、なんていうものまでできた。
ちなみに爆弾三勇士のエピソードの真相は、「上官に命じられた3人が点火した爆弾を置いて帰ってくるつもりが、途中で転んだ。3人は引き返そうとしてが、上官が怒鳴るものだから、改めて爆弾を抱えて鉄条網に向かて爆死した」といったものだという説もあるそうです。なんか、いしいひさいちの漫画っぽいですが、前坂さんは「これが事実なら軍神に祭り上げられた三勇士こそ災難である」としています。
ただ、新聞紙法による発売禁止が増えたということは、それだけ新聞の方も政府や軍の意向に沿わない報道をしようとしていたということでもあります。実際、満州事変前は朝日新聞は軍部の独走を厳しく批判していた。1931年8月の社説では軍部の独走ぶりを「少なくとも国民の納得するような戦争の脅威が、どこからも迫っているわけでもないのに軍部は、いまにも戦争がはじまるかのような宣伝に努めている。今日の軍部はとかく世の平和を欲せざるごとく、自らことあれかしと望んでいるかのように疑われる」としています。満州事変前日の9月17日の社説では「(若槻首相が軍部をコントロールできなければ)徒に退嬰の結果による衰頽か、または猪突主義による顚落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうと確信する」と予言しています。
この反戦の論調が満州事変を境として転換していった理由として、前坂さんは「国家の重大事にあたって新聞として軍部を支持し、国論の統一をはかるのは当然だとするナショナリズム」と「軍部、在郷軍人会、右翼などによる不買運動」を挙げています。満州事変直後に右翼団体、国龍会が大阪朝日の調査部長と接触し、その後の朝日の重役会で満州事変に対する編集方針が転換されたという疑いもあるようです。黒龍会は朝日の村山社長を襲撃したこともある団体ですから、新聞社にとっては脅威。さらに内田の背後には参謀本部があったといいます。
また毎日新聞は朝日新聞以上に満州事変に肯定的で、満州事変は「毎日新聞講演、関東軍主催」なんていう言いぐさもあったそうです。東京日日の社説は「満州に交戦状態 日本は正当防衛」「満州事変の本質 誤れる支那の抗議」「強硬あるのみ 対支折衝の基調」といった具合。「堂々たる我主張 国論一致の表現」「正義の国、日本 非理なる理事会」「我国の覚悟 今日の憂慮は誤りだ」といった具合です。
国際連盟のリットン調査団が1932年10月の報告書で、満州事変を日本による侵略と位置づけた際も各紙の論調は強硬でした。「錯覚、曲弁、認識不足 発表された調査団報告書」(東京朝日)、「認識不足も矛盾のみ」(大阪朝日)、「夢を説く報告書 誇大妄想も甚だし」(東京日日、大阪毎日)、「よしのズイから天井覗き」(読売)、「非礼誣匿たる調査報告」(報知)、「報告書は過去の記録のみ」(時事新報)という感じですから、当時の雰囲気が分かります。
1932年5月の五・一五事件では、東京朝日が犬飼首相を暗殺した青年将校は「純情」の末に事件を起こしたとしたり、犯人の肩を持つような論調を掲げた。読売も事件の背後には失業者があふれている経済の実態があるとして、政治家の責任を取り上げている。前坂さんはこうした踏み込み不足の論調が軍部や右翼を増長させたとしています。一方、大阪朝日や河北新報、東洋経済新報の石橋湛山、福岡日日の菊竹六鼓、信濃毎日の桐生悠々らは軍に否定的な論調で筆を振るいました。福岡日日は右翼などからの不買運動にさらされますが、永江真郷副社長は「正しい主張のために、わが社にもしものことがあったにしてもそれはむしろ光栄だ」と六鼓を励まし、会社がつぶれるかもしれないと不安がる販売担当には「バカなことを言ってはいかん。日本がつぶれるかどうかの問題だ」と一喝したといいます。桐生悠々は信濃毎日が不買運動に屈した後は、個人誌「他山の石」を創刊して、1941年9月にガンで亡くなるまで軍部を批判し続けた。カッコいいですね。
ところがこうした新聞社に対する右翼勢力からの圧力はさらに強くなります。1934年3月には時事新報の武藤山治社長が凶漢に襲われ、死亡します。武藤社長は鐘紡時代の手腕を買われて時事新報の経営をまかされ、政財界の癒着を批判した「番町会を暴く」のキャンペーンを張って、売り上げを伸ばしだしていたころでした。犯人の動機は私怨とされましたが、番町会批判キャンペーンとの関連があるとの疑惑は残りました。またこの年にはヤクザの一員が東京朝日を襲撃する事件も発生。1935年2月には、読売新聞の正力松太郎社長が右翼に襲われて重傷を負います。新聞報道が命がけの時代に入ったわけです。
こうしたなかで1935年には天皇機関説が問題になります。美濃部達吉・東京帝大教授が唱える天皇機関説は、大日本帝国憲法の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という文言を、統治権は法人である国家に属しており、天皇はその最高機関として他の機関と参与・輔弼を得ながら統治権を行使すると解釈するもの。天皇はあくまで国家の一部であって、天皇が自らの意思で何でも出来るわけじゃないんだよということですね。ところが右翼勢力は「日本の国家体制は、万世一系の天皇が天孫降臨の際の天照大神の神勅に基づいて統治することをはっきりとさせるべきだ」という「国体明徴」の立場をとって、美濃部を攻撃します。
美濃部の立場は当時の日本の学会では現実に即した主流の立場でしたが、右翼勢力は時代を逆戻りさせるような議論をふっかけてきたというかたちでした。ところが徳富蘇峰は東京日日のコラムで「記者は如何なる意味においてするも、天皇機関説の味方ではない。いやしくも日本の国史の一頁でも読みたらんには、斯かる意見に与することは絶対に不可能だ」「日本の国民として九十九人迄はおそらく記者と同感であろう」と断じます。東京日日はその後の社説でも「国体明徴に対して何人も異論のないことはいうまでもない。わが国民の心理が一、二の学説によって国体に対する信念に何等動揺を感じていないことは国民の堅い信念であり、その点については一人の疑惑をさしはさむものもない」と書きます。1936年2月には右翼組織の一員が美濃部を拳銃で襲撃。文部省は大学や高校から天皇機関説の抗議や著書を排除し、1937年5月には「国体の本義」を発効して全国の小、中、高、大学に配布しました。「天皇陛下万歳」な雰囲気が教育面からも作られていくわけですね。
さらに1936年には二・二六事件も起きます。皇道派の青年将校20人が率いる反乱軍1400人が首相官邸、内大臣私邸、蔵相私邸などを次々と襲い、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせたという事件です。新聞社では東京朝日も襲われました。内務省は各新聞社の幹部を出頭させて、「当局公表以外は絶対に掲載を禁止する。多少でも侵すものは厳罰を以て報いる」と警告し、ニュースはすべてラジオを通じて発表されるようになります。前坂さんは、「速報性や報道でもラジオに抜かれ、事実は報道禁止で書けず、テロの前に批判も恐ろしくて抑えざるを得ない、という三重苦に陥った」とします。五・一五事件の際には、大阪朝日や福岡日日が軍部に批判的な論調を取りましたが、二・二六事件ではそうした気迫ある論説も後退します。「それまで半死の状態だった言論の自由は完全にトドメを刺された」というわけです。
一方、時事新報は二・二六事件後、3月末までに17本の社説で軍部批判、時局批判を展開したそうです。近藤操社説部長の手によるもので、攻撃の矛先は同業の新聞社にも向けられました。「近年わが国に行わるる政治論は、時局の悪影響を受けて甚だしく歪曲され、軍部官僚に対しては不必要の程度まで阿諛迎合の言を連ね、政党に対しては不当に非難攻撃を浴びせる悪癖がある。(中略)五・一五事件、二・二六事件に於て、何者かに脅かされたる世間の所謂、識者、大言論機関なるものの所論が、一向に当てにならざることは概ね比類である」といった具合です。結局、時事新報は1936年12月25日に廃刊になって、毎日新聞に吸収されます。
面白いといっては何ですが、二・二六事件から時事新報廃刊までの10カ月の間、戒厳司令部からの注意は一回だけ。右翼や軍人団体からの言論脅迫もピタリと止んだそうです。近藤は「当時、言論は事実かなり自由なのに、なぜもっと強く軍部を批判しないかと、筆者は不思議に堪えなかった。要するに社説担当者も新聞経営者も、身辺や事業の安全だけを考えて、軍部の暴走を阻止すべき言論機関の使命を軽視した結果といわれても致し方ない」と回想しています。朝日の緒方竹虎は「自分も大いに書きたかったが、何分大世帯で差し障りが多く、思うにまかせなかった」と言い訳したといいます。
1936年1月には日本電報通信社(電通)と新聞連合社(連合)の合併により、国策通信会社である同盟通信社も発足。巨大通信社の豊富な配信が始まったことを機に、新聞社では合理化が進められ、通信社依存の体質が広がります。ただ、同盟には莫大な交付金とともに、何を目的として報道すべきかという指示書が出されていたため、政府による言論統制が効果的に進むという側面もありました。また政府は7月には内閣情報委員会が発足させ、報道統制を強化しています。
こうした事情を背景にして、1937年7月7日に盧溝橋事件で日中戦争が始まると、新聞は猛然と「暴支膺懲」のキャンペーンを展開して、反中ムードを煽ります。その後、7月29日には陸軍が内務省警保局に新聞・通信各社の代表を集めて、新聞紙法27条の発動について了承を要請。反戦的な記事、日本が好戦的であるという印象を与えるような記事、日本に不利な外国報道の転載、国内の治安を乱すような記事の掲載を禁じるというものでした。
日中開戦後の新聞の競争のポイントは、郷土部隊の活躍を早く伝え、戦死者の氏名と写真を一人でも多く載せることに絞られます。その結果、読売、毎日、朝日の大新聞は大幅に部数を伸ばし、地方紙は危機的な状況に追い込まれます。また、その後、物資に統制がかけられた結果、新聞用紙の不足が発生。1938年4月の国家総動員法の公布、8月の新聞用紙制限令で、新聞同士の自由な競争すらも封じられた。1939年発行の「新聞総覧」で、読売新聞の編集局長は「言論の自由はもとより尊重されねばならぬが、徒に取り締りに反抗し、禁を犯してまでも筆を進めることを自由の極致だと稽(かんが)るのは一つの大きな誤りではなかろうか」と記しています。ダメだこりゃ。
そして1941年12月8日、真珠湾攻撃で日米開戦。東京日日はこの開戦日を当日付紙面でスクープしました。海軍省担当の後藤基治記者が米内光政海相を情報源として書いたそうです。が、日米開戦後は、特高課員が新聞社に常駐するようになり、大本営発表以外の報道は許されなくなります。「我軍に不利なる事項は一般に掲載を禁ず。ただし、戦場の実相を認識せしめ、敵愾心高揚に資すべきものは許可す」との命令も出されました。もう後はイメージ通りの展開で、国民には真実が伝えられないまま敗戦を迎えます。
まぁ、だらだらと書いてきましたが、印象に残るのは1931年の満州事変から、1936年の二・二六事件の間のわずか5年間で、新聞の骨抜き化が一気に進んだということですね。新聞が満州事変が謀略であるという真相をすぐに見抜けなかったのは仕方無いとしても、1932年10月にリットン調査団の報告書が出た段階ではもっと冷静に軍を批判する論調になってもよかったのではないか。すでに1932年2月の段階で爆弾三勇士状態だったわけですから、今更引き返すのは難しかったのかもしれませんが、そこは言い訳にならんですよね。
あと、新聞社のバカな論調が国民に受け入れられた背景には、1929年に米国で起きた金融恐慌の余波を受けた日本経済の不調っぷりもあったんだと思います。新聞がバカな記事を書いたら、景気のいい話題を欲しがっていた国民がバカみたいに買っちゃうもんだから、そりゃ新聞はバカな記事を書き続けるというわけです。そのうちバカが狂気をはらみだして、テロ事件が相次ぐもんですから、バカな新聞はバカであることを止められなくなる。さらにバカが国家の中枢を握るようになっちゃうと、もうバカがバカを量産していくようなもんで、もう日本中がバカになっちゃうわけですよね。満州事変から5年で二・二六事件、さらに5年で真珠湾攻撃、そこから敗戦まで4年。病気の進行は早いです。
現在の日本でも「戦争法案」とかややこしいわけです。国民がしっかりしていないと、新聞のバカな記事を止められなくなるかもしれません。あと、バカなのは誰なのかという問題もあります。日本なのか、米国なのか、中国なのか、ロシアなのか、韓国なのか、北朝鮮なのか、イスラム系テロリストなのか。戦前の日本のように国際協調主義に背中を向けているのは誰なのかっていう風にも言えるかもしれません。まぁ、難しい問題ですけどね。
当時は1909年に公布された新聞紙法という法律がありました。そのなかで、政府は新聞の内容が「安寧秩序を紊(みだ)し、又は風俗を害するものと認めた時はその発売頒布を禁止し、必要な場合はこれを差し押さえることができる」という規定があった。この新聞紙法に基づいた発売禁止件数は1931年の満州事変前後から急速に増えます。1926年は251件だったのが、1931年には832件、1932年は2081件、1933年は1531件といった具合です。
政府や軍は事実をまともに公開せずに新聞をミスリードするという手法もとります。例えば、1931年6月に起きた中村震太郎大尉が中国側に射殺された事件も、そもそもは中村大尉が中国人になりすまして外国人の立ち入りが許されていない北部満州で偵察活動をしていところを殺害されたのですが、奉天特務機関はスパイ活動の部分は伏せて中村大尉殺害の事実だけを発表するといった具合です。すると、東京朝日新聞は「耳を割き、鼻をそぐ、暴戻! 手足を切断す 支那兵が鬼畜の振舞い」なんていう風に報じるわけです。こんな風にして、国内世論は「暴支膺懲」のムードが出てくるんですね。
1931年9月18日の満州事変だって、実際は関東軍が中国側から攻撃を仕掛けられたと装って部隊を動かしたわけですが、当時はその謀略の事実は伏せらた。でも当時の新聞社は満州事変の発端の真相には疑問を抱かず、戦闘の現状や見通しの方に注目。新聞社内は「奉天で日支軍衝突!」「原因は支那正規兵の満鉄線爆破」といった至急電を受けて騒然となり、航空機を総動員した速報競争が始まります。連日号外が発行されたほか、特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、約60万人が詰めかけた。また満州事変のニュース映画の公開回数は4002回、聴衆1000万人といった盛り上がりだったそうです。
