2015年2月13日金曜日

Please Stop Helping Us

“Please Stop Helping Us: How Liberals Make It Harder for Blacks to Succeed”という本を読みました。ウォールストリート・ジャーナル紙の論説担当であるJason Reilyさんが黒人の生活がいつまでたっても改善しない理由を論じた本です。ライリーさん自身も黒人。2014年6月発売。200ページ足らずの本なので、ちゃっちゃと読めます。

米国で公民権法が成立したのは50年以上前の1964年。2008年の大統領選挙では初めての黒人大統領が誕生した。にも関わらず、黒人のおかれた経済状況は白人に比べて極めて悪い。失業率は一貫して白人の2倍の水準にあるし、貧困率も高い。リベラル派は経済上の理由で十分な教育を受けられない黒人は、安い賃金の仕事にしかつけず、貧困の連鎖が起きているとして、黒人や黒人が多い貧困層へのサポートが必要だとするわけです。

一方、ライリーさんはこうした現状の原因は政府が続けて来たリベラルな政策にあるとします。最低賃金引き上げのせいで、黒人に多いスキルが十分でない労働者向けの仕事が減るし、大学が黒人の比率を確保するために基準に満たない黒人学生の入学を認めることで、黒人学生は大学に入ってから自分より優秀な学生に囲まれて勉強するモチベーションを失うし、黒人が逮捕されることが多い薬物犯罪の刑罰を弱めることで黒人社会で薬物取引が助長されるといったことを理由に挙げています。また、オバマ大統領を含めたリベラルな政治家は公立学校の人種比率を維持することを理由として、私立学校に通うためのバウチャー制度に反対したりするけど、バウチャー制度を求めているのは、レベルの低い公立学校の学区に住んでいる黒人家庭だったりするわけです。ライリーさんはこうした現状を統計数値を引用しながら説明しています。

で、どうしてこうしたリベラルな政策がとられるかというと、公民権運動のなごりで一部の黒人が非常に熱心にリベラルな民主党を支持していることが理由だとのこと。黒人の指導者たちもリベラルな政策が黒人のためになっていないということは理屈の上では分かっているはずなのですが、これまで「白人の差別が黒人の苦境を作ってきた」と主張して活動資金を集めてきた手前、路線を変更できない。ライリーさんは「公民権運動は産業化してしまっている」と批判します。リベラル派のバウチャー制度への反対については、米国最大の労組である教職員組合が公立学校を守り、私立学校との競争を回避するために反対しているからだとしています。なるほど。

またライリーさんは、こうした黒人の現状の裏側には「黒人の文化」があるとします。オハイオ州クリーブランド近郊にある、黒人比例が3分1程度の裕福な地域を対象にした1990年代の研究によると、黒人の子供たちは一生懸命勉強することを嫌ったり、簡単な授業を取ったり、テレビばかりみて本を読まなかったりする傾向がある。「最小限の努力で済ませる」という発想や、「成功したり、努力したり、賢くみせることはクールじゃない」「バカっぽいことはキュートだ」「どうせ頑張っても、うまくできない」という認識があるともされている。こうした傾向は医者や弁護士といった裕福な家庭に生まれた黒人生徒にもみられるといいます。黒人の親はめったにPTAに参加せず、小学生向けの追加授業にも子供を行かせない。先生の方も黒人の子供の成績を付ける際にはハードルを低くしているので、子供の方も「どうせ落第しないから勉強しない」という発想になる。

ライリーさん自身も黒人なわけですが、父親の方針で白人が多い地域で住むことが多かったそうです。その結果、ライリーさんはニューヨーク州立大学バッファロー校を卒業して、ジャーナリストになり、今はWSJで社説を担当するまでになった。一方で、子供のころの友達なんかは、似たような経済状況だったにも関わらず、黒人文化にどっぷりと浸かった結果、ロクでもない人生を送ったりしている。ライリーさんの黒人文化批判の背景には、こうした個人的な体験もあるわけです。

つまり、黒人社会に向かっては、黒人大統領が誕生する時代になったんだから、いつまでも自分たちの苦境を白人社会のせいにするんじゃなくて、身なりをきちんとして、自分でしっかり努力することから始めろと呼びかけ、政治家に向かっては、本当に黒人のことを考えているんであればリベラルな政策を止めろと訴えているわけです。ザ・コンサーバティブですね。

人種間の格差解消をねらったリベラルな政策が必ずしも狙った通りの結果が得られていないというのはその通りなんだと思います。黒人の失業率が一貫して白人の2倍で推移しているというのは自分でも調べたことがありますが、何かしらの根深い問題があるんでしょう。また、リベラルな政策が逆に人種間の格差を「拡大させている」というのも、なんかありそうな気がする。ライリーさんは最低賃金はもともと南部からの黒人労働者の流入にさらされた北部の工業地帯で白人の雇用を守るために導入されたと指摘しています。スキルのない労働者が「低賃金でも働きます」という最大の武器を封じられるわけですから、そりゃ失業率も高くなるというわけです。教育バウチャーと組合の関係なんかも、もっと調べてみたいところです。

あと、「勉強嫌い」な黒人文化については実情を良く知っているわけじゃないので、「そういうイメージがあるんだな」というぐらいに解釈しておきます。引用されている研究内容も自身の経験もちょっと昔の話ですから、今でも実際に「勉強嫌い」な黒人文化があるのかどうかは分からないです。こちらで黒人の店員さんの働きぶりをみていると、「優雅」と言いたくなるぐらいゆっくりと動く人もいるのも確かですが、みんながみんなそうだというわけじゃないですからね。もしも本当に「勉強嫌い」な黒人文化があるというのなら、その理由も知りたい。

ちなみに表紙の男性はライリーさんじゃないです。

2015年1月16日金曜日

U.S.-Chinise Relations: Perilous Past, Pragmatic Present (Second Edition)

