"The Global War on Morris"を読んだ。スティーブ・イスラエル下院議員が書いた小説です。米国の政治家は選挙前に自分をアピールするために出版する自伝的な本を出したりして、私もそうした本を面白がって読んできたわけですが、ワシントンポストの今年5月の記事で「イスラエル議員は政治風刺小説を書くという同僚たちとは違った道をとった」というのをみかけて、読んでみました。2014年末に出版された本です。
面白いかどうかと問われれば面白いですけど、別にそんなに滅茶苦茶面白いというわけでもないです。
ストーリーは2004年の米国が舞台。とにかく周囲ともめごとを起こすのが嫌いな、控えめで大人しいモリス・フェルドスタインという医薬品のセールスマンが、ひょんなことからテロリストとして誤認逮捕されてグアンタナモに収容されるのですが、2009年にオバマ政権が誕生した後で疑いが解かれて釈放されるというもの。こう書くとシリアスな話のようにも思えますが、基本的にはコミカルなタッチで、つまらないジョークを交えながらストーリは進展します。しかもモリスが逮捕されるのは物語が始まってから9割ほど過ぎたところで、ストーリーのほとんどは、いかに対テロ戦争にたずさわる政治家や官僚組織がくだらないもので、米国内に潜むテロリスト集団もつまんない平凡な組織であるかという描写に費やされています。
もうちょっと具体的に書くと、テロ対策の強化を主張するチェイニー副大統領は「2004年の大統領選でブッシュ大統領を再選させるため、大したことのないテロの脅威を過剰に煽って国民の危機感を高めようとしているだけの人物」として描かれます。NSAやらCIAやらの対テロ戦の前線にたつ工作員たちは「巨大な連邦政府のなかのあらゆる官庁のなかに作られた数多の対テロ組織のなかで、なんとかして手柄を挙げようと些細な出来事に目を光らせるつまんない官僚たち」ですし、NSAが情報分析のために開発した巨大コンピューターシステム"NICK"は「的外れな情報と的外れな情報を結びつけて、的外れな警告を発するヘボコンピューター」といった具合です。さらに、米国内に潜むテロリスト集団は「米国内に潜り込んだはいいものの、3年以上も組織からテロ実行の指令は降りず、そのうちアメリカの生活になじんで愛着までもってしまった純粋な人々」となります。そういう人たちの行動がなんとなくからみあった結果、極めて平凡なモリスという男が誤認逮捕されて、グアンタナモに送られてしまう。で、ブッシュ政権がオバマ政権に変わった途端、政府は「やっぱり誤認逮捕だったわ」と認めて釈放される。そんな雰囲気の話です。テロを防止する方も、テロを起こす方も、誰もシリアスになっているわけじゃないのに、ひどい結果が起こってしまうわけです。
終わりの方にこんな文章が出てきます。
"Sure there were a few times when the Feds may have inadvertently spied on the harmless phone conversations of innocent Americans. Few, as in thousands. Or hundreds of thousands. Maybe millions. No one knew. The whole matter was classified. But that was a small price to pay for freedom, wasn't it?"
まぁ、そんな連邦政府内のムードを皮肉っているんだと思います。
ただ、この本は現役の下院議員が書いたとはいえフィクションですからね。「へぇ、そうなんだぁ」と納得するわけにもいきません。しかもバカ売れした本でもないですから、「世の中の連邦政府に対するイメージはこんなもんなんだぁ」と思うわけにもいきません。「ちょっと変わった下院議員もいるんだな」ぐらいの感想ですかね。
2015年8月26日水曜日
2015年8月22日土曜日
太平洋戦争と新聞
「太平洋戦争と新聞」を読んだ。元毎日新聞記者の前坂俊之さんが1989年と1991年に書いた2冊の本をまとめて大幅に修正を加えた本で、満州事変から日中戦争、太平洋戦争、敗戦にいたるまでのメディアの報道ぶりを追っています。主に朝日新聞(東京朝日、大阪朝日)と毎日新聞(東京日日、大阪毎日)の論調に重点が置かれていますが、時事新報、福岡日日、信濃毎日などの論調も取り上げられています。面白かったです。