1932年2月には「爆弾三勇士」のストーリーが報じられます。上海での日本軍との中国側との衝突で、3人の日本軍兵士が爆弾を抱えて敵側に身を投じて鉄条網を破り、日本軍の進路を切り開いたという話で、各新聞は大々的に美談として報じました。「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死 志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した勇士」「世界比ありやこの気魄 点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す 廟行鎮攻撃の三勇士」といった感じですね。新聞社は遺族への弔慰金を募ったり、「三勇士の歌」を公募してイベント化したりして、三人を軍神として祭り上げ、戦時ムードを盛り上げていく。朝日の三勇士の歌には12万4561通、毎日には8万4177通の応募があったそうです。毎日のケースでは、与謝野寛(鉄幹)の作品が入選。日露戦争時に「君死にたまうことなかれ」と歌った与謝野晶子の夫が爆弾三勇士の歌を作ったというわけですね。このエピソードをテーマにした映画が作られたり、文楽にも「肉弾三勇士」が登場したり、「三勇士まげ」という女性の髪型、爆弾チョコレート、肉弾キャラメル、三勇士せんべい、なんていうものまでできた。
ちなみに爆弾三勇士のエピソードの真相は、「上官に命じられた3人が点火した爆弾を置いて帰ってくるつもりが、途中で転んだ。3人は引き返そうとしてが、上官が怒鳴るものだから、改めて爆弾を抱えて鉄条網に向かて爆死した」といったものだという説もあるそうです。なんか、いしいひさいちの漫画っぽいですが、前坂さんは「これが事実なら軍神に祭り上げられた三勇士こそ災難である」としています。
ただ、新聞紙法による発売禁止が増えたということは、それだけ新聞の方も政府や軍の意向に沿わない報道をしようとしていたということでもあります。実際、満州事変前は朝日新聞は軍部の独走を厳しく批判していた。1931年8月の社説では軍部の独走ぶりを「少なくとも国民の納得するような戦争の脅威が、どこからも迫っているわけでもないのに軍部は、いまにも戦争がはじまるかのような宣伝に努めている。今日の軍部はとかく世の平和を欲せざるごとく、自らことあれかしと望んでいるかのように疑われる」としています。満州事変前日の9月17日の社説では「(若槻首相が軍部をコントロールできなければ)徒に退嬰の結果による衰頽か、または猪突主義による顚落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうと確信する」と予言しています。
この反戦の論調が満州事変を境として転換していった理由として、前坂さんは「国家の重大事にあたって新聞として軍部を支持し、国論の統一をはかるのは当然だとするナショナリズム」と「軍部、在郷軍人会、右翼などによる不買運動」を挙げています。満州事変直後に右翼団体、国龍会が大阪朝日の調査部長と接触し、その後の朝日の重役会で満州事変に対する編集方針が転換されたという疑いもあるようです。黒龍会は朝日の村山社長を襲撃したこともある団体ですから、新聞社にとっては脅威。さらに内田の背後には参謀本部があったといいます。
また毎日新聞は朝日新聞以上に満州事変に肯定的で、満州事変は「毎日新聞講演、関東軍主催」なんていう言いぐさもあったそうです。東京日日の社説は「満州に交戦状態 日本は正当防衛」「満州事変の本質 誤れる支那の抗議」「強硬あるのみ 対支折衝の基調」といった具合。「堂々たる我主張 国論一致の表現」「正義の国、日本 非理なる理事会」「我国の覚悟 今日の憂慮は誤りだ」といった具合です。
国際連盟のリットン調査団が1932年10月の報告書で、満州事変を日本による侵略と位置づけた際も各紙の論調は強硬でした。「錯覚、曲弁、認識不足 発表された調査団報告書」(東京朝日)、「認識不足も矛盾のみ」(大阪朝日)、「夢を説く報告書 誇大妄想も甚だし」(東京日日、大阪毎日)、「よしのズイから天井覗き」(読売)、「非礼誣匿たる調査報告」(報知)、「報告書は過去の記録のみ」(時事新報)という感じですから、当時の雰囲気が分かります。
1932年5月の五・一五事件では、東京朝日が犬飼首相を暗殺した青年将校は「純情」の末に事件を起こしたとしたり、犯人の肩を持つような論調を掲げた。読売も事件の背後には失業者があふれている経済の実態があるとして、政治家の責任を取り上げている。前坂さんはこうした踏み込み不足の論調が軍部や右翼を増長させたとしています。一方、大阪朝日や河北新報、東洋経済新報の石橋湛山、福岡日日の菊竹六鼓、信濃毎日の桐生悠々らは軍に否定的な論調で筆を振るいました。福岡日日は右翼などからの不買運動にさらされますが、永江真郷副社長は「正しい主張のために、わが社にもしものことがあったにしてもそれはむしろ光栄だ」と六鼓を励まし、会社がつぶれるかもしれないと不安がる販売担当には「バカなことを言ってはいかん。日本がつぶれるかどうかの問題だ」と一喝したといいます。桐生悠々は信濃毎日が不買運動に屈した後は、個人誌「他山の石」を創刊して、1941年9月にガンで亡くなるまで軍部を批判し続けた。カッコいいですね。
ところがこうした新聞社に対する右翼勢力からの圧力はさらに強くなります。1934年3月には時事新報の武藤山治社長が凶漢に襲われ、死亡します。武藤社長は鐘紡時代の手腕を買われて時事新報の経営をまかされ、政財界の癒着を批判した「番町会を暴く」のキャンペーンを張って、売り上げを伸ばしだしていたころでした。犯人の動機は私怨とされましたが、番町会批判キャンペーンとの関連があるとの疑惑は残りました。またこの年にはヤクザの一員が東京朝日を襲撃する事件も発生。1935年2月には、読売新聞の正力松太郎社長が右翼に襲われて重傷を負います。新聞報道が命がけの時代に入ったわけです。
こうしたなかで1935年には天皇機関説が問題になります。美濃部達吉・東京帝大教授が唱える天皇機関説は、大日本帝国憲法の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という文言を、統治権は法人である国家に属しており、天皇はその最高機関として他の機関と参与・輔弼を得ながら統治権を行使すると解釈するもの。天皇はあくまで国家の一部であって、天皇が自らの意思で何でも出来るわけじゃないんだよということですね。ところが右翼勢力は「日本の国家体制は、万世一系の天皇が天孫降臨の際の天照大神の神勅に基づいて統治することをはっきりとさせるべきだ」という「国体明徴」の立場をとって、美濃部を攻撃します。
美濃部の立場は当時の日本の学会では現実に即した主流の立場でしたが、右翼勢力は時代を逆戻りさせるような議論をふっかけてきたというかたちでした。ところが徳富蘇峰は東京日日のコラムで「記者は如何なる意味においてするも、天皇機関説の味方ではない。いやしくも日本の国史の一頁でも読みたらんには、斯かる意見に与することは絶対に不可能だ」「日本の国民として九十九人迄はおそらく記者と同感であろう」と断じます。東京日日はその後の社説でも「国体明徴に対して何人も異論のないことはいうまでもない。わが国民の心理が一、二の学説によって国体に対する信念に何等動揺を感じていないことは国民の堅い信念であり、その点については一人の疑惑をさしはさむものもない」と書きます。1936年2月には右翼組織の一員が美濃部を拳銃で襲撃。文部省は大学や高校から天皇機関説の抗議や著書を排除し、1937年5月には「国体の本義」を発効して全国の小、中、高、大学に配布しました。「天皇陛下万歳」な雰囲気が教育面からも作られていくわけですね。
さらに1936年には二・二六事件も起きます。皇道派の青年将校20人が率いる反乱軍1400人が首相官邸、内大臣私邸、蔵相私邸などを次々と襲い、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせたという事件です。新聞社では東京朝日も襲われました。内務省は各新聞社の幹部を出頭させて、「当局公表以外は絶対に掲載を禁止する。多少でも侵すものは厳罰を以て報いる」と警告し、ニュースはすべてラジオを通じて発表されるようになります。前坂さんは、「速報性や報道でもラジオに抜かれ、事実は報道禁止で書けず、テロの前に批判も恐ろしくて抑えざるを得ない、という三重苦に陥った」とします。五・一五事件の際には、大阪朝日や福岡日日が軍部に批判的な論調を取りましたが、二・二六事件ではそうした気迫ある論説も後退します。「それまで半死の状態だった言論の自由は完全にトドメを刺された」というわけです。
一方、時事新報は二・二六事件後、3月末までに17本の社説で軍部批判、時局批判を展開したそうです。近藤操社説部長の手によるもので、攻撃の矛先は同業の新聞社にも向けられました。「近年わが国に行わるる政治論は、時局の悪影響を受けて甚だしく歪曲され、軍部官僚に対しては不必要の程度まで阿諛迎合の言を連ね、政党に対しては不当に非難攻撃を浴びせる悪癖がある。(中略)五・一五事件、二・二六事件に於て、何者かに脅かされたる世間の所謂、識者、大言論機関なるものの所論が、一向に当てにならざることは概ね比類である」といった具合です。結局、時事新報は1936年12月25日に廃刊になって、毎日新聞に吸収されます。
面白いといっては何ですが、二・二六事件から時事新報廃刊までの10カ月の間、戒厳司令部からの注意は一回だけ。右翼や軍人団体からの言論脅迫もピタリと止んだそうです。近藤は「当時、言論は事実かなり自由なのに、なぜもっと強く軍部を批判しないかと、筆者は不思議に堪えなかった。要するに社説担当者も新聞経営者も、身辺や事業の安全だけを考えて、軍部の暴走を阻止すべき言論機関の使命を軽視した結果といわれても致し方ない」と回想しています。朝日の緒方竹虎は「自分も大いに書きたかったが、何分大世帯で差し障りが多く、思うにまかせなかった」と言い訳したといいます。
1936年1月には日本電報通信社(電通)と新聞連合社(連合)の合併により、国策通信会社である同盟通信社も発足。巨大通信社の豊富な配信が始まったことを機に、新聞社では合理化が進められ、通信社依存の体質が広がります。ただ、同盟には莫大な交付金とともに、何を目的として報道すべきかという指示書が出されていたため、政府による言論統制が効果的に進むという側面もありました。また政府は7月には内閣情報委員会が発足させ、報道統制を強化しています。
こうした事情を背景にして、1937年7月7日に盧溝橋事件で日中戦争が始まると、新聞は猛然と「暴支膺懲」のキャンペーンを展開して、反中ムードを煽ります。その後、7月29日には陸軍が内務省警保局に新聞・通信各社の代表を集めて、新聞紙法27条の発動について了承を要請。反戦的な記事、日本が好戦的であるという印象を与えるような記事、日本に不利な外国報道の転載、国内の治安を乱すような記事の掲載を禁じるというものでした。
日中開戦後の新聞の競争のポイントは、郷土部隊の活躍を早く伝え、戦死者の氏名と写真を一人でも多く載せることに絞られます。その結果、読売、毎日、朝日の大新聞は大幅に部数を伸ばし、地方紙は危機的な状況に追い込まれます。また、その後、物資に統制がかけられた結果、新聞用紙の不足が発生。1938年4月の国家総動員法の公布、8月の新聞用紙制限令で、新聞同士の自由な競争すらも封じられた。1939年発行の「新聞総覧」で、読売新聞の編集局長は「言論の自由はもとより尊重されねばならぬが、徒に取り締りに反抗し、禁を犯してまでも筆を進めることを自由の極致だと稽(かんが)るのは一つの大きな誤りではなかろうか」と記しています。ダメだこりゃ。
そして1941年12月8日、真珠湾攻撃で日米開戦。東京日日はこの開戦日を当日付紙面でスクープしました。海軍省担当の後藤基治記者が米内光政海相を情報源として書いたそうです。が、日米開戦後は、特高課員が新聞社に常駐するようになり、大本営発表以外の報道は許されなくなります。「我軍に不利なる事項は一般に掲載を禁ず。ただし、戦場の実相を認識せしめ、敵愾心高揚に資すべきものは許可す」との命令も出されました。もう後はイメージ通りの展開で、国民には真実が伝えられないまま敗戦を迎えます。
まぁ、だらだらと書いてきましたが、印象に残るのは1931年の満州事変から、1936年の二・二六事件の間のわずか5年間で、新聞の骨抜き化が一気に進んだということですね。新聞が満州事変が謀略であるという真相をすぐに見抜けなかったのは仕方無いとしても、1932年10月にリットン調査団の報告書が出た段階ではもっと冷静に軍を批判する論調になってもよかったのではないか。すでに1932年2月の段階で爆弾三勇士状態だったわけですから、今更引き返すのは難しかったのかもしれませんが、そこは言い訳にならんですよね。
あと、新聞社のバカな論調が国民に受け入れられた背景には、1929年に米国で起きた金融恐慌の余波を受けた日本経済の不調っぷりもあったんだと思います。新聞がバカな記事を書いたら、景気のいい話題を欲しがっていた国民がバカみたいに買っちゃうもんだから、そりゃ新聞はバカな記事を書き続けるというわけです。そのうちバカが狂気をはらみだして、テロ事件が相次ぐもんですから、バカな新聞はバカであることを止められなくなる。さらにバカが国家の中枢を握るようになっちゃうと、もうバカがバカを量産していくようなもんで、もう日本中がバカになっちゃうわけですよね。満州事変から5年で二・二六事件、さらに5年で真珠湾攻撃、そこから敗戦まで4年。病気の進行は早いです。
現在の日本でも「戦争法案」とかややこしいわけです。国民がしっかりしていないと、新聞のバカな記事を止められなくなるかもしれません。あと、バカなのは誰なのかという問題もあります。日本なのか、米国なのか、中国なのか、ロシアなのか、韓国なのか、北朝鮮なのか、イスラム系テロリストなのか。戦前の日本のように国際協調主義に背中を向けているのは誰なのかっていう風にも言えるかもしれません。まぁ、難しい問題ですけどね。
2015年7月11日土曜日
"UNINTIMIDATED"
“UNINTIMIDATED: A GOVERNOR’S STORY AND A NATION’S CHALLENGE”を読みました。ウィスコンシン州のスコット・ウォーカー知事(共和党)が2011年に成立させた、公務員制度の大幅な改革などを盛り込んだ州法、Act 10の成立までの経緯と、その後の顛末をつづった本です。ウォーカーさんは13日に大統領選へ出馬を表明するとみられているので、ちょうど良いタイミングでの読了。これまであまりウォーカーさんのことは知らなかったのですが、なかなか魅力を感じさせる内容でした。
ウォーカーさんは1967年11月2日生まれの46歳。2010年11月の知事選で当選し、2011年1月に就任。いきなりAct 10の成立を目指します。Act 10では公務員の労働組合の団体交渉権を制限したり、医療保険や年金の負担率を現状よりも高くすることなどを定めています。自治体職員といえどもサラリーマンですから、民間の組合と同じように団体交渉権が認められて当然という気もしますから、Act 10の内容を発表すると、民主党や労働組合から轟轟たる批判が沸き上がりました。反対運動は次第にエスカレートしていき、数万人のデモ隊が州庁舎を取り囲んだり、中になだれ混んだり、はては議事堂を占拠してそのなかで生活を始めたりして、大変な混乱に陥りました。