“U.S.-Chinise Relations: Perilous Past, Pragmatic Present (Second Edition)”という本を読み終わりました。米国のアジア外交の研究者である、ジョージ・ワシントン大学のロバート・サター教授の本です。1968年~2001年までは議会調査局とかCIAとか国務省とか上院外交委員会で働いていたそうで、知人によると、事実関係を冷静に積み上げていく研究手法で知られている人だそうです。ニクソンの本を読んだときに、1972年のニクソン訪中の話が出てきたんで、米中関係の歴史を学んでおこうかというつもりで読みました。勉強になりました。長いですが。

米中関係の歴史は長いわけですが、19世紀の終わり以降の欧州の列強や日本が中国大陸に進出していたころには、米国は中国で目立った活動をしていませんでした。一部の外交官とかビジネスマンとか宣教師とかは中国にいたけど、欧州や日本のように領土を奪ってしまおうなどと画策するわけではなかった。日本の関東軍が満州事変を起こしたのは1931年ですが、そのころの米国の指導者たちは1929年からの大恐慌への対応に手をとられている時期だった。そのため、「中国の領土的統一を支持する」なんてコメントするに留めて、積極的に中国の見方をするわけでもなく、列強と一緒に中国大陸で領土を分捕ろうとするわけでもなかった。内向きだったんですね。

で、1941年の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、米国の中国大陸での存在感も増していく。米国は中国での共産党と国民党の対立については国民党を支持する。共産党はソ連とつながっているわけだし、そもそも共産党軍ってそんなに強くないんじゃないのという見立てもあった。これに対して共産党内では「国民党を支持する米国はやっぱり悪い国だな」という印象が強まる。その後、米国の見立てが外れるかたちで、国共内戦は共産党の勝利で終結。共産党は1949年の中華人民共和国建国後もソ連と連携を続け、中国と米国は対立の道に進んでいく。冷戦の始まりです。

米国は冷戦期の最初のころ、中国を封じ込めようとした。1954年には台湾との間で相互防衛条約を締結して、台湾危機が起きる。ただし中国はスターリン死後のソ連が米中の対立に巻き込まれることに慎重になっていったこともあり、米国に対して強硬な態度をとれるような状態でもなかった。このため台湾危機は収束に向かいます。また中国とソ連の間では路線対立が激しくなって、ソ連が1960年に中国への援助を停止したり、中国が1962年のキューバ危機でソ連が米国との対決を避けたことを批判するといった応酬もあった。当時はソ連と中国の間では国境問題もあったそうです。そんななかで1972年のニクソン訪中が実現します。

ニクソン政権がどのような判断で中国との国交回復に向かったかもよく分からない。というのも多くの資料が非公開となっているうえ、関係者の証言が事実と食い違っていたりするんだそうです。ただし米国はベトナム戦争の失敗とソ連のアジアなどでの影響力拡大を懸念して、中国との関係強化を図ろうとしていたことははっきりしているし、ニクソンが米中関係の改善を米国内での支持固めに利用して、1972年の再選を確実にしようとしたことも明らか。実際、ニクソンの判断は国内で支持された。

またニクソン訪中のころ、中国側でどのような意志決定があったのかも不明だそうですが、文化大革命を生き延びた葉剣英が毛沢東に対して、米国との関係強化でソ連の脅威に対応するよう助言していたことは分かっている。1970年代はソ連が中ソ国境に核ミサイルを配置したり、中国沿岸での海軍活動を強化したり、ベトナムでの軍事的プレゼンスを強めていたりした時期。ニクソン政権やフォード政権がソ連とのデタントに向かっていることに中国は不満を抱いていたという状況だった。

で、その後、米中間で国交正常化に向けた協議が続けられた。カーター政権下の1978年に発表された米中共同声明は、米中の国交を樹立するとともに、米国は中華人民共和国が正式な中国政府で、台湾は中国の一部であることを認め、台湾との国交や防衛条約を終わらせるというものだった。一方で、米国は台湾への武器供与を続けるともしている。ただ、カーターとブレジンスキー補佐官は中国との交渉を秘密裏に進めており、共同宣言の内容には議会からは、「台湾との国交を断絶する必要はないじゃないか」といった強い批判が出た。で、議会は1979年に台湾関係法(Taiwan Relation Act)を通し、カーターもこれに署名する。台湾関係法はもともとカーター政権主導の法案だったが、議会が武器供与や経済関係や人権や議会による監視や武力行使への反対といった内容を付け加えた。

ソ連が1979年にアフガンに侵攻して米ソ間のデタントが崩壊すると、中国はソ連が米国と仲良くなって、余裕をもって中国にプレシャーをかけるという事態を心配しなくてもよくなった。で、1981~82年ごろには、ソ連と関係を改善して、米国に厳しい態度を取るという方向性が模索された。一方、レーガンは1980年の大統領選挙戦でカーターの台湾政策を批判し、当選後も基本的には台湾関係法に軸足を置いた対中国外交をとるんだと主張した。しかし実際には、ヘイグ国務長官は米中関係を重視し、台湾への武器供与に反対したりした。1982年8月の第三次米中共同声明では、米国は台湾への武器供与を段階的に減らし、中国は台湾との平和的な統一を目指すとされた。共同声明は玉虫色の内容で、レーガン政権はその後も台湾へのサポートを続けたんだけど、ヘイグ国務長官時代は対中融和路線が強かったということです。

ただ、共同声明発表直前に就任したシュルツ国務長官は、ポール・ウォルフォビッツ、リチャード・アーミテージらを起用して対中強硬外交に転じ、日本や他の東アジア諸国との関係強化を重視していく。

シュルツらが方針を転換した理由には、

○中国が米ソデタント崩壊後に米国に厳しい態度をとるようになったのをみて、中国は米国と協力する気がないのだと見切りをつけた
○中国は国内経済の改革に忙しくて、東アジアで無茶をすることはないとの判断もあった
○レーガン政権は軍事力を強化したので、中国なしでソ連と対決することへの自信が出ていた
○中曽根内閣下の日本との同盟関係強化が進んでいた

なんていうものがあったそうです。こうした米国の強硬な態度をみて、中国は米国に厳しい態度をとる方向性を改めて米国との関係強化に乗り出し、台湾のことでやかましく言うのを控えるようになる。中国は経済成長のためには欧米との関係強化が重要だという事情もあった。レーガンが1984年に訪中した際には温かく迎えられた。

