"Bloody Mary"を読んだ。直前に読んだシカゴ市警を舞台にした小説"Whiskey Sour"の続編です。
期待にたがわず楽しめました。12月下旬に読了しています。
内容を本人の公式サイトから引用すると、
Start with a tough but vulnerable Chicago cop. Stir in a psychopath with an unique mental condition that programs him to kill. Add a hyperactive cat, an ailing mother, a jealous boyfriend, a high-maintenance ex-husband, and a partner in the throes of a mid-life crisis. Mix with equal parts humor and suspense, and enjoy Bloody Mary—the second novel in the funny, frightening world of Lieutenant Jacqueline "Jack" Daniels.
When Jack receives a report of an excess of body parts appearing at the Cook County Morgue, she hopes it's only a miscount. It's not. Even worse, these extra limbs seem to be accessorized with Jack's handcuffs.
Someone has plans for Jack. Very bad plans. Plans that involve everything and everyone that she cares about.
Jack must put her train wreck of a personal life on hold to catch an elusive, brilliant maniac—a maniac for whom getting caught is only the beginning...
この本の前書きに書いてあるのですが、大きな謎の判明が中盤で出てきます。「途中で謎が分かっちゃうわけだから、そこから先の展開は読めないでしょ?」という狙いだそうです。確かにほとんどのミステリは大きな謎を解くまでに至る経緯を楽しむわけですから、途中で謎が解けたら、そこから先の展開は読者には想像できません。あと、残酷な描写は控えめにしたそうです。
まぁ、この狙いがうまくいったかどうかは別にして、面白いストーリーでした。次作も読みます。
2017年2月8日水曜日
2017年1月5日木曜日
"Whiskey Sour"
"Whiskey Sour"という本を読んだ。12月あたまぐらいのことです。
前回の"Write Good or Die"で面白い文章を書いていた、J.A. Konrahという作家が2004年に発表した処女作です。
シカゴ市警の女性警部補、ジャクリーン(ジャック)・ダニエルが猟奇殺人事件を解決する話です。
だめですね、こんな紹介では「面白そうだな」と思わせることができません。
だもんで、作者の公式サイトから紹介文を引用しますと、
Lieutenant Jacqueline "Jack" Daniels is having a bad week. Her live-in boyfriend has left her for his personal trainer, chronic insomnia has caused her to max out her credit cards with late-night home shopping purchases, and a frightening killer who calls himself 'The Gingerbread Man' is dumping mutilated bodies in her district.
While avoiding the FBI and its moronic profiling computer, joining a dating service, mixing it up with street thugs, and parrying the advances of an uncouth PI, Jack and her binge-eating partner, Herb, must catch the maniac before he kills again... and Jack is next on his murder list.
Whiskey Sour is the first book in the bestselling Jack Daniels series, full of laugh-out-loud humor and edge-of-your-seat suspense.
ってことです。面白そうでしょ?
実際、面白かったです。
一応、警察が事件を解決するストーリーですが、推理小説のような謎解きよりは「次の展開はどうなるのか?」とハラハラドキドキさせるエンターテインメント小説です。登場人物が交わすジョークに加え、登場人物たちのキャラクターづけもマンガっぽかったりするので、その立ち居振る舞いだけでも笑わせられます。
また読みます。
前回の"Write Good or Die"で面白い文章を書いていた、J.A. Konrahという作家が2004年に発表した処女作です。
シカゴ市警の女性警部補、ジャクリーン(ジャック)・ダニエルが猟奇殺人事件を解決する話です。
だめですね、こんな紹介では「面白そうだな」と思わせることができません。
だもんで、作者の公式サイトから紹介文を引用しますと、
Lieutenant Jacqueline "Jack" Daniels is having a bad week. Her live-in boyfriend has left her for his personal trainer, chronic insomnia has caused her to max out her credit cards with late-night home shopping purchases, and a frightening killer who calls himself 'The Gingerbread Man' is dumping mutilated bodies in her district.
While avoiding the FBI and its moronic profiling computer, joining a dating service, mixing it up with street thugs, and parrying the advances of an uncouth PI, Jack and her binge-eating partner, Herb, must catch the maniac before he kills again... and Jack is next on his murder list.
Whiskey Sour is the first book in the bestselling Jack Daniels series, full of laugh-out-loud humor and edge-of-your-seat suspense.
ってことです。面白そうでしょ?