これと並行して民主党議員はAct 10の成立を阻むためにそろってイリノイ州まで出て行って、予算がからむ法案としての定足数に到達できない状況を作って審議を拒否します。ウォーカーさんと共和党は民主党側に説得工作を展開し、妥協案を提示したりもしますが、民主党側は受け入れず。そこでウォーカーさんと共和党はAct 10を二つの法案に分割して、予算がからまない法案に仕立て直します。予算がからまない法案だと定足数が低くなるので、共和党単独でもAct 10を成立させることが可能。というわけで、Act 10は2011年3月に議会を通過し、ウォーカーさんが署名することになります。
でも民主党と労働組合はこの後も、「Act 10は無効だ」という訴訟を起こしたり、議員のリコール選挙をやったりした後、ウォーカー知事のリコール選挙にこぎつけます。ただ、こうした試みはいずれも失敗。この本は、こうした経緯のなかで、いかに民主党とか過激な労働組合が理屈にあわない滅茶苦茶な行動をとってきたかとか、いかにウォーカーさんや共和党が勇敢に立ち向かったかということが、何度も何度も語られます。
で、問題はどうしてウォーカーさんはそんなAct 10を実現したかったのかということですが、根っこのところにあるのは財政の健全化です。州政府の財政悪化を食い止めるためには、郡や学区に対する補助金を削減せねばならない。でもそんなことしたら、住民サービスの最前線に立っている郡や学区の運営がまわらなくなってしまう。だから行政を効率化させるための武器を郡や学区に与える必要がある。その武器というのがAct 10による公務員制度改革だという論法です。
で、なんで公務員制度を改革すれば行政が効率化できると考えたかというと、ウォーカーさん自身、2002年から2010年のミルウォーキー郡知事の時代に、いろいろと行政の効率化を目指そうとしたのですが、公務員組合の反対で満足のいく結果が得られなかったそうなんです。それで行政改革のためにはAct 10で公務員のリストラなんかを効率的に進められるようにするべきだというわけですね。
分かりやすい弊害として挙げられているのが、公立学校教職員の解雇の際に適用される”last in, first out”ルール。リストラをするときは一番キャリアが浅い職員から解雇するルールだそうで、財政難からリストラせねばならないときには、たとえ優秀であっても若い先生は真っ先に解雇されることになる。逆にやる気はないけど、年だけはとっている先生は地位が安泰なわけですね。こういうルールを変えようとしても、教職員組合との団体交渉で退けられてしまう。公立学校を効率化するには、団体交渉権をなくさなければならないという話になります。
あと、公営バスの運転手の年収が最高約16万ドルに達していて、交通局のトップよりも高かったなんていうケースも出てきます。労働組合が最も年功の高い運転手により多くの残業を認めるというルールがあるからだそうで、これもまぁフェアーな話じゃないよねという話ですね。さらに公務員は医療保険や年金の負担率が民間よりもかなり低くて、その分、自治体側の負担が大きいという問題もあった。
ちなみにAct 10反対派が州庁舎を占拠した際には、州都マディソンの教職員の40%が病欠をとって、多くの学校が休校に追い込まれたそうです。反対派のなかには医師がいて、州庁舎のなかで病気であることを証明する診断書を書いていたとのこと。こりゃいくらなんでも、ひどいっていう話ですが、そんなことがまかり通るような状態だったということです。
で、Act 10では公務員の労働組合の団体交渉権を制限して、リストラを能力ベースで行えるようにする。年功が高いからといって、残業を独占できるような制度も止めさせる。あと、医療保険や年金の負担率も引き上げる。ただ、それだと公務員の人たちは生活が苦しくなってしまうので、労働組合が組合費を強制的に徴収する制度も止めにする。そうすれば公務員は組合費を負担しなくても済むので、その分、医療保険や年金の負担増を受け入れられるという仕組みですね。そりゃ、労働組合は猛烈に反対するというわけです。
Act 10成立後、補助金を払わなくて済むようになった州政府の財政は黒字化し、資産税の減税なんかができるようになります。また、補助金を受け取る側の郡や学区でも効率化が進んで、かえって教職員の数を増やすことができるようになったりした。団体交渉権がなくなったことで、学区は自由に医療保険の契約先を選べるようになり、その結果、保険料が大幅に下がったことが大きな要因だったようです。2010年の時点で、ウィスコンシン州の労働者なかで「州が正しい方向に進んでいる」と回答したのは10%でしかなかったけど、2014年の時点では95%にまで増えたとのこと。いろんな要因があるんでしょうけど、95%というのはちょっとすごい数字です。
で、本の最後ではリーダーシップの重要性が語られます。過去2回の大統領選でオバマ大統領にやられてしまった保守層には「社会はリベラル化している。中間層を取り込むためには共和党はリベラル寄りにフトした方がいいんじゃないか」という悩みがありますが、ウォーカーさんは「中間層を取り込むためにリベラルにシフトするのは間違いだ」と断じています。ウォーカーさんは2012年のリコール選挙で勝利しましたが、同じ年の大統領選ではオバマ大統領がウィスコンシン州をとりました。有権者はウォーカーさんとオバマ大統領の両方を同時に支持したというわけです。
ウォーカーさんとオバマ大統領では政治理念は正反対なわけですが、「有権者は候補者が保守かリベラルかという問題よりも、指導力があるかどうかを見ている」とのこと。中間層を取り込むために必要なのは理念で妥協することではなく、大胆で前向きな改革を打ち出し、それをやり遂げる勇気をみせるかどうかだとしています。
共和党は「弱者に冷たい」というイメージをもたれてきましたが、ウォーカーさんは弱者に冷たいのではなくて、「政府に依存する人を減らしたい」だけだとしています。例えば、ウォーカーさんは健康で子供のいない大人のフードスタンプ受給には職業訓練を受けることを義務付けました。フードスタンプ受給の要件が厳しくなるわけですから、「弱者に冷たい」と批判されそうですが、その分、職業訓練のプログラムは充実させています。「働くためのスキルを磨かなくてもフードスタンプが受給できますよ。安心して下さいね」と呼びかけるよりは、「働くためのスキルを磨いて、フードスタンプに頼らなくても済むようになろう」と呼びかける方が前向きだというわけです。しかもこうした職業訓練プログラムで政府に依存する人が減っていけば、財政も安定する、減税もできる、国民が自由に使えるお金が増える。共和党はこうした自らの理念を曲げることなく、堂々と主張すれば、国民を引っ張っていくことができるというのがウォーカーさんの主張です。
ウォーカーさんについては「リコール選挙に勝った」「ティーパーティーの支持を受けている」「組合を攻撃した」「大学を中退している」というぐらいのイメージしかなかったのですが、こういう「改革志向」の人だったんですね。しかも実績があるわけですから、なかなか有権者にアピールしそうです。
ウォーカーさんは1967年11月2日生まれの46歳。2010年11月の知事選で当選し、2011年1月に就任。いきなりAct 10の成立を目指します。Act 10では公務員の労働組合の団体交渉権を制限したり、医療保険や年金の負担率を現状よりも高くすることなどを定めています。自治体職員といえどもサラリーマンですから、民間の組合と同じように団体交渉権が認められて当然という気もしますから、Act 10の内容を発表すると、民主党や労働組合から轟轟たる批判が沸き上がりました。反対運動は次第にエスカレートしていき、数万人のデモ隊が州庁舎を取り囲んだり、中になだれ混んだり、はては議事堂を占拠してそのなかで生活を始めたりして、大変な混乱に陥りました。
これと並行して民主党議員はAct 10の成立を阻むためにそろってイリノイ州まで出て行って、予算がからむ法案としての定足数に到達できない状況を作って審議を拒否します。ウォーカーさんと共和党は民主党側に説得工作を展開し、妥協案を提示したりもしますが、民主党側は受け入れず。そこでウォーカーさんと共和党はAct 10を二つの法案に分割して、予算がからまない法案に仕立て直します。予算がからまない法案だと定足数が低くなるので、共和党単独でもAct 10を成立させることが可能。というわけで、Act 10は2011年3月に議会を通過し、ウォーカーさんが署名することになります。
でも民主党と労働組合はこの後も、「Act 10は無効だ」という訴訟を起こしたり、議員のリコール選挙をやったりした後、ウォーカー知事のリコール選挙にこぎつけます。ただ、こうした試みはいずれも失敗。この本は、こうした経緯のなかで、いかに民主党とか過激な労働組合が理屈にあわない滅茶苦茶な行動をとってきたかとか、いかにウォーカーさんや共和党が勇敢に立ち向かったかということが、何度も何度も語られます。
で、問題はどうしてウォーカーさんはそんなAct 10を実現したかったのかということですが、根っこのところにあるのは財政の健全化です。州政府の財政悪化を食い止めるためには、郡や学区に対する補助金を削減せねばならない。でもそんなことしたら、住民サービスの最前線に立っている郡や学区の運営がまわらなくなってしまう。だから行政を効率化させるための武器を郡や学区に与える必要がある。その武器というのがAct 10による公務員制度改革だという論法です。
で、なんで公務員制度を改革すれば行政が効率化できると考えたかというと、ウォーカーさん自身、2002年から2010年のミルウォーキー郡知事の時代に、いろいろと行政の効率化を目指そうとしたのですが、公務員組合の反対で満足のいく結果が得られなかったそうなんです。それで行政改革のためにはAct 10で公務員のリストラなんかを効率的に進められるようにするべきだというわけですね。
分かりやすい弊害として挙げられているのが、公立学校教職員の解雇の際に適用される”last in, first out”ルール。リストラをするときは一番キャリアが浅い職員から解雇するルールだそうで、財政難からリストラせねばならないときには、たとえ優秀であっても若い先生は真っ先に解雇されることになる。逆にやる気はないけど、年だけはとっている先生は地位が安泰なわけですね。こういうルールを変えようとしても、教職員組合との団体交渉で退けられてしまう。公立学校を効率化するには、団体交渉権をなくさなければならないという話になります。
あと、公営バスの運転手の年収が最高約16万ドルに達していて、交通局のトップよりも高かったなんていうケースも出てきます。労働組合が最も年功の高い運転手により多くの残業を認めるというルールがあるからだそうで、これもまぁフェアーな話じゃないよねという話ですね。さらに公務員は医療保険や年金の負担率が民間よりもかなり低くて、その分、自治体側の負担が大きいという問題もあった。
ちなみにAct 10反対派が州庁舎を占拠した際には、州都マディソンの教職員の40%が病欠をとって、多くの学校が休校に追い込まれたそうです。反対派のなかには医師がいて、州庁舎のなかで病気であることを証明する診断書を書いていたとのこと。こりゃいくらなんでも、ひどいっていう話ですが、そんなことがまかり通るような状態だったということです。
で、Act 10では公務員の労働組合の団体交渉権を制限して、リストラを能力ベースで行えるようにする。年功が高いからといって、残業を独占できるような制度も止めさせる。あと、医療保険や年金の負担率も引き上げる。ただ、それだと公務員の人たちは生活が苦しくなってしまうので、労働組合が組合費を強制的に徴収する制度も止めにする。そうすれば公務員は組合費を負担しなくても済むので、その分、医療保険や年金の負担増を受け入れられるという仕組みですね。そりゃ、労働組合は猛烈に反対するというわけです。
Act 10成立後、補助金を払わなくて済むようになった州政府の財政は黒字化し、資産税の減税なんかができるようになります。また、補助金を受け取る側の郡や学区でも効率化が進んで、かえって教職員の数を増やすことができるようになったりした。団体交渉権がなくなったことで、学区は自由に医療保険の契約先を選べるようになり、その結果、保険料が大幅に下がったことが大きな要因だったようです。2010年の時点で、ウィスコンシン州の労働者なかで「州が正しい方向に進んでいる」と回答したのは10%でしかなかったけど、2014年の時点では95%にまで増えたとのこと。いろんな要因があるんでしょうけど、95%というのはちょっとすごい数字です。
で、本の最後ではリーダーシップの重要性が語られます。過去2回の大統領選でオバマ大統領にやられてしまった保守層には「社会はリベラル化している。中間層を取り込むためには共和党はリベラル寄りにフトした方がいいんじゃないか」という悩みがありますが、ウォーカーさんは「中間層を取り込むためにリベラルにシフトするのは間違いだ」と断じています。ウォーカーさんは2012年のリコール選挙で勝利しましたが、同じ年の大統領選ではオバマ大統領がウィスコンシン州をとりました。有権者はウォーカーさんとオバマ大統領の両方を同時に支持したというわけです。
ウォーカーさんとオバマ大統領では政治理念は正反対なわけですが、「有権者は候補者が保守かリベラルかという問題よりも、指導力があるかどうかを見ている」とのこと。中間層を取り込むために必要なのは理念で妥協することではなく、大胆で前向きな改革を打ち出し、それをやり遂げる勇気をみせるかどうかだとしています。
共和党は「弱者に冷たい」というイメージをもたれてきましたが、ウォーカーさんは弱者に冷たいのではなくて、「政府に依存する人を減らしたい」だけだとしています。例えば、ウォーカーさんは健康で子供のいない大人のフードスタンプ受給には職業訓練を受けることを義務付けました。フードスタンプ受給の要件が厳しくなるわけですから、「弱者に冷たい」と批判されそうですが、その分、職業訓練のプログラムは充実させています。「働くためのスキルを磨かなくてもフードスタンプが受給できますよ。安心して下さいね」と呼びかけるよりは、「働くためのスキルを磨いて、フードスタンプに頼らなくても済むようになろう」と呼びかける方が前向きだというわけです。しかもこうした職業訓練プログラムで政府に依存する人が減っていけば、財政も安定する、減税もできる、国民が自由に使えるお金が増える。共和党はこうした自らの理念を曲げることなく、堂々と主張すれば、国民を引っ張っていくことができるというのがウォーカーさんの主張です。
ウォーカーさんについては「リコール選挙に勝った」「ティーパーティーの支持を受けている」「組合を攻撃した」「大学を中退している」というぐらいのイメージしかなかったのですが、こういう「改革志向」の人だったんですね。しかも実績があるわけですから、なかなか有権者にアピールしそうです。