で、1989年に天安門事件が起きる。この結果、米国の中国に対する印象は大幅に悪化した。さらに1991年にはソ連が崩壊。米国がソ連への対抗のために中国と連携する必要は薄れる。一方で台湾では民主化が進んでいて、米国内で台湾の人気が高まる。米中関係にとって良い材料がなくなった時期です。それでも父ブッシュは中国との現実的な関係維持を図りますが、議会から弱腰批判を受けて、1992年の再選に失敗していまいます。

一方の中国は国内の安定化に力を注ぎつつ、米国など西側が共産党体制や台湾、チベット、香港などの問題に介入することを批判した。ただ、鄧小平が1992年に南巡講和を行って、1993年からの経済成長が始まると、米国もそれに注目するようになる。中国も経済成長のためには米国との決定的な対立は避ける方針をとる。

1993年に就任したクリントンは中国の人権問題と米中貿易をリンクさせる姿勢をとって支持されたが、議会や産業界からは反発が強まった。その結果、クリントンは1994年に人権問題と米中貿易のリンクを終わらせる。一方で米国内の台湾支持派は台湾の李登輝総統が私人として米国を訪問するよう認めるよう要求。米政府はビザ発行を認めない方針を示したが、その後、クリントンが訪問を容認し、1995年に李登輝の訪問が実現した。これに反発する中国が台湾海峡で大規模な軍事演習を行い、クリントンは空母を同海域に派遣し、第三次台湾海峡危機に至った。でも、クリントンとしても決定的な対立は避けたいので、1997年と1998年に米中首脳会談がもたれ、1999年に中国がWTOに加盟することが承認される。クリントンは、中国に対するPermanent Normal Trade Relations(PNTR)を認める法律が2000年に成立することも確約。大統領が議会に諮ることなく、最恵国待遇が毎年更新されることになった。このあたりの米国の対応は腰が定まっていない感じです。

一方の中国側では1999年に米国がユーゴスラビアの首都、ベオグラードで中国大使館を誤爆したことへの反発が出たが、やはり米国との対立は避ける方針が採られた。米国は世界で唯一の超大国で、米国との関係維持は中国の経済発展にとって不可欠。観光や日本、南シナ海、台湾などに影響力がある米国との良好な関係を維持せねばならないとの判断だった。

2001年に就任した子ブッシュは対中関係よりも日本などとの関係を重視したうえ、ロシアやインドとも関係を強化しようとした。中国に対しては人権や台湾の問題を積極的に取り上げたし、中国が大量破壊兵器を拡散させたとして経済制裁も打ち出した。シュルツ国務長官のもとで働いたアーミテージが国務次官補になったことは偶然ではない。このため2001年4月に南シナ海上空で米軍機と中国軍の戦闘機が衝突する事件(海南島事件)が起きた際は米中関係が悪化すると予想された。でも、双方は冷静に対応し、この時期の米中関係は良好だった。もちろん2001年9月の米中枢同時多発テロで中国の重要性が薄れたことも要因です。また中国が政権移行期前の国内問題が難しい時期にあったことも影響している。しかしサターさんは、子ブッシュ政権が中国に対する厳しい姿勢を打ち出していたことが最も重要な要因だとします。

良好な関係を築いた米中は北朝鮮の核問題で連携し、子ブッシュは台湾の陳水扁総統に独立に向けたステップを採らないように戒めた。一方では、中国の経済発展に伴って米国内には、中国との貿易赤字、知的財産権の取扱い、為替レートの水準、中国による米国債購入、中国によるユノカル買収なんかの問題が意識されるようになった。2006年の中間選挙で民主党が勝利し、議会が子ブッシュ政権に対中政策の変更を迫るとの観測もあった。でも、子ブッシュ政権は中国を為替操作国と認定することを拒否。中国の人権問題に対する懸念も、中国でのビジネスチャンスへの期待で相殺された。

2006年ごろの中国の要人発言や文書にみられる外交方針は、

○国際社会で超大国を目指す
○中国の経済発展の基盤となる安定的な外交環境を追及する
○中国の発展を阻害するような国際的な公約は避ける
○中国の国内外での成功は中国に応分の責任を求める国際社会との緊密な関係にかかっていることを認識する

といったようなものだったそうです。

2009年に発足したオバマ政権はブッシュ政権の対中政策から大きな変化をみせていない。大統領選の最中でも、最近の大統領選挙ではめずらしく対中政策を争点にしなかった。オバマの外交方針は、経済危機とか気候変動、核拡散、テロとかいったグローバルな問題に対応するため、中国も含めた国際社会全体と協調するというものです。

ただ、中国はオバマの期待に応えていない。国際的な責任を果たすことは中国の経済発展を損なうとの懸念があるためだそうです。それどころか中国は2009年から2010年にかけて、攻撃的な行動をとるようになる。南シナ海に哨戒船を出したり、EEZ内の航行の自由を制限できるんだと主張したり、黄海での米韓軍事演習に反対したり、台湾への武器供与やオバマとダライラマとの面会にこれまで以上に反発したり、米国債への投資をやめて決済通貨でもドルを減らすと言ったり、尖閣諸島が日米安保条約の対象となっているとの見解に激しく反発したりした。こうした態度はアジア各国の中国への警戒感を強め、米国への期待を高めることになる。

一方でオバマ政権は中国の軍事力増強に対して軍事的な対応をとる用意があることを表明し、北朝鮮の問題は米国に対する直接的な脅威だとして中国に対応を求めた。2011年1月に胡錦濤国家主席が訪米した際には、中国からの米国批判は影を潜めていた。中国は北朝鮮に挑発をやめさせ、イランへの制裁緩和を求めず、人民元の切り上げに応じ、2010年12月のカンクンでのCOP16では気候変動問題で協力的になった。

またオバマ政権は2011年にアジア重視戦略を打ち出して、アジア太平洋地域で中国と影響力を競い合う姿勢を示すとともに、中国との関係強化も重要であるとの立場を示す。しかしこれに対しては、一度は攻撃的な態度を改めたかにみえた中国で、再び米国に対してより強硬な立場をとるべきだとのムードが盛り上がる。2012年から2013年にかけて、南シナ海で中国漁船がフィリピン当局に拿捕されたことを機に、南シナ海での活動を強化し、九断線に基づく領海の主張をしたり、尖閣諸島にかんする論戦を展開したりした。中国はこうした強硬路線は成功したとみなしている。