当時は1909年に公布された新聞紙法という法律がありました。そのなかで、政府は新聞の内容が「安寧秩序を紊(みだ)し、又は風俗を害するものと認めた時はその発売頒布を禁止し、必要な場合はこれを差し押さえることができる」という規定があった。この新聞紙法に基づいた発売禁止件数は1931年の満州事変前後から急速に増えます。1926年は251件だったのが、1931年には832件、1932年は2081件、1933年は1531件といった具合です。
政府や軍は事実をまともに公開せずに新聞をミスリードするという手法もとります。例えば、1931年6月に起きた中村震太郎大尉が中国側に射殺された事件も、そもそもは中村大尉が中国人になりすまして外国人の立ち入りが許されていない北部満州で偵察活動をしていところを殺害されたのですが、奉天特務機関はスパイ活動の部分は伏せて中村大尉殺害の事実だけを発表するといった具合です。すると、東京朝日新聞は「耳を割き、鼻をそぐ、暴戻! 手足を切断す 支那兵が鬼畜の振舞い」なんていう風に報じるわけです。こんな風にして、国内世論は「暴支膺懲」のムードが出てくるんですね。
1931年9月18日の満州事変だって、実際は関東軍が中国側から攻撃を仕掛けられたと装って部隊を動かしたわけですが、当時はその謀略の事実は伏せらた。でも当時の新聞社は満州事変の発端の真相には疑問を抱かず、戦闘の現状や見通しの方に注目。新聞社内は「奉天で日支軍衝突!」「原因は支那正規兵の満鉄線爆破」といった至急電を受けて騒然となり、航空機を総動員した速報競争が始まります。連日号外が発行されたほか、特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、約60万人が詰めかけた。また満州事変のニュース映画の公開回数は4002回、聴衆1000万人といった盛り上がりだったそうです。
1932年2月には「爆弾三勇士」のストーリーが報じられます。上海での日本軍との中国側との衝突で、3人の日本軍兵士が爆弾を抱えて敵側に身を投じて鉄条網を破り、日本軍の進路を切り開いたという話で、各新聞は大々的に美談として報じました。「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死 志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した勇士」「世界比ありやこの気魄 点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す 廟行鎮攻撃の三勇士」といった感じですね。新聞社は遺族への弔慰金を募ったり、「三勇士の歌」を公募してイベント化したりして、三人を軍神として祭り上げ、戦時ムードを盛り上げていく。朝日の三勇士の歌には12万4561通、毎日には8万4177通の応募があったそうです。毎日のケースでは、与謝野寛(鉄幹)の作品が入選。日露戦争時に「君死にたまうことなかれ」と歌った与謝野晶子の夫が爆弾三勇士の歌を作ったというわけですね。このエピソードをテーマにした映画が作られたり、文楽にも「肉弾三勇士」が登場したり、「三勇士まげ」という女性の髪型、爆弾チョコレート、肉弾キャラメル、三勇士せんべい、なんていうものまでできた。
ちなみに爆弾三勇士のエピソードの真相は、「上官に命じられた3人が点火した爆弾を置いて帰ってくるつもりが、途中で転んだ。3人は引き返そうとしてが、上官が怒鳴るものだから、改めて爆弾を抱えて鉄条網に向かて爆死した」といったものだという説もあるそうです。なんか、いしいひさいちの漫画っぽいですが、前坂さんは「これが事実なら軍神に祭り上げられた三勇士こそ災難である」としています。
ただ、新聞紙法による発売禁止が増えたということは、それだけ新聞の方も政府や軍の意向に沿わない報道をしようとしていたということでもあります。実際、満州事変前は朝日新聞は軍部の独走を厳しく批判していた。1931年8月の社説では軍部の独走ぶりを「少なくとも国民の納得するような戦争の脅威が、どこからも迫っているわけでもないのに軍部は、いまにも戦争がはじまるかのような宣伝に努めている。今日の軍部はとかく世の平和を欲せざるごとく、自らことあれかしと望んでいるかのように疑われる」としています。満州事変前日の9月17日の社説では「(若槻首相が軍部をコントロールできなければ)徒に退嬰の結果による衰頽か、または猪突主義による顚落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうと確信する」と予言しています。