2015年6月16日火曜日
"God, Guns, Grits, and Gravy"
2016年の大統領選に立候補しているマイク・ハッカビー元アーカンソー州知事の”God, Guns, Grits, and Gravy”を読んでみた。ハッカビーさんはサザンバプティスト派の牧師で、アーカンソー州知事を10年半務め、2008年に共和党の予備選に出馬するも撤退。その後、フォックス・ニュース・チャンネルでトーク番組をもったりしている、知名度がある人です。いわゆるキリスト教系保守。歯に衣着せぬ物言いで人気な政治家らしく、面白い本でした。2015年1月発売。
本の内容を簡単にまとめてしまえば、「南部のことは南部にまかせてくれ。ニューヨークやカリフォルニア、ワシントンDCのような一部のプログレッシプな地域の奴らが、われわれの信仰や文化についてとやかく言うんじゃない」というもの。
この本の最初のエピソードは同性婚がらみの内容です。Chick-fil-AというチキンチェーンのCEOが2012年6月に「伝統的な結婚を支持する」という趣旨の発言をしたところ、シカゴのエマニュエル市長とかボストンのメニーノ市長とかが、Chick-fil-Aを市から追い出すと発言。そこでハッカビーさんは、Chick-fil-Aへの連帯を示そうと、自分のラジオ番組やフォックスの番組で「8月1日にChick-fil-Aの店舗でチキンを買おう」と呼びかけたところ、全米のChick-fil-Aの店舗で早朝から行列ができたそうです。ハッカビーさんのフェイスブックのページには1900万アクセスがあり、60万人が「参加する」という意思表明した。この日のChick-fil-Aの売上高はこれまでの最高額を200%以上も上回り、2012年の売上高は前年比12%増だったそうです。アップルとかスターバックスとかアマゾンのCEOが自分の個人的な信条を述べても責められないのに、なんでChick-fil-Aだけが責められなければならないのかというわけですね。
同性婚については別のパートでも触れられていて、聖書の教えを信じる立場からすれば同性婚はどうしても容認できないものだとのことです。ハッカビーさん自身は「同性婚を容認すれば社会が崩壊するという主張は言い過ぎだ」と認めているのですが、「男性と女性の体は肉体的に補完しあうように神によってデザインされている」ものであるとしています。キリスト教徒じゃない人には説得力のない説明かもしれませんが、「私は神を中心とする価値観をもっているので、ここにはこだわる」ということなんで、譲れないところなんでしょう。
また、セックスには夫婦の間の感情的なつながりを強めるという価値があり、同性同士でも同様のつながりを持つことはできるんだけれど、「私が神が意図しているのだと信じるような、男女のつながりに相当する自然な肉体的な感情の表現にはなりえない」とのこと。同性婚の支持派からは「別に同性婚を承認したって、誰も困らないじゃないか」との主張もありますが、ハッカビーさんは「何とも言えない」という立場です。異性愛者だった人が同性愛者になったり、同性愛者が異性愛者になったりするケースもあるし、性的な嗜好には様々な要素がからんでいるわけで、「将来、今の時代を振り返って、『われわれは何て無知だったのだろう』と思う日がくるかもしれない」としています。
あと銃規制の強化についても絶対反対の立場です。ハッカビーさんが初めて本物の銃を買ったのは9歳のころ。その数年後にはショットガンを手に入れたそうです。日本人の感覚からすればなんというバカな話かと思いますけど、南部の子供たちは親から銃の扱いについて厳しくしつけられているから問題ないということです。
具体的には、
「例え弾が込められていない銃でも、弾が込められているものとして扱え」
「撃つつもりがないのなら、銃を人や動物や物に向けてはいけない」
「引き金を引く前に、撃とうとしている物が何か、その背後に何があるのかを把握せよ」
「何を撃とうとしているのか確信がなければ、撃つな」
「常に銃がどこにあるのかを把握し、使い終わったら元の場所に戻せ」
「食べるつもりがないのなら、動物を撃つな」
というようなことです。
こんなこと日本の子供が教わることはないですが、南部の子供にとっては常識だとのこと。ハッカビーさんはこんな地域の価値観は、決してプログレッシブな価値観に劣るものではないんだという立場なわけです。「銃の乱射事件の多くは銃の持ち込みが禁止されている施設で起きている」とか「ドイツでのユダヤ人の強制連行の前には、ユダヤ人による銃の保有が禁止されていた」とかいうエピソードを持ち出して、自分たちの身を悪党から守るために銃を持つことが必要だと主張しています。そこから「都会の人間は銃を持ったこともないくせに、銃が危ないとかぐちゃぐちゃ言うんじゃない」といった趣旨の主張があったりして、南部の人たちにとっては立場を代弁してくれているという気分になるんだろうなという気がします。
ハッカビーさんは個人の自由を最大限に尊重して、政府による規制は最小限にすべきだという立場です。じゃぁ、どんなことだったら規制があってもいいのかというと、国民の間で規制が必要だというコンセンサスがある場合だということのようです。政府が価値観を押しつけるような規制じゃなくて、国民の側から持ち上がってくるような規制ですね。政治家が何かの問題について規制が必要だと考えるならば、いきなり規制を持ち出すんじゃなくて、問題を提起して、意識を高め、解決策を話し合ってから行動を起こす。シートベルトに関する規制とか、タバコに関する規制とかは、こういった経緯でできたそうです。ちなみに”Live free or DIE”をモットーとするニューハンプシャー州にはシートベルトに関する規制はない。ハッカビーさんは「もちろんそれでOK」としています。ハッカビーさん自身、知事時代にレストランでの喫煙を規制する法律を作ったそうですが、これは喫煙が自身や周囲に与える有害性が十分に認識されてからのことで、「人気のある規制」だったとのこと。
とまぁ、こんな感じでハッカビーさんいろんな世の中の事柄にモノ申していくという本です。最近のテレビのリアリティ番組はやりすぎじゃないかとか、でも「ダック・ダイナスティー」は素晴らしいとかいったどうでもいい話から、アル・ゴアは気候変動を憂いているわりには900万ドルもする豪華な家に住んでいるとか、カリフォルニア、ニューヨーク、イリノイはビジネスに適さない州のトップ3に選ばれているとか、貧困の実態についてテッド・ケネディーとかジェイ・ロックフェラーとかジョン・ケリーみたいな連中に説教される筋合いはないといったリベラル批判まで盛りだくさんです。あと、IRSは廃止すべきだとか、オバマ大統領は国民を盗聴するような真似はやめるべきだとか、ティーパーティーの人たちが言いそうなこともでてきますが、「共和党はお互いを批判しあうようなことはやめて、ひとつにまとまるべきだ」といった主張もあって、独立志向の強いティーパーティーとは一線を画している部分もあります。
ちなみに、ジョン・エドワードのことは”the serial adulterer, notorious liar, and all-around con man”と評しています。なんなんでしょうね。このエドワードって人は。
ハッカビーさんは単にご意見番的なだけの人なわけじゃなくて、副知事から知事の辞任にともなって知事に昇格し、その後、2度の選挙で勝っているわけですから、ちゃんとした政治家でもあるんだと思います。個人的にはこういう面白いおじさんは好きです。ただ、別にUnited States of Americaの大統領になる必要もない気もしますが、どうなんでしょう。
そういえば、石原慎太郎っぽい気もする。違う気もするけど。
本の内容を簡単にまとめてしまえば、「南部のことは南部にまかせてくれ。ニューヨークやカリフォルニア、ワシントンDCのような一部のプログレッシプな地域の奴らが、われわれの信仰や文化についてとやかく言うんじゃない」というもの。
この本の最初のエピソードは同性婚がらみの内容です。Chick-fil-AというチキンチェーンのCEOが2012年6月に「伝統的な結婚を支持する」という趣旨の発言をしたところ、シカゴのエマニュエル市長とかボストンのメニーノ市長とかが、Chick-fil-Aを市から追い出すと発言。そこでハッカビーさんは、Chick-fil-Aへの連帯を示そうと、自分のラジオ番組やフォックスの番組で「8月1日にChick-fil-Aの店舗でチキンを買おう」と呼びかけたところ、全米のChick-fil-Aの店舗で早朝から行列ができたそうです。ハッカビーさんのフェイスブックのページには1900万アクセスがあり、60万人が「参加する」という意思表明した。この日のChick-fil-Aの売上高はこれまでの最高額を200%以上も上回り、2012年の売上高は前年比12%増だったそうです。アップルとかスターバックスとかアマゾンのCEOが自分の個人的な信条を述べても責められないのに、なんでChick-fil-Aだけが責められなければならないのかというわけですね。
同性婚については別のパートでも触れられていて、聖書の教えを信じる立場からすれば同性婚はどうしても容認できないものだとのことです。ハッカビーさん自身は「同性婚を容認すれば社会が崩壊するという主張は言い過ぎだ」と認めているのですが、「男性と女性の体は肉体的に補完しあうように神によってデザインされている」ものであるとしています。キリスト教徒じゃない人には説得力のない説明かもしれませんが、「私は神を中心とする価値観をもっているので、ここにはこだわる」ということなんで、譲れないところなんでしょう。
また、セックスには夫婦の間の感情的なつながりを強めるという価値があり、同性同士でも同様のつながりを持つことはできるんだけれど、「私が神が意図しているのだと信じるような、男女のつながりに相当する自然な肉体的な感情の表現にはなりえない」とのこと。同性婚の支持派からは「別に同性婚を承認したって、誰も困らないじゃないか」との主張もありますが、ハッカビーさんは「何とも言えない」という立場です。異性愛者だった人が同性愛者になったり、同性愛者が異性愛者になったりするケースもあるし、性的な嗜好には様々な要素がからんでいるわけで、「将来、今の時代を振り返って、『われわれは何て無知だったのだろう』と思う日がくるかもしれない」としています。
あと銃規制の強化についても絶対反対の立場です。ハッカビーさんが初めて本物の銃を買ったのは9歳のころ。その数年後にはショットガンを手に入れたそうです。日本人の感覚からすればなんというバカな話かと思いますけど、南部の子供たちは親から銃の扱いについて厳しくしつけられているから問題ないということです。
具体的には、
「例え弾が込められていない銃でも、弾が込められているものとして扱え」
「撃つつもりがないのなら、銃を人や動物や物に向けてはいけない」
「引き金を引く前に、撃とうとしている物が何か、その背後に何があるのかを把握せよ」
「何を撃とうとしているのか確信がなければ、撃つな」
「常に銃がどこにあるのかを把握し、使い終わったら元の場所に戻せ」
「食べるつもりがないのなら、動物を撃つな」
というようなことです。
こんなこと日本の子供が教わることはないですが、南部の子供にとっては常識だとのこと。ハッカビーさんはこんな地域の価値観は、決してプログレッシブな価値観に劣るものではないんだという立場なわけです。「銃の乱射事件の多くは銃の持ち込みが禁止されている施設で起きている」とか「ドイツでのユダヤ人の強制連行の前には、ユダヤ人による銃の保有が禁止されていた」とかいうエピソードを持ち出して、自分たちの身を悪党から守るために銃を持つことが必要だと主張しています。そこから「都会の人間は銃を持ったこともないくせに、銃が危ないとかぐちゃぐちゃ言うんじゃない」といった趣旨の主張があったりして、南部の人たちにとっては立場を代弁してくれているという気分になるんだろうなという気がします。
ハッカビーさんは個人の自由を最大限に尊重して、政府による規制は最小限にすべきだという立場です。じゃぁ、どんなことだったら規制があってもいいのかというと、国民の間で規制が必要だというコンセンサスがある場合だということのようです。政府が価値観を押しつけるような規制じゃなくて、国民の側から持ち上がってくるような規制ですね。政治家が何かの問題について規制が必要だと考えるならば、いきなり規制を持ち出すんじゃなくて、問題を提起して、意識を高め、解決策を話し合ってから行動を起こす。シートベルトに関する規制とか、タバコに関する規制とかは、こういった経緯でできたそうです。ちなみに”Live free or DIE”をモットーとするニューハンプシャー州にはシートベルトに関する規制はない。ハッカビーさんは「もちろんそれでOK」としています。ハッカビーさん自身、知事時代にレストランでの喫煙を規制する法律を作ったそうですが、これは喫煙が自身や周囲に与える有害性が十分に認識されてからのことで、「人気のある規制」だったとのこと。
とまぁ、こんな感じでハッカビーさんいろんな世の中の事柄にモノ申していくという本です。最近のテレビのリアリティ番組はやりすぎじゃないかとか、でも「ダック・ダイナスティー」は素晴らしいとかいったどうでもいい話から、アル・ゴアは気候変動を憂いているわりには900万ドルもする豪華な家に住んでいるとか、カリフォルニア、ニューヨーク、イリノイはビジネスに適さない州のトップ3に選ばれているとか、貧困の実態についてテッド・ケネディーとかジェイ・ロックフェラーとかジョン・ケリーみたいな連中に説教される筋合いはないといったリベラル批判まで盛りだくさんです。あと、IRSは廃止すべきだとか、オバマ大統領は国民を盗聴するような真似はやめるべきだとか、ティーパーティーの人たちが言いそうなこともでてきますが、「共和党はお互いを批判しあうようなことはやめて、ひとつにまとまるべきだ」といった主張もあって、独立志向の強いティーパーティーとは一線を画している部分もあります。
ちなみに、ジョン・エドワードのことは”the serial adulterer, notorious liar, and all-around con man”と評しています。なんなんでしょうね。このエドワードって人は。
ハッカビーさんは単にご意見番的なだけの人なわけじゃなくて、副知事から知事の辞任にともなって知事に昇格し、その後、2度の選挙で勝っているわけですから、ちゃんとした政治家でもあるんだと思います。個人的にはこういう面白いおじさんは好きです。ただ、別にUnited States of Americaの大統領になる必要もない気もしますが、どうなんでしょう。
そういえば、石原慎太郎っぽい気もする。違う気もするけど。
2015年5月12日火曜日
“Believer : My Forty Years in Politics”