実際、面白かったです。
一応、警察が事件を解決するストーリーですが、推理小説のような謎解きよりは「次の展開はどうなるのか?」とハラハラドキドキさせるエンターテインメント小説です。登場人物が交わすジョークに加え、登場人物たちのキャラクターづけもマンガっぽかったりするので、その立ち居振る舞いだけでも笑わせられます。
また読みます。
"Write Good or Die"
"Write Good of Die"という本を読んだ。11月の初めぐらいの読了です。
英語を読んだり、聞いたりすることは多いけど、英語で文章を書く機会は少ないもので、ひとつ英語による文章作法でも勉強してみようかと思って購入。米国の作家やライターなど文章に関わるさまざまな職種の人たちが書いた「ライター心得」をまとめたものです。
ただし実際には文章作法についての本というよりは、「作家になりたければ、こういうところに気をつけろ!」といったアドバイス集のような内容でした。それはそれで面白かったです。
印象に残ったアドバイスは、
「誰でも文章は書けるから、その気になれば誰でもライターになれると思われがちだが、なめるな。ライターになるには、オリンピックに出場するのと同じぐらい厳しい訓練が必要だ」
「アイデアはいくらでもある。問題はどうやって書くかだ」
「ライターとして成功するには、自分が面白いと思うものを書き続けるしかない」
「スティーブン・キングは処女作『キャリー』を執筆しているとき、行き詰まってしまって原稿をゴミ箱に捨てたことがある。でも妻がその原稿をゴミ箱から拾い上げて読んでくれて、書き終えるように励ましてくれた。あきらめるな」
「JKローリングはハリーポッターの第1作の発表する前、12の出版社に断られた。編集者はあてにならない」
「あなたたちはキングやローリングのような天才じゃないのだから、何百回と断られて当然」
「編集者の言うことはちゃんと聞け。ひとりよがりになるな。編集者に好かれろ」
といった感じですかね。ほかにもいろいろありますけど。まぁ、ある意味、なかなか実践的です。
あと、小説を書くなら1文で「面白そうだな」と思わせるだけの内容でなければならない、というのがライターにとっては鉄則のようです。
例えば、
"When a great white shark starts attacking beachgoers in a coastal town during high tourist season, a water-phobic Sheriff must assemble a team to hunt it down before it kills again."
"A young female FBI trainee must barter personal information with an imprisoned psychopathic genius in order to catch a serial killer who is capturing and killing young women for their skins."
"A treasure-hunting archeologist caces over the globe to find the legendary Lost Ark of the Covenant before Hitler's minions can acquire and use it to supernaturally power the Nazi army."
っていう感じです。
確かに面白そう。読んでみたいと思わされます。
あと、この本を読んだ思いがけない収穫は、いろんな米国のライターの文章が読めるので、気に入った文章があれば「この人が書いた本を読んでみようかな」というとっかかりになることです。
なかでも、J.A. Konrathという作家が書いた、自らが処女作を出版するまでのストーリーはとてもユーモアーにあふれていて面白かった。処女作出版までに12年かけて、10本の作品を書き、460回も出版を断られたそうです。
ライター稼業も大変ですね。
英語を読んだり、聞いたりすることは多いけど、英語で文章を書く機会は少ないもので、ひとつ英語による文章作法でも勉強してみようかと思って購入。米国の作家やライターなど文章に関わるさまざまな職種の人たちが書いた「ライター心得」をまとめたものです。
ただし実際には文章作法についての本というよりは、「作家になりたければ、こういうところに気をつけろ!」といったアドバイス集のような内容でした。それはそれで面白かったです。
印象に残ったアドバイスは、
「誰でも文章は書けるから、その気になれば誰でもライターになれると思われがちだが、なめるな。ライターになるには、オリンピックに出場するのと同じぐらい厳しい訓練が必要だ」
「アイデアはいくらでもある。問題はどうやって書くかだ」
「ライターとして成功するには、自分が面白いと思うものを書き続けるしかない」
「スティーブン・キングは処女作『キャリー』を執筆しているとき、行き詰まってしまって原稿をゴミ箱に捨てたことがある。でも妻がその原稿をゴミ箱から拾い上げて読んでくれて、書き終えるように励ましてくれた。あきらめるな」
「JKローリングはハリーポッターの第1作の発表する前、12の出版社に断られた。編集者はあてにならない」
「あなたたちはキングやローリングのような天才じゃないのだから、何百回と断られて当然」
「編集者の言うことはちゃんと聞け。ひとりよがりになるな。編集者に好かれろ」
といった感じですかね。ほかにもいろいろありますけど。まぁ、ある意味、なかなか実践的です。
あと、小説を書くなら1文で「面白そうだな」と思わせるだけの内容でなければならない、というのがライターにとっては鉄則のようです。
例えば、
"When a great white shark starts attacking beachgoers in a coastal town during high tourist season, a water-phobic Sheriff must assemble a team to hunt it down before it kills again."
"A young female FBI trainee must barter personal information with an imprisoned psychopathic genius in order to catch a serial killer who is capturing and killing young women for their skins."
"A treasure-hunting archeologist caces over the globe to find the legendary Lost Ark of the Covenant before Hitler's minions can acquire and use it to supernaturally power the Nazi army."