この反戦の論調が満州事変を境として転換していった理由として、前坂さんは「国家の重大事にあたって新聞として軍部を支持し、国論の統一をはかるのは当然だとするナショナリズム」と「軍部、在郷軍人会、右翼などによる不買運動」を挙げています。満州事変直後に右翼団体、国龍会が大阪朝日の調査部長と接触し、その後の朝日の重役会で満州事変に対する編集方針が転換されたという疑いもあるようです。黒龍会は朝日の村山社長を襲撃したこともある団体ですから、新聞社にとっては脅威。さらに内田の背後には参謀本部があったといいます。
また毎日新聞は朝日新聞以上に満州事変に肯定的で、満州事変は「毎日新聞講演、関東軍主催」なんていう言いぐさもあったそうです。東京日日の社説は「満州に交戦状態 日本は正当防衛」「満州事変の本質 誤れる支那の抗議」「強硬あるのみ 対支折衝の基調」といった具合。「堂々たる我主張 国論一致の表現」「正義の国、日本 非理なる理事会」「我国の覚悟 今日の憂慮は誤りだ」といった具合です。
国際連盟のリットン調査団が1932年10月の報告書で、満州事変を日本による侵略と位置づけた際も各紙の論調は強硬でした。「錯覚、曲弁、認識不足 発表された調査団報告書」(東京朝日)、「認識不足も矛盾のみ」(大阪朝日)、「夢を説く報告書 誇大妄想も甚だし」(東京日日、大阪毎日)、「よしのズイから天井覗き」(読売)、「非礼誣匿たる調査報告」(報知)、「報告書は過去の記録のみ」(時事新報)という感じですから、当時の雰囲気が分かります。
1932年5月の五・一五事件では、東京朝日が犬飼首相を暗殺した青年将校は「純情」の末に事件を起こしたとしたり、犯人の肩を持つような論調を掲げた。読売も事件の背後には失業者があふれている経済の実態があるとして、政治家の責任を取り上げている。前坂さんはこうした踏み込み不足の論調が軍部や右翼を増長させたとしています。一方、大阪朝日や河北新報、東洋経済新報の石橋湛山、福岡日日の菊竹六鼓、信濃毎日の桐生悠々らは軍に否定的な論調で筆を振るいました。福岡日日は右翼などからの不買運動にさらされますが、永江真郷副社長は「正しい主張のために、わが社にもしものことがあったにしてもそれはむしろ光栄だ」と六鼓を励まし、会社がつぶれるかもしれないと不安がる販売担当には「バカなことを言ってはいかん。日本がつぶれるかどうかの問題だ」と一喝したといいます。桐生悠々は信濃毎日が不買運動に屈した後は、個人誌「他山の石」を創刊して、1941年9月にガンで亡くなるまで軍部を批判し続けた。カッコいいですね。
ところがこうした新聞社に対する右翼勢力からの圧力はさらに強くなります。1934年3月には時事新報の武藤山治社長が凶漢に襲われ、死亡します。武藤社長は鐘紡時代の手腕を買われて時事新報の経営をまかされ、政財界の癒着を批判した「番町会を暴く」のキャンペーンを張って、売り上げを伸ばしだしていたころでした。犯人の動機は私怨とされましたが、番町会批判キャンペーンとの関連があるとの疑惑は残りました。またこの年にはヤクザの一員が東京朝日を襲撃する事件も発生。1935年2月には、読売新聞の正力松太郎社長が右翼に襲われて重傷を負います。新聞報道が命がけの時代に入ったわけです。
こうしたなかで1935年には天皇機関説が問題になります。美濃部達吉・東京帝大教授が唱える天皇機関説は、大日本帝国憲法の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という文言を、統治権は法人である国家に属しており、天皇はその最高機関として他の機関と参与・輔弼を得ながら統治権を行使すると解釈するもの。天皇はあくまで国家の一部であって、天皇が自らの意思で何でも出来るわけじゃないんだよということですね。ところが右翼勢力は「日本の国家体制は、万世一系の天皇が天孫降臨の際の天照大神の神勅に基づいて統治することをはっきりとさせるべきだ」という「国体明徴」の立場をとって、美濃部を攻撃します。
美濃部の立場は当時の日本の学会では現実に即した主流の立場でしたが、右翼勢力は時代を逆戻りさせるような議論をふっかけてきたというかたちでした。ところが徳富蘇峰は東京日日のコラムで「記者は如何なる意味においてするも、天皇機関説の味方ではない。いやしくも日本の国史の一頁でも読みたらんには、斯かる意見に与することは絶対に不可能だ」「日本の国民として九十九人迄はおそらく記者と同感であろう」と断じます。東京日日はその後の社説でも「国体明徴に対して何人も異論のないことはいうまでもない。わが国民の心理が一、二の学説によって国体に対する信念に何等動揺を感じていないことは国民の堅い信念であり、その点については一人の疑惑をさしはさむものもない」と書きます。1936年2月には右翼組織の一員が美濃部を拳銃で襲撃。文部省は大学や高校から天皇機関説の抗議や著書を排除し、1937年5月には「国体の本義」を発効して全国の小、中、高、大学に配布しました。「天皇陛下万歳」な雰囲気が教育面からも作られていくわけですね。