“Believer : My Forty Years in Politics”を読んだ。オバマ大統領の補佐官を務めたDavid Axelrodさんの本です。2015年2月発売。アクセルロッドさんは広報戦略担当ということで、テレビなんかにもよく出演した有名人で、”Yes We Can”のスローガンを考えたのもアクセルロッドさんだそうです。528ページと長い本ですが、面白かった。
アクセルロッドさんが政治に関心を持ったのは5歳のころ。ケネディが地元の街で集会を開いたときに、家政婦のおばさんに連れられて住民たちがケネディを歓迎する様子を見たことがきっかけだそうです。それから子供のころから地元の選挙でビラくばりとかを手伝うようになって政治オタクの道へ。シカゴ大学入学後には、地元紙で政治コラムを書くようになる。当時としても異例の抜擢というか、本人も「よく雇ったなぁ」と振り返るような採用だったそうです。
で、大学卒業後はシカゴトリビューンに入社。トリビューンのインターンにはユダヤ人が2人いて、「採用されるのは1人だろう」とお互いに張り合っていたら、両方とも採用されたとのこと。事件や事故を追いかけながら、数年後には政治担当になります。こんな風にケネディの存在がきっかけとなって、政治にかかわるようになった人っていうのは沢山いるんだろうなと思います。
で、シカゴ市やイリノイ州の政治に関わっているうちに、シカゴトリビューンの株主が変わって編集方針なんかにも変化がでてきた。そんなタイミングで独立して、政治コンサルタントの事務所を開くことになります。
そんななかで得られた選挙の定石というのが、「候補者が直面するであろうあらゆる論点をピックアップして、世論調査を検討したうえで、そのなかからターゲットとする有権者層に最もアピールする2つか3つの論点を選び、それをより大きなストーリーのなかに組み込んでいって、候補者が立候補する理由として語っていく」ということだそうです。「勝てる選挙運動というのは、この選挙が何のための戦いなのかということを明確に定義して、有権者の支持を引きつけることができる選挙運動のことだ」とのこと。論点を絞って、対立軸を明確にするってことですかね。大都会で人種構成が複雑なシカゴの政界では、黒人らマイノリティーの有権者をうまく動員することで選挙戦を有利に運ぶことができたとのことで、こうした経験がオバマの選挙戦にも生かされているんだとのことです。
あと、「現職が引退するときは、いくらその現職が人気があったとしても、有権者はそのレプリカを求めることはない。有権者はいつでも現状からの変革を選ぶもので、後継者には現職が残した問題点に対応する強さを求めている」との解説もあります。ヒラリーのことですかね。
あと、この本のなかでは、政治にまつわる様々なディールも出てきます。例えば、
・イリノイ州選出の民主党上院議員、Alan Dixonは、父ブッシュ大統領が最高裁判事に指名したクラレンス・トーマスが上院で52対48で承認された際に賛成票を投じた。ホワイトハウスは次の選挙で強い対立候補を立てないことと引き替えに、ディクソンに賛成を迫った
なんていう話も出てくる。ホワイトハウスによる議会工作っていうのは、こんなやり方があるもんなんですね。
で、アーカンソー州知事だったクリントンが大統領選に出馬する際に「陣営に入らないか」というオファーがあったんだけど、てんかんを患っている長女や家族をサポートするためにオファーを断ります。その代わりにクリントン陣営に入ったのが、ジョージ・ステファノプロスだそうです。で、その後、2000年にも今度はゴア陣営から誘いがありますが、これも家族のケアを理由に断った。で、最終的にはオバマ陣営に入る。家族を優先させて政治コンサルタントとして2度の大きなチャンスを見送ったけど、結局はうまくいったっていう話。
オバマと最初に出会ったのは1992年。ハーバードのロースクールを卒業した直後で、「黒人として初めて、ハーバードのロースクールの学内誌の編集長になった」と話題になり、シカゴで弁護士として有権者登録活動を始めたころのことです。民主党の支持者の一人が「将来、黒人初の大統領になることだってあり得る人物だ」と紹介してくれたそうですが、アクセルロッドさんの印象としてはそこまですごいものではなかった。ただ、「傲慢さをみせずに知性的に語り、年長者のような自信を感じさせる」点や、「普通に弁護士として活動すれば高額な報酬を得られるにも関わらず、有権者登録活動を始めた」点に、高い能力と志の高さをみたとのこと。
このあとはオバマがらみのエピソードが中心です。大きなエピソードはオバマ自身の自伝とかで明らかになっているんでしょうけど、細かいものとしては、
・2004年の民主党党大会で、大統領候補として指名されるジョン・ケリーの指名を受けてスピーチをする際、当時上院議員候補だったオバマはイリノイ州議会の合間をぬって、懸命にスピーチの草稿を書き上げた。そのなかに”The pundits like to slice and dice our country into red states and blue states; red states for Republicans, blue states for Democrats. But I’ve got news for them,” “We are one people, all of us pledging allegiance to the stars and stripes, all of us standing up for the red, white and blues”という下りがあったけど、これがケリーのスピーチライターから「ケリーの演説とかぶっている」とクレームがついた。当然、オバマ側がスピーチからこのフレーズを削ることになったが、オバマは”You know they didn’t have that in Kerry’s speech. They saw it, they liked it, and now they’re stealing it! ”と怒った。
・Rahm EmanuelはペロシからDemocratic Congress Campaign Committeeの委員長への就任を要請されたとき、家族と過ごす時間を優先したいとして断っていたが、結局、2005年1月に就任した。その時の条件が、”coveted(誰もがほしがる)”下院歳入委員会委員長のポストと、民主党の下院指導部入りだった。
・ハリー・リードとチャック・シューマーは大統領選の2年前、2006年夏の段階で、オバマに対して直接、大統領選への出馬を要請していた。
・Valerie Jarrettはシカゴ市長だったRichard Daleyのdeputy chief of staffで、オバマと婚約中だった弁護士のミシェルを雇って、オバマとミシェルの側近になった。
・アクセルロッドは大統領選出馬を検討中のオバマに対して、「ヒラリーやジョン・エドワーズのような、大統領の座にかける執念が足りない」と諫言したことがある。そのときのオバマのリアクションは”Well, you’re right, I don’t need to be president” ”But I ‘ll tell you this. I am pretty damned competitive, and if I get in, I’m not getting in to lose. I’m going to do what’s necessary”だった。
・オバマは質疑応答やディベートなどで大事なことを最後まで話さず、くどくどと長い前振りを使って説明しようとする「悪い癖」がある。これは選挙の際にはいつでも陣営を悩ませた。
・ヒラリーとの予備選の最中、ニューハンプシャーでの選挙戦でヒラリー陣営に入っていたビリー・シャヒーン(ジーン・シャヒーンの夫)がオバマが自伝のなかで告白している大麻使用歴について「共和党から『最後に大麻を使ったのはいつだ』と追求されるおそれがある」と批判した。その後、デモインの空港でオバマとヒラリーのプライベートジェットが居合わせた際、ヒラリー陣営のスタッフがオバマ側に「ヒラリーがオバマに直接会って話したいことがある」と持ちかけ、オバマは「シャヒーンの行き過ぎた批判について謝罪してくるのだろう」と思ってヒラリーの元に向かった。アクセルロッドがジェットの窓から滑走路で話す2人の様子をみていたところ、最初は落ち着いていたヒラリーの態度は次第にエスカレートして、目の前にいるオバマを指さしたりするようになり、オバマがヒラリーを落ち着かせようと肩に手を置くと、ヒラリーはその手を払いのけたりした。ジェットに戻ってきたオバマによると、ヒラリーは最初は謝罪してきたのだが、オバマが「お互いに選挙戦の行動やトーンには責任をもってやりましょう」と話した途端、激怒してオバマ陣営によるヒラリー陣営への態度をあげつらって批判を始めた。オバマは「初めてヒラリーの目に恐怖の色をみた」と話した。
・ケリーは2008年の大統領選で、04年の自身の選挙で副大統領候補だったエドワーズを支持せずに、オバマを支持した。その理由は、ケリーがエドワーズを副大統領候補に選ぶ際、「もしも04年の選挙で勝てなかった場合、08年の選挙ではケリーが出馬の是非を判断するまでエドワーズは動かない」という約束をしていたにも関わらず、エドワーズが04年の選挙の後で08年の出馬に向けた動きをみせたから。ケリーは「エドワーズは裏切り者」とみていた。
・エドワーズは08年、サウスカロライナの予備選を前に大統領選からの撤退を検討していた。”南部”なサウスカロライナでエドワーズが撤退すれば、票はヒラリーに流れるとみられており、オバマにとっては不利な状況が生まれる。そういう状況を読んで、エドワーズ側はアクセルロッドに「エドワーズに選挙戦に残って欲しいんだったら、大統領になったときにエドワーズにポストを与えると約束して欲しい。ヒラリーは司法長官を約束してくれているんだけど、でもエドワーズが欲しいのは副大統領候補になることだ」と持ちかけてきた。この話を聞いたオバマのリアクションは”Seriously? Just tell them that I think highly of John, but that he’ll have to make his own decision”だった。
・ブッシュ政権の国防長官だったボブ・ゲイツを続投させることを進言したのはハリー・リード。
・マケインとの選挙戦の終盤、オバマ支持の盛り上がりをみて、オバマは”we may be the victims of our own success. The expectations are so high. It’s going to be reaaly hard to meet them”と漏らした。
・Rahm EmanuelをChief of Staffに引き抜く際、エマニュエルはシカゴでの生活を優先させたいとして固持したが、オバマは絶対に聞き入れなかった。政権からロビイストを排除し、高い倫理上のガイドラインをもうけたオバマ政権にとって、それでも議会を動かすにはエマニュエルの手腕が不可欠だったから。
・ラリー・サマーズが元財務長官という肩書きがあるにも関わらず、格下の国家経済会議(NEC)委員長の座を受けたのは、バーナンキがFRB議長を退く際には後任に据えるという約束があったから。結局、約束は守られなかった。
・オバマは最初の予算法案にあまりに多くのearmarkが付けられているので、拒否権を発動しようかと思ったが、エマニュエルに議会との対立激化を引き起こすといさめられて思いとどまった。エマニュエルは、拒否権を発動すれば、ハリー・リードは信頼関係が損なわれたとみなすだろうと説得した。
・オバマは選挙戦で超党派による政治を目指すとしてきたが、現実には就任直後に共和党からの協力を得ることは難しいと実感する。オバマは就任1週間後に共和党の下院の議員団と経済再生プランについて協議したが、オバマがホワイトハウスを出発しようとする直前、AP通信は「共和党指導部はすでに議員に対してプランへの反対を促した」と報じた。オバマはつるし上げ裁判に向かわされたかたちで、「こんなのってフェアーじゃないだろう」とこぼした。
・われわれが米国が緊急事態にさらされているのだから共和党は協力してくれるだろうと想定したのはナイーブだった。ヒラリーが選挙戦で「甘い観測」と批判したのはこのことだった。
・AIGのボーナスが問題になった際、ガイトナーとサマーズは契約上約束されたボーナスを取り下げさせるのは資本主義の原則に反すると主張した。アクセルロッドは”Capitalism isn’t trading high right now!”と言い返した。
・オバマ陣営は1年目に医療保険制度改革に取り組めば、共和党からの強い反発を招き、その後の政権運営が立ちゆかなくなることを心配し、議会を熟知したエマニュエルやバイデンらがより穏健なプランを目指すよう主張した。でも、改革の草案を立案したJean Lambewは「選挙戦での約束を守るべきだ」と主張。アクセルロッドは、選挙戦では個人の加入義務化なんかは約束していないと反論したが、オバマはすでに包括的な改革に取り組む腹を固めていた。オバマは後日、「リスクは分かっている」としたうえで、「8年間支持率を高く維持するために政権をとったわけじゃない。未来のために重要な変化をもたらすために政権をとったんだ」と話した。
・オバマ曰く、”Whenever I leave here, in four years or eight, I just want to leave knowing I did everything I could” “We may not solve all these problems, but I want to know that we tried”
・オバマケア関連法案が上院を通過する際、上院の民主党の議席は60でフィリバスターを回避できる状態だったが、ネブラスカのベン・ネルソンが造反する可能性があった。そこでメーンの共和党議員のオリンピア・スノウの説得工作が続けられていた。結局、スノウの寝返りは実現しなかったが、ネルソンも造反しなかったので上院を通過できた。2009年の年末のこと
・でも年明けのマサチューセッツの補選で共和党のスコット・ブラウンが勝利して、上院の議席数は59になってしまった。もしも下院が独自のオバマケア関連法案を通せば、両院での協議が必要になって、今回はフィリバスターを回避できなくなる。同じ党内でも上院と下院の対抗関係は強いものだが、なんとかペロシを説得して上院の法案をそのまま下院でも通すことで上院に法案が戻ってくることを回避した
・オバマが就任後にサウジアラビアを初めて訪問した際、サウジ王家は各スタッフにお土産をもたせた。アクセルロッドが緑色のワニ皮のブリーフケースを開けると、宝石の詰め合わせやネックレス、イヤリング、時計なんかが詰まっていた。数十万ドルはするだろうという代物だった。でも国務省のプロトコルに従ってこれらのお土産は返却された。ジャレットは”Aww, can’t we keep a few?”と冗談を飛ばした