っていう感じです。
確かに面白そう。読んでみたいと思わされます。
あと、この本を読んだ思いがけない収穫は、いろんな米国のライターの文章が読めるので、気に入った文章があれば「この人が書いた本を読んでみようかな」というとっかかりになることです。
なかでも、J.A. Konrathという作家が書いた、自らが処女作を出版するまでのストーリーはとてもユーモアーにあふれていて面白かった。処女作出版までに12年かけて、10本の作品を書き、460回も出版を断られたそうです。
ライター稼業も大変ですね。
2016年12月18日日曜日
Exorbitant Privilege
“Exorbitant Privilege”という本を読んだ。Barry Eichengreenというカリフォルニア大学バークリー校の教授(政治経済史)が書いた、米ドルが国際基軸通貨であることの意味と今後について書いた本です。非常に面白かった。
読み終わったのは10月のなかばごろです。とてもためになる本だったので、なるべく詳しく内容をまとめておこうと思ったのですが、書いているうちに膨大な量になることに気づいてほったらかしになっていました。とりあえず、途中までの内容を仕上げておきます。
国際基軸通貨というと、分かったような分からないような概念なわけですが、要は「世界中の人が安心して受け取ってくれる通貨」ということです。著者は冒頭で、このことを分かりやすい例を挙げて説明しています。
それは、
・1940年代を舞台にした映画で、ホロコーストの生還者がモンテカルロのカジノにスーツケース一杯の現金を持ち込むシーンがある。その現金は当時のモンテカルロの公式な通貨であったフランではなくて、米ドルだった。
・現在でもブラックマーケットで通用する通貨といえば米ドルでしかない。
分かりやすいですね。第二次世界大戦のころの欧州のような政治的にも経済的にも混乱している場所で、人々が安心して価値を認めるものといえば米ドルだった。また、ブラックマーケットのような公式な権威がない世界でもやはり米ドルが信頼される。そりゃそうでしょう。ブラックマーケットでドラッグを取引するとき、北朝鮮かなんかの通貨で支払いをするといったら怒られますよね。
で、なんで米ドルが信頼されるかというと、世界中のどこででも受け取ってもらえるからです。ドラッグを売ったギャングが受け取った米ドルでマシンガンを買おうと思ったら、やっぱり米ドルでの支払いを要求されるわけですね。米ドルの価値は他の通貨に比較的安定した価値で交換してもらえると信じられていることも理由です。ギャングがフランスのニースかなんかで別荘を買おうと思ったとき、米ドルをユーロに交換してもらうことは難しくない。それにギャングは為替レートがそんなに急激に米ドル安に触れることはないだろうとも考えているわけです。もちろん実際には米ドルが安くなることはあるわけですが、それでもユーロを含めた他の通貨よりも安定しているということですね。
で、著者は、
“What is true of illicit transaction is true equally of legitimate business.”
と続けます。米ドルが国際通貨であるこということは、世界中の政府や中央銀行や企業や消費者が、ギャングたちと同じように考えているということです。なるほど。
実際の話として、世界の中央銀行が保有している準備資産の多くは米ドルです。米ドルの価値が安定してると考えられているからですね。世界で行われている商取引の多くが米ドルなのも、米ドルを受け取れば、それを支払いにも使えるからです。
で、なんでそんな風になっているかというと、米国の経済が大きいからです。
米国企業はたくさんの製品や資源を輸入しています。このとき、米国は米ドル建てで支払いをしたい。なぜなら、米国企業は米国内での経済活動で米国の消費者からたくさんの米ドルを集めていて、手元にたくさん米ドルがあるからです。もちろん米ドルを他国の通貨に交換したうえで支払うことも可能ですが、それには手間がかかるし、金融機関に手数料もとられます。
一方、製品や資源を米国に輸出する側の国は、できれば自分たちの国の通貨でお金を受け取りたい。米ドルを受け取っても、自国で働いている従業員の賃金支払いには使えないし、自国の生産拠点の設備投資には使えないからです。そのためには、米ドルを自国通貨に交換しなければならないわけですが、それには手間もかかるし、金融機関に手数料もとられます。
で、どっちの主張が通るかというと、米国なのです。というのは、米国はたくさんの製品や資源やサービスを輸出している国でもあるからです。米国に製品や資源を輸出する側が米ドル建てで代金を受け取った場合、今度はその米ドルを米国から製品や資源やサービスを輸入するときに使える。だから、米ドルを受け取ることへの抵抗感が比較的少ないわけです。
つまり、米国にモノを売る国が米国から「米ドルで支払っていい?」と聞かれたら、「いいよ。受けとった米ドルは次に米国からモノを買うときに使えるからね」と答えることが多いということですね。
これが米ドルが国際基軸通貨であるという状況です。この結果、米国企業は米ドルを他国通貨に交換する手間やその際の手数料を省くことができます。これが著者のいう”exorbitant privilege”のひとつです。この言葉は、フランスのジスカール・デスダンが言い出した言葉だそうです。
こうした米国の特権はほかにもあります。それは米ドルが国際基軸通貨であることで、米国の政府や企業は安い金利で資金を調達できるということです。