さらに1936年には二・二六事件も起きます。皇道派の青年将校20人が率いる反乱軍1400人が首相官邸、内大臣私邸、蔵相私邸などを次々と襲い、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせたという事件です。新聞社では東京朝日も襲われました。内務省は各新聞社の幹部を出頭させて、「当局公表以外は絶対に掲載を禁止する。多少でも侵すものは厳罰を以て報いる」と警告し、ニュースはすべてラジオを通じて発表されるようになります。前坂さんは、「速報性や報道でもラジオに抜かれ、事実は報道禁止で書けず、テロの前に批判も恐ろしくて抑えざるを得ない、という三重苦に陥った」とします。五・一五事件の際には、大阪朝日や福岡日日が軍部に批判的な論調を取りましたが、二・二六事件ではそうした気迫ある論説も後退します。「それまで半死の状態だった言論の自由は完全にトドメを刺された」というわけです。
一方、時事新報は二・二六事件後、3月末までに17本の社説で軍部批判、時局批判を展開したそうです。近藤操社説部長の手によるもので、攻撃の矛先は同業の新聞社にも向けられました。「近年わが国に行わるる政治論は、時局の悪影響を受けて甚だしく歪曲され、軍部官僚に対しては不必要の程度まで阿諛迎合の言を連ね、政党に対しては不当に非難攻撃を浴びせる悪癖がある。(中略)五・一五事件、二・二六事件に於て、何者かに脅かされたる世間の所謂、識者、大言論機関なるものの所論が、一向に当てにならざることは概ね比類である」といった具合です。結局、時事新報は1936年12月25日に廃刊になって、毎日新聞に吸収されます。
面白いといっては何ですが、二・二六事件から時事新報廃刊までの10カ月の間、戒厳司令部からの注意は一回だけ。右翼や軍人団体からの言論脅迫もピタリと止んだそうです。近藤は「当時、言論は事実かなり自由なのに、なぜもっと強く軍部を批判しないかと、筆者は不思議に堪えなかった。要するに社説担当者も新聞経営者も、身辺や事業の安全だけを考えて、軍部の暴走を阻止すべき言論機関の使命を軽視した結果といわれても致し方ない」と回想しています。朝日の緒方竹虎は「自分も大いに書きたかったが、何分大世帯で差し障りが多く、思うにまかせなかった」と言い訳したといいます。
1936年1月には日本電報通信社(電通)と新聞連合社(連合)の合併により、国策通信会社である同盟通信社も発足。巨大通信社の豊富な配信が始まったことを機に、新聞社では合理化が進められ、通信社依存の体質が広がります。ただ、同盟には莫大な交付金とともに、何を目的として報道すべきかという指示書が出されていたため、政府による言論統制が効果的に進むという側面もありました。また政府は7月には内閣情報委員会が発足させ、報道統制を強化しています。
こうした事情を背景にして、1937年7月7日に盧溝橋事件で日中戦争が始まると、新聞は猛然と「暴支膺懲」のキャンペーンを展開して、反中ムードを煽ります。その後、7月29日には陸軍が内務省警保局に新聞・通信各社の代表を集めて、新聞紙法27条の発動について了承を要請。反戦的な記事、日本が好戦的であるという印象を与えるような記事、日本に不利な外国報道の転載、国内の治安を乱すような記事の掲載を禁じるというものでした。
日中開戦後の新聞の競争のポイントは、郷土部隊の活躍を早く伝え、戦死者の氏名と写真を一人でも多く載せることに絞られます。その結果、読売、毎日、朝日の大新聞は大幅に部数を伸ばし、地方紙は危機的な状況に追い込まれます。また、その後、物資に統制がかけられた結果、新聞用紙の不足が発生。1938年4月の国家総動員法の公布、8月の新聞用紙制限令で、新聞同士の自由な競争すらも封じられた。1939年発行の「新聞総覧」で、読売新聞の編集局長は「言論の自由はもとより尊重されねばならぬが、徒に取り締りに反抗し、禁を犯してまでも筆を進めることを自由の極致だと稽(かんが)るのは一つの大きな誤りではなかろうか」と記しています。ダメだこりゃ。