まぁ、ここまでで半分ぐらいです。大体の流れはあたっているはずです。間違いがないという自信はありませんが。

サターさんはこの後、米中関係の行く末について考察を進めますが、結論としては「楽観視できるものではないので、気をつけてウォッチしていかなきゃいけないよね」っていうことでした。

こうやって米中関係の歴史を振り返ってみると、米中関係っていうのは台湾問題がキモであることがよく分かります。サターさんは「米中国交正常化の歴史は、米国が対中関係から利益を得ることと引き替えに、米国と台湾の関係を弱める方向で譲歩していくことだった」としています。2008年に台湾で馬英休総統が就任して親中国路線をとっているので、現在のところは台湾をめぐる米中の対立は大きくなっていないですが、台湾で政権交代があったりして独立路線に切り替わったりすると、米中対立に火がつく可能性がある。

あと、サターさんはレーガン政権下のシュルツ国務長官時代や子ブッシュ政権下での対中強硬路線が中国からの融和を引き出したという点を強く主張しています。サターさん自身が「他にもいろんな見方があるけれど、私はこう思う」というかたちで書いているので、異論があることは間違いないのですが、中国に対して毅然とした態度を取らねばならないぞという立場の人たちはこうした歴史上の経緯を論拠にしているんだなと思った次第です。

サターさんは米国は中国を国際関係のロープで縛り付けて、勝手な行動を取らせないようにする「ガリバー戦略」は上手く機能しているとする一方で、相互不信に基づいたものであるという弱みはあると指摘します。中国が今後も友好的な態度を維持するかどうかは不明。中国は成熟した大人の国になったとみる向きもあるが、中国の指導者はしばしば揺らぎやすく、予想外の動きをみせるとのこと。

中国の経済力が米国を上回る時代になれば、中国を国際関係のロープで縛り付けるどころか、中国が米国などを国際関係のロープで縛り付けるという状態にもなったりするんでしょうか。台湾とか共産党一党支配とかに文句を言わなければ、めったなことは起こらないのかもしれませんが、中国の南シナ海とか東シナ海とかでの領有権の主張をみたりすると、あんまりいい予感はしないですよね。

2014年11月3日月曜日

リチャード・クレイダーマンは芸名

ウィキペディアによると、本名はフィリップ・ロベール・ルイ・パジェスだそうです。
容姿が優れている点も評価されてデビューしたらしい。

実家にもアルバムがあった。でもまだ60歳だって。意外に若い。

2014年10月12日日曜日

The Greatest Comeback

“The Greatest Comeback: How Richard Nixon Rose from Defeat to Create the New Majority”という本を読んだ。

ウォーターゲート事件によるニクソン大統領辞任から40年の節目に出ているニクソン本のひとつで、側近だったパット・ブキャナンさんが1960年の大統領選でケネディに負けたニクソンがどんな道筋をたどって1968年の大統領選に勝利したかを書いた本です。面白いことは面白いんですが、米国の政治、社会状況に対するニクソン陣営の分析や裏話を集めたような内容なんで、そもそも表舞台で何が起こっていたかという事実関係がしっかりと頭に入っていないと理解が追いつかない部分が出てしまいます。ニクソン本や60年代に関する本なんていうのは無数に出ているでしょうから、まずは基礎知識を身につけてからの方が良かったかもしれません。

というわけでなかなか内容を紹介するのは難しいのです。ただ、ブキャナンさんが言わんとすることは、ニクソンは、ジョンソン大統領らがマイノリティや学生の一部が暴動や大学の占拠事件を起こすような事態になった際に毅然とした態度をとらなかったことで失った「普通の米国人」の支持と、当時の米国内に残っていた人種差別を容認するような古いタイプの人たちの支持を上手にすくい上げて、選挙戦で勝利したんだということだと思います。「普通の米国人」というのは低所得、中所得の白人たちで、公民権運動の流れのなかで忘れられた存在になっていたとのことです。

で、ニクソンがどうやってこの両方の層をまとめたかという話なんですが、まずニクソンはマイノリティや学生の暴動に対しては”law and order”の重要性を訴えます。暴動などを起こす側には差別撤廃などの理由があるわけですが、「どんな理由があろうとも法と秩序は守らねばならない」という立場を明確にするわけですね。そうすることで、「俺たちだって苦労しているんだよ」という普通の米国人の不満をすくいあげることに成功します。

一方、米国には古いタイプの人たちもいた。公民権法に反対票を投じて、1964年の大統領選で大敗したバリー・ゴールドウォーターを支持するような人たちですね。ニクソンはこの人たちとも連帯する。1964年の大統領選でニクソンは、共和党候補として正式に選出されたゴールドウォーターをきちんと応援していた。ゴールドウォーターはこのことを大変感謝し、恩義に感じていたそうです。共和党内のリベラル派であるネルソン・ロックフェラーとかジョージ・ロムニーのような人たちはゴールドウォーターから距離をとったりしたわけですが、そういう態度で共和党を分裂させるような真似は止めるべきだということですね。

ただ、もちろん、人種差別を肯定するような立場をとるわけではありません。ブキャナンによると、ニクソンはリベラルな家庭で育ったそうで、副大統領時代には1957年の公民権法の成立に力を尽くしてキング牧師から感謝の手紙をもらったりもしたそうです。ただ、公民権法に反対するような人たちを共和党から追い出すようなマネはしない。選挙で民主党に勝つためには、こうした人たちからの支持が重要であることを知っていたからです。人種差別撤廃には賛成しながらも、反対する人を批判しないというのはなかなか難しいポジション取りですけど、大統領選に勝つにはそのぐらい難しい配慮が必要だということですね。