どういうことかというと、米ドルは国際的に流通して、他の通貨との交換も容易で、すでに各国に蓄えられていますから、米国がドル建てでお金を借りたくなったとき、世界中から「貸してもいいよ」という人たちがたくさん現れます。だから、米国側はそのなかから一番安い金利で貸してくれる人をみつけることができるというわけです。
一方で米国は他国に対して投資もしていて、その結果として利子や配当などのリターンを得ています。つまりは米国は全体として、他国からお金を調達しながら、他国へお金を投資しているわけですが、調達するときのコストが安いために、全体としての勘定がプラスになります。著者によると、「米国が支払う利子は、米国が受け取る利回りよりも2~3%低い」とのことです。
著者はこの説明のあと、”The U.S. can run an external deficit in the amount of this difference, importing more than it exports and consuming more than it produces year after year without becoming more indebted to the rest of the world. Or it can scoop up foreign companies in the amount as the result of the dollar’s singular status as the world’s currency.”と続けています。
ここは国際収支統計上の、経常収支赤字=資本収支黒字+外貨準備増減っていう関係の話をしているように思います。でも、「米ドルは基軸通貨で調達コストが安いから、経常赤字を出すことができる」っていうロジックになるのかどうかはよく分かりません。大事なところですけどね。また勉強します。
とまぁ、こういう風に米国は米ドルが国際基軸通貨であることで、さまざまな特権を得ているということになります。ただ米ドルが国際基軸通貨である理由は、米国経済が大きいからです。だから、米国は何もズルをしているわけじゃなくて、強い国だから特をしているんだというわけですね。
では、この米ドル国際基軸通貨体制が今後も続いていくかということになるわけですが、それを判断するには歴史をひもとく必要があります。なぜなら米ドルは世界が始まったときから国際基軸通貨だったわけではないからです。
当たり前の話ですが、北米大陸に欧州から人々が移住し始めたころには米ドルという通貨はありませんでした。1600年代の初めごろは、先住民との交易には”wampum”(貝殻)を公式な通貨として使っていたそうです。
ところが貝殻が足りなくなってくると、トウモロコシやタバコが使われるようになります。そして、そうなると、入植者たちには低い品質のタバコをたくさん栽培し始めます。そうすると、タバコを受け取る方は「こんな低い品質のタバコはいらないな」なんていうことになって、タバコの価値が低下する。となると一部の入植者が他の人のタバコ畑を荒らしたりする。そんな時代だったそうです。
当時の英国は植民地で貨幣を鋳造することを禁止していました。だから入植者たちが貨幣を手に入れるには、英国などに農産品とか魚などを輸出するのが公式な手段でした。また海賊行為で貨幣を手に入れるというパターンもあった。こうして北米大陸ではスペインの通貨が流通するようになります。このスペインの通貨がロンドンでは”Spanish dollar”と呼ばれていて、これが米ドルの始まりです。さらに貨幣が足りなくなってくると、”bills of credit”つまりは支払手形も通貨の代わりとして流通するようになります。ただし、英国の議会は1751年、借用書を通貨として使うことを禁止。このことが米国の独立戦争につながっていきます。
ここは勝手な解釈ですけど、「貝殻が足りない」とか「貨幣が足りない」とかいう状況がどんなものかを考えてみます。
例えば、入植者たちが先住民にビーバーの毛皮が欲しいと話しを持ちかけたところ、先住民たちが「貝殻とだったら交換してもいい」と言ったとします。さらに入植者たちはトウモロコシなら持っているけど、貝殻は持っていないとします。となると、入植者たちはどこかでトウモロコシを貝殻に交換してこなければならないわけですが、近くにトウモロコシと貝殻を交換したいと思っている先住民や入植者がいないことだってある。そんな場合は、入植者が先住民に対して、「申し訳ないけど、貝殻はないんだ。でもトウモロコシならあるから、トウモロコシとビーバーの毛皮を交換してくれないか」と持ちかけるしかない。そこで先住民側が「いいよ。トウモロコシと貝殻を交換したがっている友達がいるからね」ということになれば、「貝殻が足りなかったけど、トウモロコシが貝殻の代わりになって取引が成立した」ということになる。こんな感じでしょうか。
貨幣が足りないという状況も勝手に解釈してみると、陶器作りが得意な入植者が別の入植者からパンを買おうと思ったけれど、手元に貨幣がない。でも、何日か前に陶器を売ったとき、買い手から「1週間後に払うよ」と約束してもらった際の支払い手形なら手元にある。そこでパンを売っている入植者に、「この支払い手形を受け取ってくれないか。貨幣は1週間後に陶器を買った人から回収してよ」ということになる。そこでパンの売り手が「いいよ。その陶器を買った人は信用できる人だからね」ということになれば、「支払い手形が貨幣の代わりになって取引が成立した」ということになる。こんな感じじゃないですかね。