そして1941年12月8日、真珠湾攻撃で日米開戦。東京日日はこの開戦日を当日付紙面でスクープしました。海軍省担当の後藤基治記者が米内光政海相を情報源として書いたそうです。が、日米開戦後は、特高課員が新聞社に常駐するようになり、大本営発表以外の報道は許されなくなります。「我軍に不利なる事項は一般に掲載を禁ず。ただし、戦場の実相を認識せしめ、敵愾心高揚に資すべきものは許可す」との命令も出されました。もう後はイメージ通りの展開で、国民には真実が伝えられないまま敗戦を迎えます。
まぁ、だらだらと書いてきましたが、印象に残るのは1931年の満州事変から、1936年の二・二六事件の間のわずか5年間で、新聞の骨抜き化が一気に進んだということですね。新聞が満州事変が謀略であるという真相をすぐに見抜けなかったのは仕方無いとしても、1932年10月にリットン調査団の報告書が出た段階ではもっと冷静に軍を批判する論調になってもよかったのではないか。すでに1932年2月の段階で爆弾三勇士状態だったわけですから、今更引き返すのは難しかったのかもしれませんが、そこは言い訳にならんですよね。
あと、新聞社のバカな論調が国民に受け入れられた背景には、1929年に米国で起きた金融恐慌の余波を受けた日本経済の不調っぷりもあったんだと思います。新聞がバカな記事を書いたら、景気のいい話題を欲しがっていた国民がバカみたいに買っちゃうもんだから、そりゃ新聞はバカな記事を書き続けるというわけです。そのうちバカが狂気をはらみだして、テロ事件が相次ぐもんですから、バカな新聞はバカであることを止められなくなる。さらにバカが国家の中枢を握るようになっちゃうと、もうバカがバカを量産していくようなもんで、もう日本中がバカになっちゃうわけですよね。満州事変から5年で二・二六事件、さらに5年で真珠湾攻撃、そこから敗戦まで4年。病気の進行は早いです。
現在の日本でも「戦争法案」とかややこしいわけです。国民がしっかりしていないと、新聞のバカな記事を止められなくなるかもしれません。あと、バカなのは誰なのかという問題もあります。日本なのか、米国なのか、中国なのか、ロシアなのか、韓国なのか、北朝鮮なのか、イスラム系テロリストなのか。戦前の日本のように国際協調主義に背中を向けているのは誰なのかっていう風にも言えるかもしれません。まぁ、難しい問題ですけどね。
当時は1909年に公布された新聞紙法という法律がありました。そのなかで、政府は新聞の内容が「安寧秩序を紊(みだ)し、又は風俗を害するものと認めた時はその発売頒布を禁止し、必要な場合はこれを差し押さえることができる」という規定があった。この新聞紙法に基づいた発売禁止件数は1931年の満州事変前後から急速に増えます。1926年は251件だったのが、1931年には832件、1932年は2081件、1933年は1531件といった具合です。
政府や軍は事実をまともに公開せずに新聞をミスリードするという手法もとります。例えば、1931年6月に起きた中村震太郎大尉が中国側に射殺された事件も、そもそもは中村大尉が中国人になりすまして外国人の立ち入りが許されていない北部満州で偵察活動をしていところを殺害されたのですが、奉天特務機関はスパイ活動の部分は伏せて中村大尉殺害の事実だけを発表するといった具合です。すると、東京朝日新聞は「耳を割き、鼻をそぐ、暴戻! 手足を切断す 支那兵が鬼畜の振舞い」なんていう風に報じるわけです。こんな風にして、国内世論は「暴支膺懲」のムードが出てくるんですね。
1931年9月18日の満州事変だって、実際は関東軍が中国側から攻撃を仕掛けられたと装って部隊を動かしたわけですが、当時はその謀略の事実は伏せらた。でも当時の新聞社は満州事変の発端の真相には疑問を抱かず、戦闘の現状や見通しの方に注目。新聞社内は「奉天で日支軍衝突!」「原因は支那正規兵の満鉄線爆破」といった至急電を受けて騒然となり、航空機を総動員した速報競争が始まります。連日号外が発行されたほか、特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、約60万人が詰めかけた。また満州事変のニュース映画の公開回数は4002回、聴衆1000万人といった盛り上がりだったそうです。