1968年の大統領選では、民主党のヒューバート・ハンフリー副大統領と共和党のニクソンが出馬。さらに独立党のジョージ・ウォレスも立候補します。このウォレスという人は元は民主党なんですが、アラバマ州知事として人種差別を支持してきた人で、ニクソンにとってはリベラルのハンフリーと、古いタイプのウォレスから挟み撃ちを受けたようなかたちになります。ただ、ゴールドウォーターとしっかり連帯してきたこともあって、ディープサウスの5州(アーカンソー、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマ、ジョージア)はウォレスにもっていかれましたが、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、フロリダ、テネシーは確保できた。このあたりが勝因だったとのことです。

あとベトナム戦争に対する分析も面白いです。南北ベトナムの間での戦争はアイゼンハワー時代からあったわけですが、ケネディの時代までの米国の介入は軍事顧問団の派遣にとどまっていた。ところがジョンソンは1965年から北爆を始めて、さらには地上軍の投入に突き進んでいきます。ところが思うような成果が上がらず、米国内では厭戦ムードが高まっていた。で、ジョンソンは停戦の道を探り始めて、1966年のマニラ会議で「もしも北ベトナムが兵を引くなら、米国もベトナムから兵を引く」ことに合意します。これに対してニクソンは強く反発してみせます。もしもベトナムから兵を引けばベトナムが共産圏に落ちることを容認することになるし、さらに「撤兵してもいいよ」なんて弱気を見せようなことをすれば、北ベトナム側を「粘れば勝てるぞ」と勢いづかせることになるという判断があったようです。

ニクソンは大統領就任後の1972年にハノイ空爆、ハイフォン港への機雷封鎖などを行なって北ベトナムに壊滅的な打撃を与え、パリ和平会議のテーブルにつかせ、米兵捕虜の解放などと引き替えに、ベトナムからの撤退を約束します。南北ベトナムの戦闘はその後も続き、最終的には北ベトナムが勝利してベトナムは共産圏となる。ニクソンは大統領を辞めた後、ブキャナンさんに対して「ジョンソン大統領がハノイ空爆や機雷封鎖を1965年か66年にやっておくべきだった」と話したそうです。ニクソンは米国がベトナム戦争で負けたときの大統領なわけですが、負けた原因はジョンソンにあるというわけですね。なるほど、こんな理屈もあるのかという感じです。

現在の共和党指導部がティーパーティーみたいな極端な人たちの言動で支持を落としながらも、ティーパーティーを切り捨てるわけでもないのはニクソンがゴールドウォーターと連帯して党をまとめたことが頭にあるのかなという気もします。共和党の候補者としては予備選でティーパーティー系と対立するようなことが避けたいのはもちろんですけど、ティーパーティー系の機嫌を損ねて大統領選で候補者を立てられたりなんかしたら、共和党的には目もあてられない状況になりますからね。

あと、オバマ政権がイラクやアフガンから撤退してきたにも関わらず、ここにきてISIS相手に空爆を始めているところなんかも、あまりいいやり方ではないんだろうなという気もする。今のところは米国が地上軍を投入することはないということですが、うまくいくはずもないような気が。

ニクソンは思想的にはウィルソンを尊敬するような理想主義者なんだけれど、行動は現実主義に基づいていたということです。共産中国との国交を回復に手をつけ、長年の友人であった台湾の蒋介石との関係を切ったのも、ロシアを孤立させることがための判断だったとのこと。あと、「現実主義に基づいた妥協は人々にはアピールしない。現実的な妥協をとらなければならないんだけど、語るときは原則について語らなければならない」という言葉もあるんだそうです。

つまり心のなかに理想主義をもって、人々にはその原則を語るんだけど、行動は現実主義に則って妥協にも応じなければならないということですね。理想主義の原則を語り、理想主義で行動するのもだめだし、現実主義にのっとって行動する際に現実主義を語ってもいけない。ちなみにニクソンは1972年の大統領選では歴史的な大勝利を収めています。

深い。深いな、ニクソン。

でもウォーターゲート事件で失脚するんだけどね。この人のドラマはまだまだ続いていたんだと思います。

2014年8月19日火曜日

The Good Fight

"The Good Fight: Hard Lessons from Searchlight to Washington"という本を読んだ。民主党のハリー・リード上院院内総務が2008年5月に書いた自伝です。民主党が2006年の中間選挙で上院を奪還した後、2008年の大統領選ではまだオバマ対ヒラリーの候補者争いが続いているという段階ですね。ウォーレンさんの自伝が面白かったので、あまりよく知らないリードさんの自伝も読んでみたという次第です。面白かった。

この本、いきなり"I AM NOT A PACIFIST."という一文で始まったり、リードさんが生まれ育ったネバダ州サーチライトについて「メインの産業は売春だった。誇張しているわけじゃない」なんていう言及があったりして、なかなかパンチが効いています。あと、ラスベガスがあるネバダ州のギャンブル産業を監督する公職についていた際、自身や家族がマフィアたちから度重なる脅迫を受けた経験から、いつも銃を手元に置いているなんていうエピソードも出てくる。リベラル層を支持基盤とする民主党の上院院内総務といえども、お上品なだけの理想主義者じゃないぞということなんだと思います。

ただ、こうした言及は「そんな俺でもブッシュ(子)大統領の対イラク政策は我慢がならない」という主張へのフリみたいなもんです。リードさんは2003年のイラク戦争開戦には賛成した。フセイン大統領が大量破壊兵器を持っているなら、それを取り除かなければならないということだったわけですが、その後、2007年の春の段階では米軍に3200人の死者、数万人の負傷者を出しながらも、大量破壊兵器はみつからないうえ、シーア派とスンニ派の対立も鮮明になり、イラクは内戦状態に陥ってしまった。ブッシュ政権は増派を検討しているけれど、それは1965年にジョンソン大統領が勝てる見込みのないベトナム戦争への増派を決めたようなもんだというわけです。議会は「増派は妨げないが、無期限に認めるわけではない」という予算案を通して、リードさんも大統領に直接会って妥協を迫りますが、大統領は「自分の個人的なレガシー作りのためにやっているのではない。これは正しいことだ」と反論して、議会の予算案に拒否権を行使。結局、大統領の意向を反映した予算案が成立することになります。リードさんはこれが許せないというわけですね。ちなみに、ブッシュ(父)のことについては結構褒めています。で、ブッシュ(父)の夫人については他の上院議員の発言を印象するかたちで、「ビッチだ」と書いたりしています。