まぁ、細かいですね。自分用メモですが。どうでもいい話ですが、個人的には、いちいちジョン・エドワーズがディスられているのが気になります。奥さんも含めて、かなり悪い印象の人物として描かれています。おそらくはアクセルロッドさん的に、ここには駆けないようなすごく嫌な思いをした経験があるのでしょう。そうじゃなかったとしたら、エドワーズ的には「そんなに書かなくてもいいじゃん」っていう気分になると思います。あと、オバマとバイデンは良好な関係を維持しているみたいです。お互いにお互いを尊敬しあっているような記述がそこかしこに出てきます。エマニュエルもとびきり優秀で忠誠心のある人物として描かれている。ジャレットはミシェル・オバマとの距離の近さから煙たがられているような描写があります。
で、本の最終盤はアクセルロッドさんによるオバマ評になります。それによると、オバマは単なる理想主義者とみられがちだけれど、実際には理想と現実のバランスをとれる志が高く有能な政治家だとのこと。金融危機の際に巨大金融機関を救済したのも、GMなんかの自動車会社を支援したのも、オバマの理想からは離れているけれど現実を見据えて決断したんだということです。そのうえでオバマケアなんかではしっかりと理想を追求する。
ただし政治オタクとして生きてきたアクセルロッドさん的には、政治を上手く機能させるには”earmark”的な政治手法も必要だという思いもあるようです。大統領には議会を動かすツールはほとんどなく、議会の指導部は自分たちの目的を達成するために動かなければならない事情がある。そこで議会にearmarkの機会を与えているというのは政治的な知恵だというわけです。アクセルロッドさんは、そうした政治の仕組みがないままに、earmarkなシステムを否定してしまうことの有効性を確信するほど若くはないとしています。
あと、オバマが理想主義の立場をとったときの交渉力の弱さというのも指摘されています。オバマはオバマケアについて議会に行動を促そうとしているとき、「彼らは何を恐れているんだ」と言うわけですが、アクセルロッドさんにすれば「次の選挙で負けることに決まっているだろう」と言いたくなるわけです。アクセルロッドさんは”Obama has limited patience or understanding for officeholders whose concerns are more parochial----which would include most of Congress and many world leaders”としています。オバマは交渉相手に大胆に行動することが彼らの義務であるだけでなく、政治的な利益にもかなうことだと説教をたれて、熟練の政治家たちを怒らせることが何度かあったそうです。アクセルロッドさんは”Whether it’s John Boehner or Bibi Netanyahu, few practiced politicians appreciate being lectured on where their political self-interest lies ”として、こうしたオバマの態度はオバマのネゴシエイターとしての力量不足を示しているとします。そこをバイデンがフォローしていたとも付け加えています。
まぁ、そんなわけで面白い本でした。オバマ論のところも巷間言われているような話ですが、オバマ政権のインサイダーからの発言ということで「やっぱりそうなんだ」って感じだと思います。確かに金融危機はうまく乗り切って景気は良くなったし、オバマケアも実現したんだけれど、もうちょっと政治に対する理解があれば、もっと充実した8年間になったのかもしれません。超党派の政治を実現すると訴えた割には、オバマ政権下で党派対立が深まったようにみえるのは何とも残念な結果なような気もします。
あと、バイデンが退任後に回想録を書いたら絶対に読む。失言癖のある政治家らしい政治家だけに面白そう。
2015年2月13日金曜日
Please Stop Helping Us
“Please Stop Helping Us: How Liberals Make It Harder for Blacks to Succeed”という本を読みました。ウォールストリート・ジャーナル紙の論説担当であるJason Reilyさんが黒人の生活がいつまでたっても改善しない理由を論じた本です。ライリーさん自身も黒人。2014年6月発売。200ページ足らずの本なので、ちゃっちゃと読めます。
米国で公民権法が成立したのは50年以上前の1964年。2008年の大統領選挙では初めての黒人大統領が誕生した。にも関わらず、黒人のおかれた経済状況は白人に比べて極めて悪い。失業率は一貫して白人の2倍の水準にあるし、貧困率も高い。リベラル派は経済上の理由で十分な教育を受けられない黒人は、安い賃金の仕事にしかつけず、貧困の連鎖が起きているとして、黒人や黒人が多い貧困層へのサポートが必要だとするわけです。
一方、ライリーさんはこうした現状の原因は政府が続けて来たリベラルな政策にあるとします。最低賃金引き上げのせいで、黒人に多いスキルが十分でない労働者向けの仕事が減るし、大学が黒人の比率を確保するために基準に満たない黒人学生の入学を認めることで、黒人学生は大学に入ってから自分より優秀な学生に囲まれて勉強するモチベーションを失うし、黒人が逮捕されることが多い薬物犯罪の刑罰を弱めることで黒人社会で薬物取引が助長されるといったことを理由に挙げています。また、オバマ大統領を含めたリベラルな政治家は公立学校の人種比率を維持することを理由として、私立学校に通うためのバウチャー制度に反対したりするけど、バウチャー制度を求めているのは、レベルの低い公立学校の学区に住んでいる黒人家庭だったりするわけです。ライリーさんはこうした現状を統計数値を引用しながら説明しています。
で、どうしてこうしたリベラルな政策がとられるかというと、公民権運動のなごりで一部の黒人が非常に熱心にリベラルな民主党を支持していることが理由だとのこと。黒人の指導者たちもリベラルな政策が黒人のためになっていないということは理屈の上では分かっているはずなのですが、これまで「白人の差別が黒人の苦境を作ってきた」と主張して活動資金を集めてきた手前、路線を変更できない。ライリーさんは「公民権運動は産業化してしまっている」と批判します。リベラル派のバウチャー制度への反対については、米国最大の労組である教職員組合が公立学校を守り、私立学校との競争を回避するために反対しているからだとしています。なるほど。
またライリーさんは、こうした黒人の現状の裏側には「黒人の文化」があるとします。オハイオ州クリーブランド近郊にある、黒人比例が3分1程度の裕福な地域を対象にした1990年代の研究によると、黒人の子供たちは一生懸命勉強することを嫌ったり、簡単な授業を取ったり、テレビばかりみて本を読まなかったりする傾向がある。「最小限の努力で済ませる」という発想や、「成功したり、努力したり、賢くみせることはクールじゃない」「バカっぽいことはキュートだ」「どうせ頑張っても、うまくできない」という認識があるともされている。こうした傾向は医者や弁護士といった裕福な家庭に生まれた黒人生徒にもみられるといいます。黒人の親はめったにPTAに参加せず、小学生向けの追加授業にも子供を行かせない。先生の方も黒人の子供の成績を付ける際にはハードルを低くしているので、子供の方も「どうせ落第しないから勉強しない」という発想になる。
ライリーさん自身も黒人なわけですが、父親の方針で白人が多い地域で住むことが多かったそうです。その結果、ライリーさんはニューヨーク州立大学バッファロー校を卒業して、ジャーナリストになり、今はWSJで社説を担当するまでになった。一方で、子供のころの友達なんかは、似たような経済状況だったにも関わらず、黒人文化にどっぷりと浸かった結果、ロクでもない人生を送ったりしている。ライリーさんの黒人文化批判の背景には、こうした個人的な体験もあるわけです。
つまり、黒人社会に向かっては、黒人大統領が誕生する時代になったんだから、いつまでも自分たちの苦境を白人社会のせいにするんじゃなくて、身なりをきちんとして、自分でしっかり努力することから始めろと呼びかけ、政治家に向かっては、本当に黒人のことを考えているんであればリベラルな政策を止めろと訴えているわけです。ザ・コンサーバティブですね。
人種間の格差解消をねらったリベラルな政策が必ずしも狙った通りの結果が得られていないというのはその通りなんだと思います。黒人の失業率が一貫して白人の2倍で推移しているというのは自分でも調べたことがありますが、何かしらの根深い問題があるんでしょう。また、リベラルな政策が逆に人種間の格差を「拡大させている」というのも、なんかありそうな気がする。ライリーさんは最低賃金はもともと南部からの黒人労働者の流入にさらされた北部の工業地帯で白人の雇用を守るために導入されたと指摘しています。スキルのない労働者が「低賃金でも働きます」という最大の武器を封じられるわけですから、そりゃ失業率も高くなるというわけです。教育バウチャーと組合の関係なんかも、もっと調べてみたいところです。
あと、「勉強嫌い」な黒人文化については実情を良く知っているわけじゃないので、「そういうイメージがあるんだな」というぐらいに解釈しておきます。引用されている研究内容も自身の経験もちょっと昔の話ですから、今でも実際に「勉強嫌い」な黒人文化があるのかどうかは分からないです。こちらで黒人の店員さんの働きぶりをみていると、「優雅」と言いたくなるぐらいゆっくりと動く人もいるのも確かですが、みんながみんなそうだというわけじゃないですからね。もしも本当に「勉強嫌い」な黒人文化があるというのなら、その理由も知りたい。
ちなみに表紙の男性はライリーさんじゃないです。
米国で公民権法が成立したのは50年以上前の1964年。2008年の大統領選挙では初めての黒人大統領が誕生した。にも関わらず、黒人のおかれた経済状況は白人に比べて極めて悪い。失業率は一貫して白人の2倍の水準にあるし、貧困率も高い。リベラル派は経済上の理由で十分な教育を受けられない黒人は、安い賃金の仕事にしかつけず、貧困の連鎖が起きているとして、黒人や黒人が多い貧困層へのサポートが必要だとするわけです。
一方、ライリーさんはこうした現状の原因は政府が続けて来たリベラルな政策にあるとします。最低賃金引き上げのせいで、黒人に多いスキルが十分でない労働者向けの仕事が減るし、大学が黒人の比率を確保するために基準に満たない黒人学生の入学を認めることで、黒人学生は大学に入ってから自分より優秀な学生に囲まれて勉強するモチベーションを失うし、黒人が逮捕されることが多い薬物犯罪の刑罰を弱めることで黒人社会で薬物取引が助長されるといったことを理由に挙げています。また、オバマ大統領を含めたリベラルな政治家は公立学校の人種比率を維持することを理由として、私立学校に通うためのバウチャー制度に反対したりするけど、バウチャー制度を求めているのは、レベルの低い公立学校の学区に住んでいる黒人家庭だったりするわけです。ライリーさんはこうした現状を統計数値を引用しながら説明しています。
で、どうしてこうしたリベラルな政策がとられるかというと、公民権運動のなごりで一部の黒人が非常に熱心にリベラルな民主党を支持していることが理由だとのこと。黒人の指導者たちもリベラルな政策が黒人のためになっていないということは理屈の上では分かっているはずなのですが、これまで「白人の差別が黒人の苦境を作ってきた」と主張して活動資金を集めてきた手前、路線を変更できない。ライリーさんは「公民権運動は産業化してしまっている」と批判します。リベラル派のバウチャー制度への反対については、米国最大の労組である教職員組合が公立学校を守り、私立学校との競争を回避するために反対しているからだとしています。なるほど。
またライリーさんは、こうした黒人の現状の裏側には「黒人の文化」があるとします。オハイオ州クリーブランド近郊にある、黒人比例が3分1程度の裕福な地域を対象にした1990年代の研究によると、黒人の子供たちは一生懸命勉強することを嫌ったり、簡単な授業を取ったり、テレビばかりみて本を読まなかったりする傾向がある。「最小限の努力で済ませる」という発想や、「成功したり、努力したり、賢くみせることはクールじゃない」「バカっぽいことはキュートだ」「どうせ頑張っても、うまくできない」という認識があるともされている。こうした傾向は医者や弁護士といった裕福な家庭に生まれた黒人生徒にもみられるといいます。黒人の親はめったにPTAに参加せず、小学生向けの追加授業にも子供を行かせない。先生の方も黒人の子供の成績を付ける際にはハードルを低くしているので、子供の方も「どうせ落第しないから勉強しない」という発想になる。
ライリーさん自身も黒人なわけですが、父親の方針で白人が多い地域で住むことが多かったそうです。その結果、ライリーさんはニューヨーク州立大学バッファロー校を卒業して、ジャーナリストになり、今はWSJで社説を担当するまでになった。一方で、子供のころの友達なんかは、似たような経済状況だったにも関わらず、黒人文化にどっぷりと浸かった結果、ロクでもない人生を送ったりしている。ライリーさんの黒人文化批判の背景には、こうした個人的な体験もあるわけです。
つまり、黒人社会に向かっては、黒人大統領が誕生する時代になったんだから、いつまでも自分たちの苦境を白人社会のせいにするんじゃなくて、身なりをきちんとして、自分でしっかり努力することから始めろと呼びかけ、政治家に向かっては、本当に黒人のことを考えているんであればリベラルな政策を止めろと訴えているわけです。ザ・コンサーバティブですね。
人種間の格差解消をねらったリベラルな政策が必ずしも狙った通りの結果が得られていないというのはその通りなんだと思います。黒人の失業率が一貫して白人の2倍で推移しているというのは自分でも調べたことがありますが、何かしらの根深い問題があるんでしょう。また、リベラルな政策が逆に人種間の格差を「拡大させている」というのも、なんかありそうな気がする。ライリーさんは最低賃金はもともと南部からの黒人労働者の流入にさらされた北部の工業地帯で白人の雇用を守るために導入されたと指摘しています。スキルのない労働者が「低賃金でも働きます」という最大の武器を封じられるわけですから、そりゃ失業率も高くなるというわけです。教育バウチャーと組合の関係なんかも、もっと調べてみたいところです。
あと、「勉強嫌い」な黒人文化については実情を良く知っているわけじゃないので、「そういうイメージがあるんだな」というぐらいに解釈しておきます。引用されている研究内容も自身の経験もちょっと昔の話ですから、今でも実際に「勉強嫌い」な黒人文化があるのかどうかは分からないです。こちらで黒人の店員さんの働きぶりをみていると、「優雅」と言いたくなるぐらいゆっくりと動く人もいるのも確かですが、みんながみんなそうだというわけじゃないですからね。もしも本当に「勉強嫌い」な黒人文化があるというのなら、その理由も知りたい。