でも、本来ならトウモロコシは貨幣じゃないし、支払い手形も貨幣じゃない。だから受け取る側が「そんなもの受け取れないよ」ということだってありえる。そうなると、ビーバーの毛皮を買おうと思った入植者や、パンを買おうと思った入植者は困ってしまうわけです。その結果、取引ができなくなるわけだから、入植地の経済活動全体が停滞してしまう。トウモロコシや支払い手形をすぐに貝殻や貨幣に交換してくれるだけの市場があればいいんですけどね。
で、そんなこんなしているうちに米国が1776年に独立。1785年に連邦議会が米国の通貨単位は「ドル」ですと宣言します。銀や金との交換比率も純度に応じて定められました。議会のみが貨幣を鋳造することができ、州政府がIOU(借用書)を紙幣として発行することは禁じられます。
そして当たり前の話ですが、当時の米ドルは国際通貨ではありません。
19世紀まで世界経済の中心はロンドンでした。英国人は世界各国に投資しています。外国の誰かがお金を借りたいと思ったら、ロンドンに行ってポンド建てでお金を借ります。外国政府がロンドンで資金を調達したいと思ったら、ロンドンの銀行に口座を開いて、借り入れや返済の手続きをすることになります。こうした口座は”reserve”と呼ばれるようになります。
英国は各国から綿花などさまざまな産品を輸入していました。あと、海運やそれに関連する保険業務などを行う会社もロンドンに拠点を置いています。こうした会社は決済のためにロンドンの銀行に口座を開きます。もちろんポンド建てです。
こうしたロンドン中心の商取引は米国の企業家にとっては不便なものでした。例えば、ニューヨークの企業家がブラジルからコーヒー豆を輸入しようと思ったら、ニューヨークの銀行とロンドンの銀行とブラジルの銀行の間で、ものすごく煩雑な手続きが必要になり、その度に手数料や何やらをとられてしまいます。しかも、これらの取引はポンド建てですから、ポンドの価値がドルに対して下がった場合には損が出る可能性もあります。また、米国の銀行や保険会社がこうした商取引に関連する業務に参入しようとしても、英国の銀行や保険会社には敵いません。取引はロンドンでポンド建てで行われているからです。
一方、米国は急速に経済力をつけていきます。1870年までに米国のモノやサービスの生産量は英国を追い抜き、1912年までには輸出量でも英国をしのぎます。でも、英ポンドは国際基軸通貨であり続けます。
その理由はいろいろありますが、金融サービスの業務が英国に集中し、資金を集めようとする人が投資をしようとする人たちがロンドンに集まっていること自体が、ロンドンの優位性を高めていたという事情が大きかった。つまり市場参加者が多いために、調達する側はより安い金利で調達できるし、投資する側も優良な投資先を見つけられるということです。「現役王者の強み」ですね。
また、米国は銀行が海外に支店を持つことを禁じていました。さらに米国では中央銀行すらないという状況だった。ロンドンでは銀行が現金を必要とするようになれば、手持ちの債券をBOEに引き受けてもらって現金を手にすることができましたが、米国ではそうしたことができなかったわけです。
米国では1791年、ハミルトンが主導してフィラデルフィアにthe Bank of the United Statesが設立されました。州をまたいで営業できる唯一の銀行で、連邦政府の財政も管理することになります。ハミルトンの狙いはBOEのような中央銀行を作ることでした。しかしジェファーソンやマディソンは、一部の銀行に特権的な地位を与えることについて、「エリートによる米国金融業界の独占支配」の危険を感じ取ります。The Bank of the United Statesが提示するレートが悪かったり、一部の銀行の独占的な地位に監視の目をきかせるようになると、「エリートによる介入だ」と不満を感じるようになったわけです。
そんなわけで、1810年に迎えたThe Bank of the United Statesの認可の更新は、ジェファーソンが主導する民主党の反対で否決されました。
しかしその結果、各州の銀行が勝手に紙幣を発行したりして空前の貸出ブームとなり、インフレが起き、景気はクラッシュします。で、1816年になって、Second Bank of the United Statesがフィラデルフィアに設立されることになりました。しかしこのSecond Bankもジャクソン大統領と金融業界の反対で1836年に認可の更新に失敗。米国は再び中央銀行がない時代に入ります。1907年に起きた金融危機の収束に際して、民間銀行のトップだったJ. Pierpont Morganが大きな役割を果たしたのには、こうした米国の事情がありました。
で、やっぱり中央銀行が必要だろうという機運が盛り上がり、中央銀行支持のNelson Aldrich上院議員らのグループがドイツ生まれのPaul Warburgに計画策定を託します。一部の銀行にだけ特権を与えるような制度には反対が強いことを考慮して、ウォーバーグは1911年、それぞれが債券引き受けの権限を持った15の地域銀行で構成されるNational Reserve Associationの設立計画を発表。各銀行のトップは地域の民間銀行によって選ばれるという仕組みを公表しました。
ただ、Aldrichの娘がロックフェラー家に嫁いでいたことから、この計画には「ロックフェラーを利するだけのものだろう」という印象を持たれてしまいます。また計画を策定したグループのなかにNational City Bank(シティグループの前身)のトップが含まれていたことも疑念をかきたてました。しかしその後、約2年間の審議を経て、トップが民間銀行によって選ばれる地区銀行の連合体を作り、それにFederal Reserve Boardが監視の目を光らせるという体制が作られることになりました。1913年のことです。同時に米国の銀行が海外に支店を持つことも認められるようになりました。