1932年2月には「爆弾三勇士」のストーリーが報じられます。上海での日本軍との中国側との衝突で、3人の日本軍兵士が爆弾を抱えて敵側に身を投じて鉄条網を破り、日本軍の進路を切り開いたという話で、各新聞は大々的に美談として報じました。「これぞ真の肉弾! 壮烈無比の爆死 志願して爆弾を身につけ鉄条網を破壊した勇士」「世界比ありやこの気魄 点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す 廟行鎮攻撃の三勇士」といった感じですね。新聞社は遺族への弔慰金を募ったり、「三勇士の歌」を公募してイベント化したりして、三人を軍神として祭り上げ、戦時ムードを盛り上げていく。朝日の三勇士の歌には12万4561通、毎日には8万4177通の応募があったそうです。毎日のケースでは、与謝野寛(鉄幹)の作品が入選。日露戦争時に「君死にたまうことなかれ」と歌った与謝野晶子の夫が爆弾三勇士の歌を作ったというわけですね。このエピソードをテーマにした映画が作られたり、文楽にも「肉弾三勇士」が登場したり、「三勇士まげ」という女性の髪型、爆弾チョコレート、肉弾キャラメル、三勇士せんべい、なんていうものまでできた。
ちなみに爆弾三勇士のエピソードの真相は、「上官に命じられた3人が点火した爆弾を置いて帰ってくるつもりが、途中で転んだ。3人は引き返そうとしてが、上官が怒鳴るものだから、改めて爆弾を抱えて鉄条網に向かて爆死した」といったものだという説もあるそうです。なんか、いしいひさいちの漫画っぽいですが、前坂さんは「これが事実なら軍神に祭り上げられた三勇士こそ災難である」としています。
ただ、新聞紙法による発売禁止が増えたということは、それだけ新聞の方も政府や軍の意向に沿わない報道をしようとしていたということでもあります。実際、満州事変前は朝日新聞は軍部の独走を厳しく批判していた。1931年8月の社説では軍部の独走ぶりを「少なくとも国民の納得するような戦争の脅威が、どこからも迫っているわけでもないのに軍部は、いまにも戦争がはじまるかのような宣伝に努めている。今日の軍部はとかく世の平和を欲せざるごとく、自らことあれかしと望んでいるかのように疑われる」としています。満州事変前日の9月17日の社説では「(若槻首相が軍部をコントロールできなければ)徒に退嬰の結果による衰頽か、または猪突主義による顚落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうと確信する」と予言しています。
この反戦の論調が満州事変を境として転換していった理由として、前坂さんは「国家の重大事にあたって新聞として軍部を支持し、国論の統一をはかるのは当然だとするナショナリズム」と「軍部、在郷軍人会、右翼などによる不買運動」を挙げています。満州事変直後に右翼団体、国龍会が大阪朝日の調査部長と接触し、その後の朝日の重役会で満州事変に対する編集方針が転換されたという疑いもあるようです。黒龍会は朝日の村山社長を襲撃したこともある団体ですから、新聞社にとっては脅威。さらに内田の背後には参謀本部があったといいます。
また毎日新聞は朝日新聞以上に満州事変に肯定的で、満州事変は「毎日新聞講演、関東軍主催」なんていう言いぐさもあったそうです。東京日日の社説は「満州に交戦状態 日本は正当防衛」「満州事変の本質 誤れる支那の抗議」「強硬あるのみ 対支折衝の基調」といった具合。「堂々たる我主張 国論一致の表現」「正義の国、日本 非理なる理事会」「我国の覚悟 今日の憂慮は誤りだ」といった具合です。
国際連盟のリットン調査団が1932年10月の報告書で、満州事変を日本による侵略と位置づけた際も各紙の論調は強硬でした。「錯覚、曲弁、認識不足 発表された調査団報告書」(東京朝日)、「認識不足も矛盾のみ」(大阪朝日)、「夢を説く報告書 誇大妄想も甚だし」(東京日日、大阪毎日)、「よしのズイから天井覗き」(読売)、「非礼誣匿たる調査報告」(報知)、「報告書は過去の記録のみ」(時事新報)という感じですから、当時の雰囲気が分かります。
1932年5月の五・一五事件では、東京朝日が犬飼首相を暗殺した青年将校は「純情」の末に事件を起こしたとしたり、犯人の肩を持つような論調を掲げた。読売も事件の背後には失業者があふれている経済の実態があるとして、政治家の責任を取り上げている。前坂さんはこうした踏み込み不足の論調が軍部や右翼を増長させたとしています。一方、大阪朝日や河北新報、東洋経済新報の石橋湛山、福岡日日の菊竹六鼓、信濃毎日の桐生悠々らは軍に否定的な論調で筆を振るいました。福岡日日は右翼などからの不買運動にさらされますが、永江真郷副社長は「正しい主張のために、わが社にもしものことがあったにしてもそれはむしろ光栄だ」と六鼓を励まし、会社がつぶれるかもしれないと不安がる販売担当には「バカなことを言ってはいかん。日本がつぶれるかどうかの問題だ」と一喝したといいます。桐生悠々は信濃毎日が不買運動に屈した後は、個人誌「他山の石」を創刊して、1941年9月にガンで亡くなるまで軍部を批判し続けた。カッコいいですね。