この本が書かれた後に就任したオバマ大統領はイラクから撤退期限を宣言して、2010年8月に約束通り戦闘部隊の撤退を完了。11年12月には完全撤退を終えます。で、今になってISILが勢力を拡大して再び空爆を始めたりしている。そう思うとブッシュ政権の判断もあながち間違いじゃなかったんじゃないかという気もしますが、どうなんでしょう。オバマ大統領がイラクから撤退しなければ、イラクの状況はもっとマシになっていたかも。まぁ、歴史に「もしも」はないっていいますから、よく分かりませんがね。

政治ドラマも満載。2000年の大統領選にあわせた議会選挙で上院の勢力が50対50になった際、共和党のジム・ジェフォーズ(Jim Jeffords)上院議員を民主党側に寝返らせて民主党の多数を獲るくだりなんかでは議会の勢力争いの裏舞台も披露されています。当時、上院院内幹事だったリードさんの寝返り候補リストには、リベラルが強い州選出のLincoln Chafee上院議員とか、穏健派のArlen Specter上院議員、Olympia Snowe上院議員、一匹狼のマケイン上院議員なんかの名前もあったようですが、結局、リードさんはジェフォーズ議員から出された「乳製品農家への価格維持政策の継続」「自らのスタッフに影響がでないこと」「民主党側についた後の序列では、共和党議員時代のキャリアも考慮すること」をのんで、ジェフォーズ議員を自陣に迎え入れた。その後、ジェフォーズ議員は上院環境委員会の委員長になります。こういった工作を、民主党から共和党への裏切りを阻止しながら、やっているわけですね。

2004年の大統領選でブッシュ大統領に再選を許し、議会選挙でも上院で45議席しかとれなかった後、民主党の上院院内総務に立候補したくだりでは、当時、いちはやく自分を支持してくれた議員の名前を列挙しています。対抗馬はコネチカット州のクリス・ドッドでテッド・ケネディの支持を受けていたようですが、そんななかでもRobert Byrd, Jim Jeffords, Chuck Schumerなんかはいち早く、リード支持に回ったようです。あと、Ron Wydenは金融委員会に入れて欲しいと要望したとか、Jack Reedが歳出委員会への残留を希望したとか。当時のヒラリー・クリントン上院議員や、バラク・オバマ上院議員もリードを支持したということのようです。で、結局、クリス・ドッドは院内総務選挙に立候補せず、リードの就任が決まる。こういうところで名前を挙げていくっていうのも、なかなか嫌らしい感じがします。

2005年に共和党が判事の任命に関するフィリバスターの廃止をねらった「核オプション(nuclear option)」を検討したことに対する怒りっぷりも印象的です。上院はフィリバスターのおかげで多数派と少数派の妥協が図られる仕組みなのに、それを無効にするとは何事だというわけですね。で、超党派の議員団"Gang of Fourteen"を組織して、核オプションによるフィリバスター廃止を阻止します。共和党から7人、民主党から7人が参加して、民主党側は焦点となっている3人の判事の任命については容認する一方で、共和党側はフィリバスター廃止はやらないと約束するという手法です。少数とはいえ超党派の議員が妥協しあうことで、どちらの側も過半数をとれない状況を作り上げ、妥協を旨とする上院の伝統を守ったというわけですね。

で、リードさんは2013年11月に、民主党が上院の55議席を占めている状態から、核オプションを実行して「最高裁判所判事をのぞく大統領任命人事の承認」に関するフィリバスターを廃止する事実上の規則改正をやってしまいます。2005年の怒りっぷりは何だったんだという話ですが、リードさんは相当なケンカ上手ということなのでしょう。ケンカ上手といえば、2005年11月にイラク戦争についての調査の開始を抜き打ちのクローズド・セッションで決めてしまうという場面も出てきます。これもなかなかドラマチック。弁護士らしくというか何というか、ルールの抜け穴を突くのが得意みたいです。

あとこの本には子供のころのエピソードとかがふんだんに盛り込まれています。金鉱の街であるサーチライトに集まってきた労働者たちの死と隣り合わせの生活とか、シアーズのショッピングカタログが年に1度届くことが一大イベントだったとか、子供のころは無免許で運転するのが当たり前だったとか、友達が自宅の窓から核実験の光を眺めたことがあるとか、ユダヤ教徒の娘だった奥さんと駆け落ちしてモルモン教の教会で結婚式を挙げるとか、DCで警察官として働きながらジョージワシントン大学のロースールで勉強したら死ぬほど大変だったとか。弁護士時代のエピソードでは、妙にミステリー小説っぽい展開だったりもします。1969年ごろのワイオミング州ではヒッピーは犯罪者扱いされていたとか、ジャクソンの街では毎晩、公開絞首刑のまねごとが毎晩行われていたらしい。文脈から察するに観光客にワイルドウェストらしさをアピールするための出し物のようなものだったみたいですが、米国のディープさを感じさせます。ワイオミングといえば、チェイニー前副大統領の地元ですね。ディープ。

多分、語られていない部分の方がたくさんあると思うのですが、勉強になりました。議員の自伝は面白い。

2014年7月17日木曜日

東京から一番遠い首都はモンテビデオ

グーグルマップで2つの地点の距離が調べられるようになったというので調べてみた。

東京からウルグアイの首都モンテビデオまでの距離は1万8500キロぐらいで、よく日本の裏側みたいに言われるアルゼンチンの首都ブエノスアイレスより200キロほど遠い。

ワシントンDCからだと、インドネシアの首都ジャカルタが1万6300キロぐらいで一番遠い。


多分です。

A Fighting Chance

"A Fighting Chance"を読了。エリザベス・ウォーレン(Elizabeth Warren)上院議員の自伝です。あんまり保守ものばかり読んでいてもあれなんで、やっぱりリベラルな人たちの話も読んだ方がいいんじゃないかと思って読んでみた。非常に面白かった。あと、読みやすい。