その後、第一次世界大戦が始まると、米国の輸出は急増。世界経済における米国の存在感は急速に大きくなって、米国は債務国から債権国に転じます。戦争で現金が足りなくなったドイツや英国は債券の引き受けをニューヨークの銀行に頼むようになります。この取引はドル建てで行われるようになりました。1915年ごろにはポンドと金の交換レートが不安定になる一方で、米ドルは金との交換レートが強く固定されていました。すると世界中の市場参加者が「ビジネスをするにはドル建てが一番だ」と考えるようになります。
米国政府はとりあえずはドル・ポンドレートの維持に協力しますが、英国の戦費拡大やインフレを背景にポンドに対する信頼は失墜。戦後になって米国がレート維持への協力を取り下げると、ポンドのレートは弱くなっていきます。こうしたなかで、National City Bankなど米国の銀行が海外業務を拡大していきます。
ただ、それでもニューヨークの債券市場の深みは、現役王者のロンドンには敵いません。そこでニューヨーク連銀の総裁だったBenjamin Strongが各地区連銀に対して債券を活発に引き受けるように指示。海外の中央銀行などからも債券を引き受けるようになります。こうした取り組みの結果、ドル建て取引の人気は高まり、1920年代後半には米国の輸出入の半分以上がドル建てとなり、米国を介さない第三国同士での取引でもドル建ての比率が増していきます。
また米国は欧州の復興資金を供給するようになります。英国は欧州各国に「米国ではなく、国際連盟(米国は非加盟)を通じて資金を調達しよう」と呼びかけますが、ストロングは欧州への貸出を積極的に推進することで対抗し、ドルの国際化がどんどん進んでいくことになりました。
しかし経験不足の米国の銀行は欧州の質の悪いプロジェクトにも資金を供給してしまい不良債権化が進行。1920年代の終わりには借り換えも続けられないようになって、世界恐慌につながっていくことになります。
世界恐慌の時代、各国政府は関税引き上げなどの保護主義的な政策をとり、世界の貿易量が減っていきます。貸し付けを回収できなくなった銀行は世界中で破綻。世界中というのは、アルゼンチン、メキシコ、オーストリア、ベルギー、フランス、ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、バルト各国、エジプト、トルコ、英国っていうことですから、本当に世界中です。
英国なんかは資金流出を防ぐために利上げをしたいところでしたが、利上げをすると景気に悪影響が出ます。英国のためらいを察した投資家はポンド売りを加速させ、英国は1931年9月にポンドの金兌換を停止します。一方、ニューヨーク連銀はドル防衛のため、利上げを実施。結果、ドルの資金流出の危機は収まりますが、調達コストが増した金融機関は数多く破綻することになります。
英米の異なる金融政策の結果、1ポンド=4.86ドルだったレートは、1931年12月には1ポンド=3.25ドルまでポンド安が進みました。すると英国にとっては輸出が楽になるわけで、英国で緩やかな景気回復が始まります。英国はこれを好機とみて、利下げに踏み切って"cheap money"政策をとります。米国も1933年に金兌換を停止。1936年までには各国も同様の政策をとります。世界恐慌のダメージは英国よりも米国の方が大きく、長かったため、国際経済におけるドルの地位は後退しました。
しかし第二次世界大戦後の世界は別です。世界の主要国のなかで強さを維持できたのは米国だけだったからです。米国は金1オンスを35ドルで売ると約束したため、価値が保証されたドルは世界中の取引で使用されることになります。また、各国の中央銀行は金を蓄えるという選択肢もありましたが、当時の主な金の産出国はソ連と南アフリカで、金は十分に供給されていませんでした。
で、ここがキモですが、著者は
American consumers and investors could acquire foreign goods and companies without their government having to worry that the dollar used in their purchases would be presented for conversion into gold. Instead those dollars were hoarded by central banks, for which they were the only significant source of additional international reserves. America was able to run a balance-of-payments deficit "without tears," in the words of the French economist Jacques Rueff. This ability to purchase foreign goods and companies using resources conjured out of thin air was the exorbitant privilege of which French Finance Minister Valery Giscard d'Estaing so vociferously complained.