ちなみに表紙の男性はライリーさんじゃないです。
2015年1月16日金曜日
U.S.-Chinise Relations: Perilous Past, Pragmatic Present (Second Edition)
“U.S.-Chinise Relations: Perilous Past, Pragmatic Present (Second Edition)”という本を読み終わりました。米国のアジア外交の研究者である、ジョージ・ワシントン大学のロバート・サター教授の本です。1968年~2001年までは議会調査局とかCIAとか国務省とか上院外交委員会で働いていたそうで、知人によると、事実関係を冷静に積み上げていく研究手法で知られている人だそうです。ニクソンの本を読んだときに、1972年のニクソン訪中の話が出てきたんで、米中関係の歴史を学んでおこうかというつもりで読みました。勉強になりました。長いですが。
米中関係の歴史は長いわけですが、19世紀の終わり以降の欧州の列強や日本が中国大陸に進出していたころには、米国は中国で目立った活動をしていませんでした。一部の外交官とかビジネスマンとか宣教師とかは中国にいたけど、欧州や日本のように領土を奪ってしまおうなどと画策するわけではなかった。日本の関東軍が満州事変を起こしたのは1931年ですが、そのころの米国の指導者たちは1929年からの大恐慌への対応に手をとられている時期だった。そのため、「中国の領土的統一を支持する」なんてコメントするに留めて、積極的に中国の見方をするわけでもなく、列強と一緒に中国大陸で領土を分捕ろうとするわけでもなかった。内向きだったんですね。
で、1941年の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、米国の中国大陸での存在感も増していく。米国は中国での共産党と国民党の対立については国民党を支持する。共産党はソ連とつながっているわけだし、そもそも共産党軍ってそんなに強くないんじゃないのという見立てもあった。これに対して共産党内では「国民党を支持する米国はやっぱり悪い国だな」という印象が強まる。その後、米国の見立てが外れるかたちで、国共内戦は共産党の勝利で終結。共産党は1949年の中華人民共和国建国後もソ連と連携を続け、中国と米国は対立の道に進んでいく。冷戦の始まりです。
米国は冷戦期の最初のころ、中国を封じ込めようとした。1954年には台湾との間で相互防衛条約を締結して、台湾危機が起きる。ただし中国はスターリン死後のソ連が米中の対立に巻き込まれることに慎重になっていったこともあり、米国に対して強硬な態度をとれるような状態でもなかった。このため台湾危機は収束に向かいます。また中国とソ連の間では路線対立が激しくなって、ソ連が1960年に中国への援助を停止したり、中国が1962年のキューバ危機でソ連が米国との対決を避けたことを批判するといった応酬もあった。当時はソ連と中国の間では国境問題もあったそうです。そんななかで1972年のニクソン訪中が実現します。
ニクソン政権がどのような判断で中国との国交回復に向かったかもよく分からない。というのも多くの資料が非公開となっているうえ、関係者の証言が事実と食い違っていたりするんだそうです。ただし米国はベトナム戦争の失敗とソ連のアジアなどでの影響力拡大を懸念して、中国との関係強化を図ろうとしていたことははっきりしているし、ニクソンが米中関係の改善を米国内での支持固めに利用して、1972年の再選を確実にしようとしたことも明らか。実際、ニクソンの判断は国内で支持された。
またニクソン訪中のころ、中国側でどのような意志決定があったのかも不明だそうですが、文化大革命を生き延びた葉剣英が毛沢東に対して、米国との関係強化でソ連の脅威に対応するよう助言していたことは分かっている。1970年代はソ連が中ソ国境に核ミサイルを配置したり、中国沿岸での海軍活動を強化したり、ベトナムでの軍事的プレゼンスを強めていたりした時期。ニクソン政権やフォード政権がソ連とのデタントに向かっていることに中国は不満を抱いていたという状況だった。
で、その後、米中間で国交正常化に向けた協議が続けられた。カーター政権下の1978年に発表された米中共同声明は、米中の国交を樹立するとともに、米国は中華人民共和国が正式な中国政府で、台湾は中国の一部であることを認め、台湾との国交や防衛条約を終わらせるというものだった。一方で、米国は台湾への武器供与を続けるともしている。ただ、カーターとブレジンスキー補佐官は中国との交渉を秘密裏に進めており、共同宣言の内容には議会からは、「台湾との国交を断絶する必要はないじゃないか」といった強い批判が出た。で、議会は1979年に台湾関係法(Taiwan Relation Act)を通し、カーターもこれに署名する。台湾関係法はもともとカーター政権主導の法案だったが、議会が武器供与や経済関係や人権や議会による監視や武力行使への反対といった内容を付け加えた。
ソ連が1979年にアフガンに侵攻して米ソ間のデタントが崩壊すると、中国はソ連が米国と仲良くなって、余裕をもって中国にプレシャーをかけるという事態を心配しなくてもよくなった。で、1981~82年ごろには、ソ連と関係を改善して、米国に厳しい態度を取るという方向性が模索された。一方、レーガンは1980年の大統領選挙戦でカーターの台湾政策を批判し、当選後も基本的には台湾関係法に軸足を置いた対中国外交をとるんだと主張した。しかし実際には、ヘイグ国務長官は米中関係を重視し、台湾への武器供与に反対したりした。1982年8月の第三次米中共同声明では、米国は台湾への武器供与を段階的に減らし、中国は台湾との平和的な統一を目指すとされた。共同声明は玉虫色の内容で、レーガン政権はその後も台湾へのサポートを続けたんだけど、ヘイグ国務長官時代は対中融和路線が強かったということです。
ただ、共同声明発表直前に就任したシュルツ国務長官は、ポール・ウォルフォビッツ、リチャード・アーミテージらを起用して対中強硬外交に転じ、日本や他の東アジア諸国との関係強化を重視していく。
シュルツらが方針を転換した理由には、
○中国が米ソデタント崩壊後に米国に厳しい態度をとるようになったのをみて、中国は米国と協力する気がないのだと見切りをつけた
○中国は国内経済の改革に忙しくて、東アジアで無茶をすることはないとの判断もあった
○レーガン政権は軍事力を強化したので、中国なしでソ連と対決することへの自信が出ていた
○中曽根内閣下の日本との同盟関係強化が進んでいた
なんていうものがあったそうです。こうした米国の強硬な態度をみて、中国は米国に厳しい態度をとる方向性を改めて米国との関係強化に乗り出し、台湾のことでやかましく言うのを控えるようになる。中国は経済成長のためには欧米との関係強化が重要だという事情もあった。レーガンが1984年に訪中した際には温かく迎えられた。
で、1989年に天安門事件が起きる。この結果、米国の中国に対する印象は大幅に悪化した。さらに1991年にはソ連が崩壊。米国がソ連への対抗のために中国と連携する必要は薄れる。一方で台湾では民主化が進んでいて、米国内で台湾の人気が高まる。米中関係にとって良い材料がなくなった時期です。それでも父ブッシュは中国との現実的な関係維持を図りますが、議会から弱腰批判を受けて、1992年の再選に失敗していまいます。
一方の中国は国内の安定化に力を注ぎつつ、米国など西側が共産党体制や台湾、チベット、香港などの問題に介入することを批判した。ただ、鄧小平が1992年に南巡講和を行って、1993年からの経済成長が始まると、米国もそれに注目するようになる。中国も経済成長のためには米国との決定的な対立は避ける方針をとる。
1993年に就任したクリントンは中国の人権問題と米中貿易をリンクさせる姿勢をとって支持されたが、議会や産業界からは反発が強まった。その結果、クリントンは1994年に人権問題と米中貿易のリンクを終わらせる。一方で米国内の台湾支持派は台湾の李登輝総統が私人として米国を訪問するよう認めるよう要求。米政府はビザ発行を認めない方針を示したが、その後、クリントンが訪問を容認し、1995年に李登輝の訪問が実現した。これに反発する中国が台湾海峡で大規模な軍事演習を行い、クリントンは空母を同海域に派遣し、第三次台湾海峡危機に至った。でも、クリントンとしても決定的な対立は避けたいので、1997年と1998年に米中首脳会談がもたれ、1999年に中国がWTOに加盟することが承認される。クリントンは、中国に対するPermanent Normal Trade Relations(PNTR)を認める法律が2000年に成立することも確約。大統領が議会に諮ることなく、最恵国待遇が毎年更新されることになった。このあたりの米国の対応は腰が定まっていない感じです。
一方の中国側では1999年に米国がユーゴスラビアの首都、ベオグラードで中国大使館を誤爆したことへの反発が出たが、やはり米国との対立は避ける方針が採られた。米国は世界で唯一の超大国で、米国との関係維持は中国の経済発展にとって不可欠。観光や日本、南シナ海、台湾などに影響力がある米国との良好な関係を維持せねばならないとの判断だった。
2001年に就任した子ブッシュは対中関係よりも日本などとの関係を重視したうえ、ロシアやインドとも関係を強化しようとした。中国に対しては人権や台湾の問題を積極的に取り上げたし、中国が大量破壊兵器を拡散させたとして経済制裁も打ち出した。シュルツ国務長官のもとで働いたアーミテージが国務次官補になったことは偶然ではない。このため2001年4月に南シナ海上空で米軍機と中国軍の戦闘機が衝突する事件(海南島事件)が起きた際は米中関係が悪化すると予想された。でも、双方は冷静に対応し、この時期の米中関係は良好だった。もちろん2001年9月の米中枢同時多発テロで中国の重要性が薄れたことも要因です。また中国が政権移行期前の国内問題が難しい時期にあったことも影響している。しかしサターさんは、子ブッシュ政権が中国に対する厳しい姿勢を打ち出していたことが最も重要な要因だとします。
良好な関係を築いた米中は北朝鮮の核問題で連携し、子ブッシュは台湾の陳水扁総統に独立に向けたステップを採らないように戒めた。一方では、中国の経済発展に伴って米国内には、中国との貿易赤字、知的財産権の取扱い、為替レートの水準、中国による米国債購入、中国によるユノカル買収なんかの問題が意識されるようになった。2006年の中間選挙で民主党が勝利し、議会が子ブッシュ政権に対中政策の変更を迫るとの観測もあった。でも、子ブッシュ政権は中国を為替操作国と認定することを拒否。中国の人権問題に対する懸念も、中国でのビジネスチャンスへの期待で相殺された。
2006年ごろの中国の要人発言や文書にみられる外交方針は、
○国際社会で超大国を目指す
○中国の経済発展の基盤となる安定的な外交環境を追及する
○中国の発展を阻害するような国際的な公約は避ける
○中国の国内外での成功は中国に応分の責任を求める国際社会との緊密な関係にかかっていることを認識する
といったようなものだったそうです。
2009年に発足したオバマ政権はブッシュ政権の対中政策から大きな変化をみせていない。大統領選の最中でも、最近の大統領選挙ではめずらしく対中政策を争点にしなかった。オバマの外交方針は、経済危機とか気候変動、核拡散、テロとかいったグローバルな問題に対応するため、中国も含めた国際社会全体と協調するというものです。
ただ、中国はオバマの期待に応えていない。国際的な責任を果たすことは中国の経済発展を損なうとの懸念があるためだそうです。それどころか中国は2009年から2010年にかけて、攻撃的な行動をとるようになる。南シナ海に哨戒船を出したり、EEZ内の航行の自由を制限できるんだと主張したり、黄海での米韓軍事演習に反対したり、台湾への武器供与やオバマとダライラマとの面会にこれまで以上に反発したり、米国債への投資をやめて決済通貨でもドルを減らすと言ったり、尖閣諸島が日米安保条約の対象となっているとの見解に激しく反発したりした。こうした態度はアジア各国の中国への警戒感を強め、米国への期待を高めることになる。
一方でオバマ政権は中国の軍事力増強に対して軍事的な対応をとる用意があることを表明し、北朝鮮の問題は米国に対する直接的な脅威だとして中国に対応を求めた。2011年1月に胡錦濤国家主席が訪米した際には、中国からの米国批判は影を潜めていた。中国は北朝鮮に挑発をやめさせ、イランへの制裁緩和を求めず、人民元の切り上げに応じ、2010年12月のカンクンでのCOP16では気候変動問題で協力的になった。
またオバマ政権は2011年にアジア重視戦略を打ち出して、アジア太平洋地域で中国と影響力を競い合う姿勢を示すとともに、中国との関係強化も重要であるとの立場を示す。しかしこれに対しては、一度は攻撃的な態度を改めたかにみえた中国で、再び米国に対してより強硬な立場をとるべきだとのムードが盛り上がる。2012年から2013年にかけて、南シナ海で中国漁船がフィリピン当局に拿捕されたことを機に、南シナ海での活動を強化し、九断線に基づく領海の主張をしたり、尖閣諸島にかんする論戦を展開したりした。中国はこうした強硬路線は成功したとみなしている。
まぁ、ここまでで半分ぐらいです。大体の流れはあたっているはずです。間違いがないという自信はありませんが。
サターさんはこの後、米中関係の行く末について考察を進めますが、結論としては「楽観視できるものではないので、気をつけてウォッチしていかなきゃいけないよね」っていうことでした。
こうやって米中関係の歴史を振り返ってみると、米中関係っていうのは台湾問題がキモであることがよく分かります。サターさんは「米中国交正常化の歴史は、米国が対中関係から利益を得ることと引き替えに、米国と台湾の関係を弱める方向で譲歩していくことだった」としています。2008年に台湾で馬英休総統が就任して親中国路線をとっているので、現在のところは台湾をめぐる米中の対立は大きくなっていないですが、台湾で政権交代があったりして独立路線に切り替わったりすると、米中対立に火がつく可能性がある。
あと、サターさんはレーガン政権下のシュルツ国務長官時代や子ブッシュ政権下での対中強硬路線が中国からの融和を引き出したという点を強く主張しています。サターさん自身が「他にもいろんな見方があるけれど、私はこう思う」というかたちで書いているので、異論があることは間違いないのですが、中国に対して毅然とした態度を取らねばならないぞという立場の人たちはこうした歴史上の経緯を論拠にしているんだなと思った次第です。
サターさんは米国は中国を国際関係のロープで縛り付けて、勝手な行動を取らせないようにする「ガリバー戦略」は上手く機能しているとする一方で、相互不信に基づいたものであるという弱みはあると指摘します。中国が今後も友好的な態度を維持するかどうかは不明。中国は成熟した大人の国になったとみる向きもあるが、中国の指導者はしばしば揺らぎやすく、予想外の動きをみせるとのこと。