このウォーレンさんは長らく自己破産の問題に取り組んできた法律学者で、元ハーバード大学教授。金融危機の前から「銀行が消費者に十分な情報を提供しないまま、高金利になる可能性のあるローンを貸し付けているのは問題だ」と主張してきた人です。そうした実績を買われて、金融危機後に金融サービスにおける消費者保護を目的としたConsumer Financial Protection Bureauの設立にオバマ大統領のアドバイザーとして尽力して知名度を上げ、その後、2012年の上院議員選挙でマサチューセッツ州から立候補。ティーパーティ系の共和党現職、スコット・ブラウンを破って当選したという経歴の持ち主です。そんなわけで、リベラル層からの人気が高くて、2016年の大統領選挙に出馬するのではという観測もあります。まぁ、本人は出馬を否定しているし、民主党にはヒラリー・クリントンという大本命がいますから、そんなに可能性は高くないでしょうけどね。ただ、それぐらい人気があるということです。

で、これだけでもウォーレンさんは面白い人なんですが、これだと「超あたまのいいハーバード大学のスーパーエリートか」ってなもんです。でも、ウォーレンさんの面白いのはハーバード大教授になるまでの経緯にあります。というのも、ウォーレンさんはオクラホマ州の生まれで、父親は便利屋さん(handy man)といいますからエリート家庭の出身ではない。美人でもないし、学校の成績も良くないし、スポーツもできないし、歌もダメだし、楽器もできないという、さえない感じの高校生だったそうです。しかも高校生のときに父親が病気で倒れて、学費の面からも大学進学も難しい状態だった。ただ、このウォーレンさんはディベートが大の得意だったそうで、ディベートチームのアンカーだった。そこで、ディベートで奨学金を出してくれる大学を探して、ワシントンDCにあるジョージ・ワシントン大学に進学します。

で、ここからエリート街道が始まるのかというとそうではなくて、ウォーレンさんは大学2年生のとき、4歳年上でIBM勤務のジムさんにプロポーズされて「イエス」と即答。大学をやめてしまいます。1968年、ウォーレンさんが19歳のときの話ですが、後に上院議員になるほどの女性でも当時は「女性は結婚したら家庭に入るのが当たり前」という感覚があったのだと思います。ちなみにジムさんはオクラホマにいた13歳のころからデートしていた相手だったそうです。

で、ウォーレンさんはジムさんの勤務先であるニュージャージー州で障害者学級のセラピストとして働き始めて、21歳のときに長女を出産。当時、女性運動が盛り上がっていたそうですが、ニュージャージーの郊外ではそうでもなかった(The women's movement was exploding around the country, but not in our quiet New Jersey suburb and certainly not in our little family)ということで、ウォーレンさんは良き妻であり、良き母であろうとしてきた。ただ、やっぱり何かをやりたいという気持ちもあって、そういう気持ちに対して、"I felt deeply ashamed that I didn't want to stay home full-time with my cheerful, adorable daughter."と述懐しています。

ということでウォーレンさんは学校に行くことにします。ジムさんも消極的ながらOKしてくれました。それでニュージャージー州のラトガー大学のロースクールに通い始める。法律のことなんて何も知らないのにロースクールを選んだのは、テレビでみかける弁護士が困った人たちのために戦っている姿に感銘をうけたからだそうです。

でね、ロースクール2年目の夏休みにウォールストリートの法律事務所の夏季アシスタントの仕事の面接に行ったときのエピソードがあるんですが、これがかっこいいので紹介します。

女性の秘書や事務員はたくさんいるけど、女性の弁護士はほとんどいない法律事務所だったそうですが、面接官の弁護士がウォーレンさんの履歴書をみて、"There's a typographical error on your resume. Should I take that as a sign of the quality of the work you do?"(あなたの履歴書にはタイプミスがあるけど、これはあなたの仕事の質のあらわれだと考えていいですか?)って尋ねたそうです。そしたら、ウォーレンさんはたじろぐことなく、"You should take it as a sign that you'd better not hire me to type."(私にタイプをさせるだけの仕事をさせるべきではないということのあらわれですね)と切り返したそうです。面接官の弁護士は笑って「君ならいい仕事をしてくれるだろう」と言って、ウォーレンさんを採用してくれたとのこと。帰りの電車で履歴書を見直したら、タイプミスはなかったそうです。わはは。ドラマみたい。

ウォーレンさんは27歳でロースクールを卒業。でもこれでウォーレンさんの法律家としての栄光のキャリアが始まるわけじゃない。実はウォーレンさんはこのとき、第2子の長男を妊娠中で、弁護士試験を受けたのは出産後。自宅に"Elizabeth Warren, Attorney-at-Law"という看板を出して開業します。依頼者が来たら、おもちゃをカウチの下に隠してリビングルームで会おうと思っていたそうです。でも実際には、ラトガース大学から「1週間に1晩だけ、法律文書の授業をもたないか」というオファーを受けて、大学で教鞭をとるようになる。で、1年ほどしたら、ジムさんの転勤先であるヒューストンに引っ越すことになって、またイチから職探しです。そこで、ヒューストン大学のロースクールに願書を出します。教職の空きがあるかどうかも分からない状態ですが、"I was now an experienced law teacher (sort of) and I'd be interested in teaching legal writing at the University of Huston (or anything else they needed), and so on"というノリでの職探しだったそうです。そしたら、しばらくして教授として採用されることが決まります。

で、順風満帆のキャリアが始まるかと思いきや、仕事と育児の両立に悩むことになる。大学での授業を終えた後、保育園に長男(Alex)を迎えいったときの様子が書かれていて、これがまぁリアルな感じです。長いですが、引用します。Ameliaは長女ですね。


"I picked him up. His diaper was soggy, and I tried to lay him down on the cot to change him, but he clung to me and cried. I gave up and carried him to the car. By now, he was going full force, crying louder and kicking. I had tears, pee, and baby snot on my blouse. By the time we got home, he was exhausted and so was I. I called our neighbor Sue and asked her to send Amelia home. I gave Alex a bath and started crumbling up hamburger in a skillet as I made dinner. I put in a load of laundry. When I was in law school, Amelia and I had been buddies. She allowed me to believe that a life that combined inside and outside --family and not family-- could actually work. But Alex cried for hours at a time, turning red and sweating and seeming to be furious at my inability to fix whatever was wrong. Once I started teaching, mornings were torture. Alex knocked his cereal bowl across the room and cried when I dressed him. He kicked me while I tried to fasten him in his car seat and clung to me when I needed to leave. I was outmatched. I was so tired that my bones hurt. Alex still woke up about three every morning. I'd stumble out of bed when he cried, afraid he'd wake Amelia or Jim. I'd feel around in the dark, wrap us together in a blanket, and then rock him back and forth in an old rocking chair I'd had since I was a kid. We held each other, and for a while each night while I drifted in and out of sleep, I prayed that he forgave me for my many shortcomings."