と書いています。
訳しますと、
米国の消費者や投資家が外国の製品や企業を買った場合でも、米国政府は(海外の売り手から)支払いに使われたドルを金に交換するように要求されることを心配する必要もなかった。むしろ、支払いに使われたドルは海外の中央銀行に蓄えられた。こうした取引は海外の中央銀行にとって、準備資金を調達するための唯一の手段だった。フランスの経済学者、ジャック・ルエフの言葉を借りるなら、米国は「涙を流すことなしに」貿易赤字を出すことができる。空気のなかから魔法のように取り出された資金を使って外国の製品や企業を買うことができる能力は、フランスのジスカール・デスタン財務相が強く不満を示した途方もない特権だった。
ということですね。
つまり、米国だけが自国通貨であるドルを発行しさえすれば、自由に他国から物資を買うことができるという状況です。
ただし第二次世界大戦後の各国は米国に売るような製品を作ることはできない状況です。なので米国はマーシャルプランやドッジプランのようなかたちで、欧州や日本の復興のための資金を拠出します。マーシャルプランは1年目、米国の連邦予算の10%を占める規模でしたから、とんでもない大盤振る舞いでした。この結果、1950年代の終わりには「ドル不足」は解消されます。
それと並行して、1960年には、各国が保有するドルの額は米国が保有する金の量を超えました。各国のドル保有者が一斉に金への兌換を求めれば、米国は対応しきれない状況で、このままでは各国が保有するドルの価値が値下がりする恐れがあります。一方、だからといって米国がドルの供給を止めてしまえば、ドル不足が再燃して世界の経済活動が停滞してしまう。いわゆる「トリフィンのジレンマ」です。
こうしたなか、各国には「米国はドルの金への兌換に応じられるように、先手を打って金の価格を引き上げる(ドル金レートを引き下げる)のではないか」という観測が生じます。そうなると各国は「今のうちにドルを金に交換してしまおう」という誘惑にかられます。
つまり、米国が1オンス=35ドルでの交換を保証しているなか、ロンドン市場での金の取引価格は1オンス=35ドルで推移しています。しかし将来的に米国が金の価格を引き上げるのであれば、今のうちにロンドン市場で金を買っておいて、後になって金を米国に持ち込めば利益を出すことができます。こうした思惑のなかで、ロンドン市場では金の価格が値上がりします。ウィキペディアによると、大統領選があった1960年の終わりにはロンドン市場の金価格は1オンス=40ドルを超えました。
そこで米国は1961年に「金プール」を提案します。各国が金をプールに拠出し、金を買う動きが強まった場合に「金売りドル買い」を浴びせることで、市場での金とドルの交換レートを維持しようという狙いです。こうしたプールを作るだけで、各国の「金買いドル売り」の誘惑を抑え込むこともできます。
しかし1965年になってソ連や南アフリカによる金の供給が落ち込むと、金買いの圧力が強まり、各国は実際に金売りを始めざるをえなくなります。となると、値下がりが続くドルを買い続けることになるわけですから、各国は厳しい状況に追い込まれ、1967年にはフランスがプールから脱退します。
また1967年には第三次中東戦争が起きて、スエズ運河が閉鎖される事態に発展。アラブ各国はイスラエルを支援していた英国への報復としてポンド売りを始め、英国はポンドの14%切り下げに追い込まれます。するとドルへの不安も高まり、ドルを売って金を買う動きが進みます。金プール参加国はドルの防衛を続けることができず、米国は1968年3月、英国に対してロンドンの金市場を閉鎖するように提案。金市場を自由に取引できる市場と、各国の中央銀行が1オンス=35ドルでの交換を保証する市場に分けることになります。ただ、これは単なる弥縫策にすぎません。
一方、1969年にニクソン大統領が就任した米国は、ドル危機は欧州各国が米国の防衛費を負担し、米国に市場を開放することで解消されるべきだという立場をとります。
いまいち、よく分からない理屈ですが、「第二次世界大戦後、米国が世界にドルを供給してきたことがドルの信任低下につながったのだから、ドルを米国に環流させればドル危機も解消される」ということだったのでしょうか。
さらに米国は、欧州が要求に応じない場合には、次の手段をとると脅迫します。すると、こうした米欧の対立は投資家の不安をあおり、米国の思惑とは裏腹にドルを売って金を買う動きが加速。この結果、1971年8月、米国はドルの金兌換停止を発表しました。ニクソン・ショックです。
このとき、ニクソンは同時に米国企業を守るために10%の関税引き上げを発表します。米国が通貨防衛に敗れたとの印象を避ける効果も狙っていました。