中国の経済力が米国を上回る時代になれば、中国を国際関係のロープで縛り付けるどころか、中国が米国などを国際関係のロープで縛り付けるという状態にもなったりするんでしょうか。台湾とか共産党一党支配とかに文句を言わなければ、めったなことは起こらないのかもしれませんが、中国の南シナ海とか東シナ海とかでの領有権の主張をみたりすると、あんまりいい予感はしないですよね。
米中関係の歴史は長いわけですが、19世紀の終わり以降の欧州の列強や日本が中国大陸に進出していたころには、米国は中国で目立った活動をしていませんでした。一部の外交官とかビジネスマンとか宣教師とかは中国にいたけど、欧州や日本のように領土を奪ってしまおうなどと画策するわけではなかった。日本の関東軍が満州事変を起こしたのは1931年ですが、そのころの米国の指導者たちは1929年からの大恐慌への対応に手をとられている時期だった。そのため、「中国の領土的統一を支持する」なんてコメントするに留めて、積極的に中国の見方をするわけでもなく、列強と一緒に中国大陸で領土を分捕ろうとするわけでもなかった。内向きだったんですね。
で、1941年の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、米国の中国大陸での存在感も増していく。米国は中国での共産党と国民党の対立については国民党を支持する。共産党はソ連とつながっているわけだし、そもそも共産党軍ってそんなに強くないんじゃないのという見立てもあった。これに対して共産党内では「国民党を支持する米国はやっぱり悪い国だな」という印象が強まる。その後、米国の見立てが外れるかたちで、国共内戦は共産党の勝利で終結。共産党は1949年の中華人民共和国建国後もソ連と連携を続け、中国と米国は対立の道に進んでいく。冷戦の始まりです。
米国は冷戦期の最初のころ、中国を封じ込めようとした。1954年には台湾との間で相互防衛条約を締結して、台湾危機が起きる。ただし中国はスターリン死後のソ連が米中の対立に巻き込まれることに慎重になっていったこともあり、米国に対して強硬な態度をとれるような状態でもなかった。このため台湾危機は収束に向かいます。また中国とソ連の間では路線対立が激しくなって、ソ連が1960年に中国への援助を停止したり、中国が1962年のキューバ危機でソ連が米国との対決を避けたことを批判するといった応酬もあった。当時はソ連と中国の間では国境問題もあったそうです。そんななかで1972年のニクソン訪中が実現します。
ニクソン政権がどのような判断で中国との国交回復に向かったかもよく分からない。というのも多くの資料が非公開となっているうえ、関係者の証言が事実と食い違っていたりするんだそうです。ただし米国はベトナム戦争の失敗とソ連のアジアなどでの影響力拡大を懸念して、中国との関係強化を図ろうとしていたことははっきりしているし、ニクソンが米中関係の改善を米国内での支持固めに利用して、1972年の再選を確実にしようとしたことも明らか。実際、ニクソンの判断は国内で支持された。
またニクソン訪中のころ、中国側でどのような意志決定があったのかも不明だそうですが、文化大革命を生き延びた葉剣英が毛沢東に対して、米国との関係強化でソ連の脅威に対応するよう助言していたことは分かっている。1970年代はソ連が中ソ国境に核ミサイルを配置したり、中国沿岸での海軍活動を強化したり、ベトナムでの軍事的プレゼンスを強めていたりした時期。ニクソン政権やフォード政権がソ連とのデタントに向かっていることに中国は不満を抱いていたという状況だった。
で、その後、米中間で国交正常化に向けた協議が続けられた。カーター政権下の1978年に発表された米中共同声明は、米中の国交を樹立するとともに、米国は中華人民共和国が正式な中国政府で、台湾は中国の一部であることを認め、台湾との国交や防衛条約を終わらせるというものだった。一方で、米国は台湾への武器供与を続けるともしている。ただ、カーターとブレジンスキー補佐官は中国との交渉を秘密裏に進めており、共同宣言の内容には議会からは、「台湾との国交を断絶する必要はないじゃないか」といった強い批判が出た。で、議会は1979年に台湾関係法(Taiwan Relation Act)を通し、カーターもこれに署名する。台湾関係法はもともとカーター政権主導の法案だったが、議会が武器供与や経済関係や人権や議会による監視や武力行使への反対といった内容を付け加えた。
ソ連が1979年にアフガンに侵攻して米ソ間のデタントが崩壊すると、中国はソ連が米国と仲良くなって、余裕をもって中国にプレシャーをかけるという事態を心配しなくてもよくなった。で、1981~82年ごろには、ソ連と関係を改善して、米国に厳しい態度を取るという方向性が模索された。一方、レーガンは1980年の大統領選挙戦でカーターの台湾政策を批判し、当選後も基本的には台湾関係法に軸足を置いた対中国外交をとるんだと主張した。しかし実際には、ヘイグ国務長官は米中関係を重視し、台湾への武器供与に反対したりした。1982年8月の第三次米中共同声明では、米国は台湾への武器供与を段階的に減らし、中国は台湾との平和的な統一を目指すとされた。共同声明は玉虫色の内容で、レーガン政権はその後も台湾へのサポートを続けたんだけど、ヘイグ国務長官時代は対中融和路線が強かったということです。
ただ、共同声明発表直前に就任したシュルツ国務長官は、ポール・ウォルフォビッツ、リチャード・アーミテージらを起用して対中強硬外交に転じ、日本や他の東アジア諸国との関係強化を重視していく。
シュルツらが方針を転換した理由には、
○中国が米ソデタント崩壊後に米国に厳しい態度をとるようになったのをみて、中国は米国と協力する気がないのだと見切りをつけた
○中国は国内経済の改革に忙しくて、東アジアで無茶をすることはないとの判断もあった
○レーガン政権は軍事力を強化したので、中国なしでソ連と対決することへの自信が出ていた
○中曽根内閣下の日本との同盟関係強化が進んでいた
なんていうものがあったそうです。こうした米国の強硬な態度をみて、中国は米国に厳しい態度をとる方向性を改めて米国との関係強化に乗り出し、台湾のことでやかましく言うのを控えるようになる。中国は経済成長のためには欧米との関係強化が重要だという事情もあった。レーガンが1984年に訪中した際には温かく迎えられた。
で、1989年に天安門事件が起きる。この結果、米国の中国に対する印象は大幅に悪化した。さらに1991年にはソ連が崩壊。米国がソ連への対抗のために中国と連携する必要は薄れる。一方で台湾では民主化が進んでいて、米国内で台湾の人気が高まる。米中関係にとって良い材料がなくなった時期です。それでも父ブッシュは中国との現実的な関係維持を図りますが、議会から弱腰批判を受けて、1992年の再選に失敗していまいます。
一方の中国は国内の安定化に力を注ぎつつ、米国など西側が共産党体制や台湾、チベット、香港などの問題に介入することを批判した。ただ、鄧小平が1992年に南巡講和を行って、1993年からの経済成長が始まると、米国もそれに注目するようになる。中国も経済成長のためには米国との決定的な対立は避ける方針をとる。
1993年に就任したクリントンは中国の人権問題と米中貿易をリンクさせる姿勢をとって支持されたが、議会や産業界からは反発が強まった。その結果、クリントンは1994年に人権問題と米中貿易のリンクを終わらせる。一方で米国内の台湾支持派は台湾の李登輝総統が私人として米国を訪問するよう認めるよう要求。米政府はビザ発行を認めない方針を示したが、その後、クリントンが訪問を容認し、1995年に李登輝の訪問が実現した。これに反発する中国が台湾海峡で大規模な軍事演習を行い、クリントンは空母を同海域に派遣し、第三次台湾海峡危機に至った。でも、クリントンとしても決定的な対立は避けたいので、1997年と1998年に米中首脳会談がもたれ、1999年に中国がWTOに加盟することが承認される。クリントンは、中国に対するPermanent Normal Trade Relations(PNTR)を認める法律が2000年に成立することも確約。大統領が議会に諮ることなく、最恵国待遇が毎年更新されることになった。このあたりの米国の対応は腰が定まっていない感じです。
一方の中国側では1999年に米国がユーゴスラビアの首都、ベオグラードで中国大使館を誤爆したことへの反発が出たが、やはり米国との対立は避ける方針が採られた。米国は世界で唯一の超大国で、米国との関係維持は中国の経済発展にとって不可欠。観光や日本、南シナ海、台湾などに影響力がある米国との良好な関係を維持せねばならないとの判断だった。
2001年に就任した子ブッシュは対中関係よりも日本などとの関係を重視したうえ、ロシアやインドとも関係を強化しようとした。中国に対しては人権や台湾の問題を積極的に取り上げたし、中国が大量破壊兵器を拡散させたとして経済制裁も打ち出した。シュルツ国務長官のもとで働いたアーミテージが国務次官補になったことは偶然ではない。このため2001年4月に南シナ海上空で米軍機と中国軍の戦闘機が衝突する事件(海南島事件)が起きた際は米中関係が悪化すると予想された。でも、双方は冷静に対応し、この時期の米中関係は良好だった。もちろん2001年9月の米中枢同時多発テロで中国の重要性が薄れたことも要因です。また中国が政権移行期前の国内問題が難しい時期にあったことも影響している。しかしサターさんは、子ブッシュ政権が中国に対する厳しい姿勢を打ち出していたことが最も重要な要因だとします。
良好な関係を築いた米中は北朝鮮の核問題で連携し、子ブッシュは台湾の陳水扁総統に独立に向けたステップを採らないように戒めた。一方では、中国の経済発展に伴って米国内には、中国との貿易赤字、知的財産権の取扱い、為替レートの水準、中国による米国債購入、中国によるユノカル買収なんかの問題が意識されるようになった。2006年の中間選挙で民主党が勝利し、議会が子ブッシュ政権に対中政策の変更を迫るとの観測もあった。でも、子ブッシュ政権は中国を為替操作国と認定することを拒否。中国の人権問題に対する懸念も、中国でのビジネスチャンスへの期待で相殺された。
2006年ごろの中国の要人発言や文書にみられる外交方針は、
○国際社会で超大国を目指す
○中国の経済発展の基盤となる安定的な外交環境を追及する
○中国の発展を阻害するような国際的な公約は避ける
○中国の国内外での成功は中国に応分の責任を求める国際社会との緊密な関係にかかっていることを認識する
といったようなものだったそうです。
2009年に発足したオバマ政権はブッシュ政権の対中政策から大きな変化をみせていない。大統領選の最中でも、最近の大統領選挙ではめずらしく対中政策を争点にしなかった。オバマの外交方針は、経済危機とか気候変動、核拡散、テロとかいったグローバルな問題に対応するため、中国も含めた国際社会全体と協調するというものです。
ただ、中国はオバマの期待に応えていない。国際的な責任を果たすことは中国の経済発展を損なうとの懸念があるためだそうです。それどころか中国は2009年から2010年にかけて、攻撃的な行動をとるようになる。南シナ海に哨戒船を出したり、EEZ内の航行の自由を制限できるんだと主張したり、黄海での米韓軍事演習に反対したり、台湾への武器供与やオバマとダライラマとの面会にこれまで以上に反発したり、米国債への投資をやめて決済通貨でもドルを減らすと言ったり、尖閣諸島が日米安保条約の対象となっているとの見解に激しく反発したりした。こうした態度はアジア各国の中国への警戒感を強め、米国への期待を高めることになる。
一方でオバマ政権は中国の軍事力増強に対して軍事的な対応をとる用意があることを表明し、北朝鮮の問題は米国に対する直接的な脅威だとして中国に対応を求めた。2011年1月に胡錦濤国家主席が訪米した際には、中国からの米国批判は影を潜めていた。中国は北朝鮮に挑発をやめさせ、イランへの制裁緩和を求めず、人民元の切り上げに応じ、2010年12月のカンクンでのCOP16では気候変動問題で協力的になった。
またオバマ政権は2011年にアジア重視戦略を打ち出して、アジア太平洋地域で中国と影響力を競い合う姿勢を示すとともに、中国との関係強化も重要であるとの立場を示す。しかしこれに対しては、一度は攻撃的な態度を改めたかにみえた中国で、再び米国に対してより強硬な立場をとるべきだとのムードが盛り上がる。2012年から2013年にかけて、南シナ海で中国漁船がフィリピン当局に拿捕されたことを機に、南シナ海での活動を強化し、九断線に基づく領海の主張をしたり、尖閣諸島にかんする論戦を展開したりした。中国はこうした強硬路線は成功したとみなしている。
まぁ、ここまでで半分ぐらいです。大体の流れはあたっているはずです。間違いがないという自信はありませんが。
サターさんはこの後、米中関係の行く末について考察を進めますが、結論としては「楽観視できるものではないので、気をつけてウォッチしていかなきゃいけないよね」っていうことでした。
こうやって米中関係の歴史を振り返ってみると、米中関係っていうのは台湾問題がキモであることがよく分かります。サターさんは「米中国交正常化の歴史は、米国が対中関係から利益を得ることと引き替えに、米国と台湾の関係を弱める方向で譲歩していくことだった」としています。2008年に台湾で馬英休総統が就任して親中国路線をとっているので、現在のところは台湾をめぐる米中の対立は大きくなっていないですが、台湾で政権交代があったりして独立路線に切り替わったりすると、米中対立に火がつく可能性がある。
あと、サターさんはレーガン政権下のシュルツ国務長官時代や子ブッシュ政権下での対中強硬路線が中国からの融和を引き出したという点を強く主張しています。サターさん自身が「他にもいろんな見方があるけれど、私はこう思う」というかたちで書いているので、異論があることは間違いないのですが、中国に対して毅然とした態度を取らねばならないぞという立場の人たちはこうした歴史上の経緯を論拠にしているんだなと思った次第です。
サターさんは米国は中国を国際関係のロープで縛り付けて、勝手な行動を取らせないようにする「ガリバー戦略」は上手く機能しているとする一方で、相互不信に基づいたものであるという弱みはあると指摘します。中国が今後も友好的な態度を維持するかどうかは不明。中国は成熟した大人の国になったとみる向きもあるが、中国の指導者はしばしば揺らぎやすく、予想外の動きをみせるとのこと。
中国の経済力が米国を上回る時代になれば、中国を国際関係のロープで縛り付けるどころか、中国が米国などを国際関係のロープで縛り付けるという状態にもなったりするんでしょうか。台湾とか共産党一党支配とかに文句を言わなければ、めったなことは起こらないのかもしれませんが、中国の南シナ海とか東シナ海とかでの領有権の主張をみたりすると、あんまりいい予感はしないですよね。
登録:
投稿 (Atom)