上手に訳すのは難しいですが、全米のワーキングマザーが泣いちゃうんじゃないかっていうぐらいのリアルな感じ。ウォーレンさんは叔母に自宅に住み込んでもらって生活を立て直そうとするのですが、そうした生活にジムさんは不満を抱いていました。で、離婚しちゃんです。

"One night I'd left the dishes until after I'd put both kids to bed, and I was cleaning up in the kitchen. Jim was standing in the doorway, smoking a cigarette, just looking at me. I asked him if he wanted a divorce. I'm not sure why I asked. It was as if the question just fell out of my mouth. I was shocked that I'd said it. Jim looked back at me and said, "Yes." No hesitation, just yes. He moved out the next weekend."

なんたる。なーんたる。ひどい話だと思いますが、ウォーレンさんはジムさんを責めるような心境でもないようです。「ジムは19歳の女の子と結婚したけど、その私は本人さえも予想しなかったような女性になってしまった。このことはとても申し訳なく思うけど、もう引き返すことはできない。私は料理上手な主婦にならねばならなかったのかもしれないけれど、ダメにしてしまった。私は100%を家庭と子供に捧げるべきだったかもしれないけれど、私たちの生活は、私もジムも予想しなかったようなものになってしまった。私はこの大冒険が大好きだったけど、ジムは違った」としています。1970年代後半ごろの話ですね。

ウォーレンさんはこの後、両親も呼び寄せて子育てをサポートしてもらって、自分は大学教授の仕事に集中します。で、法律の歴史を専門にしている大学教授のブルースさんと再婚して、全米屈指のロースクールがあるテキサス大学オースティン校に転籍して、自己破産の増加について関心を持つようになった。自己破産というのは借金が返せなくなった人たちが家とか自動車とかいったほとんど全ての資産を放棄することと引き替えに、返済しきれなかった借金を帳消しにしてもらって再スタートを切るという法的な制度なわけですが、ウォレンさんは「どうして、人々は金銭的にそこまで追い込まれてしまうのか?」ということを研究のテーマとして、「自己破産に至るのは、病気とか解雇といった突然の出来事で、事業のための借金や住宅ローンなどの返済が滞るようになった、ごく普通のまじめで勤勉な人たちだ」という結論に至ります。さらにウォーレンさんはその背景には、1980年代に貸し出し金利の上限が撤廃されたことで、銀行業が大きく変質したことがあると主張します。それまでは決められた上限金利のなかで、借り手が返済可能かどうかを見極めたうえで融資を実行するのがバンカーの手腕だったわけですが、上限金利がなくなったことで返済できないような借り手にも高い金利で貸し出せば銀行ビジネスが成り立つという構図ができた。その結果として、自己破産が増えているといわけです。

自由市場主義に基づいた保守派なんかは「自分が返済可能かどうかは自分で判断すべき問題だ。自己破産を銀行の責任にするな」という反論もあるわけですが、ウォーレンさんは「銀行が融資の際に貸し出し条件を十分に説明していない」と批判します。また、借金返済に苦しんでいる人たちは何も借りたお金で放蕩三昧の生活をしているわけじゃないともしています。

例えば、こういうパターンですね。自分の収入はそれほど高くないけれど、子供にはいい教育を受けさせてやりたいから、少しでもレベルの高い学校の学区に住みたい。そうした学区の家は値段が高いけど、ちょっと無理して住宅ローンを組む。金利は高めだけれど、銀行もOKしてくれたし、しばらくは順調に返済もできていた。でも、そのうちに自分が病気になってしまって、家族の収入が激減してしまった。家を売却してローンを返済しようにも、住宅市場が悪化していて返済仕切れない。それで自己破産するしかなかった。

ウォーレンさんの研究は、実際にこうした経験をした人たちへのインタビューをもとにしているんだそうです。ウォーレンさんは自己破産の専門家として銀行への規制強化の必要性を主張。その間、ハーバードに移籍したり、議会と接触をもって自己破産の際の借り手の負担を少なくするための法律改正などにも取り組んだりもします。

もういい加減、長すぎるんでこのあたりにしますけど、この本の中には、法改正をめぐってマサチューセッツ州選出のエドワード・ケネディ上院議員に直談判したり、金融業界のロビイストたちと対立したり、スコット・ブラウン氏との上院選挙での激しい戦いといったいった面白エピソードも盛りだくさん。銀行にとって有利な法律改正を支持していたとして、バイデン副大統領(当時は上院議員)がさりげなくディスられたりもします。そんななかで、冒頭に書いたようにオバマ大統領のアドバイザーになって、上院議員になる。ちなみにスコット・ブラウン氏は、ケネディ上院議員の死後の補選で、リベラルの牙城であるマサチューセッツ州でティーパーティの支援をうけて勝利したという人ですね。ケネディ家の遺産を取り返したというドラマなわけです。


オクラホマのディベートだけが得意なさえない女子高生が、子育てと仕事の両立に悩みながらシングルマザーになった末に、学問の世界でキャリアを築きあげ、真面目に働く中間層のために立ち上がって大銀行と対決し、ついにはケネディ家の遺産を取り返して上院議員になった。そりゃ、人気も出ますわな。ウォーレンさんに出馬を促す勝手連もできているようですし、ヒラリーさんには「銀行業界からも沢山の献金を受けている」という批判もあります。

まぁ、要注目ってことで。