ところがこうした新聞社に対する右翼勢力からの圧力はさらに強くなります。1934年3月には時事新報の武藤山治社長が凶漢に襲われ、死亡します。武藤社長は鐘紡時代の手腕を買われて時事新報の経営をまかされ、政財界の癒着を批判した「番町会を暴く」のキャンペーンを張って、売り上げを伸ばしだしていたころでした。犯人の動機は私怨とされましたが、番町会批判キャンペーンとの関連があるとの疑惑は残りました。またこの年にはヤクザの一員が東京朝日を襲撃する事件も発生。1935年2月には、読売新聞の正力松太郎社長が右翼に襲われて重傷を負います。新聞報道が命がけの時代に入ったわけです。
こうしたなかで1935年には天皇機関説が問題になります。美濃部達吉・東京帝大教授が唱える天皇機関説は、大日本帝国憲法の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という文言を、統治権は法人である国家に属しており、天皇はその最高機関として他の機関と参与・輔弼を得ながら統治権を行使すると解釈するもの。天皇はあくまで国家の一部であって、天皇が自らの意思で何でも出来るわけじゃないんだよということですね。ところが右翼勢力は「日本の国家体制は、万世一系の天皇が天孫降臨の際の天照大神の神勅に基づいて統治することをはっきりとさせるべきだ」という「国体明徴」の立場をとって、美濃部を攻撃します。
美濃部の立場は当時の日本の学会では現実に即した主流の立場でしたが、右翼勢力は時代を逆戻りさせるような議論をふっかけてきたというかたちでした。ところが徳富蘇峰は東京日日のコラムで「記者は如何なる意味においてするも、天皇機関説の味方ではない。いやしくも日本の国史の一頁でも読みたらんには、斯かる意見に与することは絶対に不可能だ」「日本の国民として九十九人迄はおそらく記者と同感であろう」と断じます。東京日日はその後の社説でも「国体明徴に対して何人も異論のないことはいうまでもない。わが国民の心理が一、二の学説によって国体に対する信念に何等動揺を感じていないことは国民の堅い信念であり、その点については一人の疑惑をさしはさむものもない」と書きます。1936年2月には右翼組織の一員が美濃部を拳銃で襲撃。文部省は大学や高校から天皇機関説の抗議や著書を排除し、1937年5月には「国体の本義」を発効して全国の小、中、高、大学に配布しました。「天皇陛下万歳」な雰囲気が教育面からも作られていくわけですね。
さらに1936年には二・二六事件も起きます。皇道派の青年将校20人が率いる反乱軍1400人が首相官邸、内大臣私邸、蔵相私邸などを次々と襲い、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせたという事件です。新聞社では東京朝日も襲われました。内務省は各新聞社の幹部を出頭させて、「当局公表以外は絶対に掲載を禁止する。多少でも侵すものは厳罰を以て報いる」と警告し、ニュースはすべてラジオを通じて発表されるようになります。前坂さんは、「速報性や報道でもラジオに抜かれ、事実は報道禁止で書けず、テロの前に批判も恐ろしくて抑えざるを得ない、という三重苦に陥った」とします。五・一五事件の際には、大阪朝日や福岡日日が軍部に批判的な論調を取りましたが、二・二六事件ではそうした気迫ある論説も後退します。「それまで半死の状態だった言論の自由は完全にトドメを刺された」というわけです。
一方、時事新報は二・二六事件後、3月末までに17本の社説で軍部批判、時局批判を展開したそうです。近藤操社説部長の手によるもので、攻撃の矛先は同業の新聞社にも向けられました。「近年わが国に行わるる政治論は、時局の悪影響を受けて甚だしく歪曲され、軍部官僚に対しては不必要の程度まで阿諛迎合の言を連ね、政党に対しては不当に非難攻撃を浴びせる悪癖がある。(中略)五・一五事件、二・二六事件に於て、何者かに脅かされたる世間の所謂、識者、大言論機関なるものの所論が、一向に当てにならざることは概ね比類である」といった具合です。結局、時事新報は1936年12月25日に廃刊になって、毎日新聞に吸収されます。
面白いといっては何ですが、二・二六事件から時事新報廃刊までの10カ月の間、戒厳司令部からの注意は一回だけ。右翼や軍人団体からの言論脅迫もピタリと止んだそうです。近藤は「当時、言論は事実かなり自由なのに、なぜもっと強く軍部を批判しないかと、筆者は不思議に堪えなかった。要するに社説担当者も新聞経営者も、身辺や事業の安全だけを考えて、軍部の暴走を阻止すべき言論機関の使命を軽視した結果といわれても致し方ない」と回想しています。朝日の緒方竹虎は「自分も大いに書きたかったが、何分大世帯で差し障りが多く、思うにまかせなかった」と言い訳したといいます。
1936年1月には日本電報通信社(電通)と新聞連合社(連合)の合併により、国策通信会社である同盟通信社も発足。巨大通信社の豊富な配信が始まったことを機に、新聞社では合理化が進められ、通信社依存の体質が広がります。ただ、同盟には莫大な交付金とともに、何を目的として報道すべきかという指示書が出されていたため、政府による言論統制が効果的に進むという側面もありました。また政府は7月には内閣情報委員会が発足させ、報道統制を強化しています。
こうした事情を背景にして、1937年7月7日に盧溝橋事件で日中戦争が始まると、新聞は猛然と「暴支膺懲」のキャンペーンを展開して、反中ムードを煽ります。その後、7月29日には陸軍が内務省警保局に新聞・通信各社の代表を集めて、新聞紙法27条の発動について了承を要請。反戦的な記事、日本が好戦的であるという印象を与えるような記事、日本に不利な外国報道の転載、国内の治安を乱すような記事の掲載を禁じるというものでした。
日中開戦後の新聞の競争のポイントは、郷土部隊の活躍を早く伝え、戦死者の氏名と写真を一人でも多く載せることに絞られます。その結果、読売、毎日、朝日の大新聞は大幅に部数を伸ばし、地方紙は危機的な状況に追い込まれます。また、その後、物資に統制がかけられた結果、新聞用紙の不足が発生。1938年4月の国家総動員法の公布、8月の新聞用紙制限令で、新聞同士の自由な競争すらも封じられた。1939年発行の「新聞総覧」で、読売新聞の編集局長は「言論の自由はもとより尊重されねばならぬが、徒に取り締りに反抗し、禁を犯してまでも筆を進めることを自由の極致だと稽(かんが)るのは一つの大きな誤りではなかろうか」と記しています。ダメだこりゃ。
そして1941年12月8日、真珠湾攻撃で日米開戦。東京日日はこの開戦日を当日付紙面でスクープしました。海軍省担当の後藤基治記者が米内光政海相を情報源として書いたそうです。が、日米開戦後は、特高課員が新聞社に常駐するようになり、大本営発表以外の報道は許されなくなります。「我軍に不利なる事項は一般に掲載を禁ず。ただし、戦場の実相を認識せしめ、敵愾心高揚に資すべきものは許可す」との命令も出されました。もう後はイメージ通りの展開で、国民には真実が伝えられないまま敗戦を迎えます。
まぁ、だらだらと書いてきましたが、印象に残るのは1931年の満州事変から、1936年の二・二六事件の間のわずか5年間で、新聞の骨抜き化が一気に進んだということですね。新聞が満州事変が謀略であるという真相をすぐに見抜けなかったのは仕方無いとしても、1932年10月にリットン調査団の報告書が出た段階ではもっと冷静に軍を批判する論調になってもよかったのではないか。すでに1932年2月の段階で爆弾三勇士状態だったわけですから、今更引き返すのは難しかったのかもしれませんが、そこは言い訳にならんですよね。
あと、新聞社のバカな論調が国民に受け入れられた背景には、1929年に米国で起きた金融恐慌の余波を受けた日本経済の不調っぷりもあったんだと思います。新聞がバカな記事を書いたら、景気のいい話題を欲しがっていた国民がバカみたいに買っちゃうもんだから、そりゃ新聞はバカな記事を書き続けるというわけです。そのうちバカが狂気をはらみだして、テロ事件が相次ぐもんですから、バカな新聞はバカであることを止められなくなる。さらにバカが国家の中枢を握るようになっちゃうと、もうバカがバカを量産していくようなもんで、もう日本中がバカになっちゃうわけですよね。満州事変から5年で二・二六事件、さらに5年で真珠湾攻撃、そこから敗戦まで4年。病気の進行は早いです。
現在の日本でも「戦争法案」とかややこしいわけです。国民がしっかりしていないと、新聞のバカな記事を止められなくなるかもしれません。あと、バカなのは誰なのかという問題もあります。日本なのか、米国なのか、中国なのか、ロシアなのか、韓国なのか、北朝鮮なのか、イスラム系テロリストなのか。戦前の日本のように国際協調主義に背中を向けているのは誰なのかっていう風にも言えるかもしれません。まぁ、難しい問題ですけどね。
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