ニクソンは1971年12月のスミソニアン協定で、この上乗せ関税を取り下げることと引き替えに、各国に対してドル安水準での固定相場を維持することを約束させます。さらにニクソンは1972年の大統領選前に景気を浮揚させることを狙って、FRBに対して金融緩和するよう圧力をかけます。この結果、米国でインフレが始まり、ドル売り圧力も高まります。スミソニアン体制は1973年に終焉を迎え、各国は変動相場制に移行していきます。
こうなると、「ドルの信頼はガタ落ちじゃないか。ドルは国際基軸通貨の座を追われてしまうの?」っていう気もしますが、実際にはそうはなりませんでした。ゴルのレートは引き下げられたものの、各国の中央銀行に占めるドルの割合は大きく変化しませんでした。変動相場になったといっても、一方的にずーっとドルが値下がりを続けたわけではなかったからです。
ただし、1970年代後半になると、米国でインフレが始まります。ドル安要因です。一方、カーター政権のブルーメンソール財務長官は1977年夏に「ドルが強すぎる」と発言。ドル安を望んでいることを示唆しました。つまり、ドル安を容認するということです。すると、欧州から「ドル安になったら、欧州の輸出が苦しくなる。米国はドル安容認を止めろ」という声があがり、ブルーメンソールは一転して「強いドル」の支持を表明します。
1978年3月にFRB議長になったウィリアム・ミラーはとにかく雇用の増大を重視すべきだという人で、中央銀行がインフレを抑制する能力は乏しいと考えている人でした。FRB外のアラン・グリーンスパンやチャールズ・シュルツらはインフレを抑えるために金融を引き締めるべきだとの声が上がっていましたが、ミラーは抵抗します。すると、当然ながら、ドルが安くなっていきます。ドルが安くなると、欧州に駐留する米軍の負担が大きくなるという問題が起きますし、もちろん米国外のドル保有者にも損が出ます。
そんなわけで1979年8月、ポール・ボルカーがFRB議長に就任します。利上げを行って、ドル高が始まります。やはりドルは基軸通貨であり続けます。そもそも、ドル以外の通貨に、基軸通貨となるような実力がないのが実情です。
で、ここまでが第3章です。この本は第7章まであります。非常に長くなってきたので、このあたりで止めます。
第4章以降では、欧州でユーロが創設される話やリーマン・ショックの話、ユーロや円がドルを凌駕する基軸通貨になりきれない理由などです。SDRの話も結構出てきます。
中国の人民元については第3章までも折に触れて言及されていますが、「国際通貨としての存在感を増してはいるし、中国政府も基軸通貨にしようと努力を続けている。このあたりはかつての米国とよく似ている。ただし、ドルがポンドをしのぐ基軸通貨となれたのは、第二次世界大戦後の英国経済の失墜という要因があった。米国経済が健全さを保ち続けることができれば、現役王者であるドルが人民元に完全に負けてしまうことはない」という話です。
あと、今になってざっとチェックしてたところ、レーガン政権下での1985年のプラザ合意の話が出てきません。日本にとっては非常に大事な話なので残念ですけど、また別の機会に勉強します。
いずれにしろ大変勉強になりました。
読み終わったのは10月のなかばごろです。とてもためになる本だったので、なるべく詳しく内容をまとめておこうと思ったのですが、書いているうちに膨大な量になることに気づいてほったらかしになっていました。とりあえず、途中までの内容を仕上げておきます。
国際基軸通貨というと、分かったような分からないような概念なわけですが、要は「世界中の人が安心して受け取ってくれる通貨」ということです。著者は冒頭で、このことを分かりやすい例を挙げて説明しています。
それは、
・1940年代を舞台にした映画で、ホロコーストの生還者がモンテカルロのカジノにスーツケース一杯の現金を持ち込むシーンがある。その現金は当時のモンテカルロの公式な通貨であったフランではなくて、米ドルだった。
・現在でもブラックマーケットで通用する通貨といえば米ドルでしかない。
分かりやすいですね。第二次世界大戦のころの欧州のような政治的にも経済的にも混乱している場所で、人々が安心して価値を認めるものといえば米ドルだった。また、ブラックマーケットのような公式な権威がない世界でもやはり米ドルが信頼される。そりゃそうでしょう。ブラックマーケットでドラッグを取引するとき、北朝鮮かなんかの通貨で支払いをするといったら怒られますよね。
で、なんで米ドルが信頼されるかというと、世界中のどこででも受け取ってもらえるからです。ドラッグを売ったギャングが受け取った米ドルでマシンガンを買おうと思ったら、やっぱり米ドルでの支払いを要求されるわけですね。米ドルの価値は他の通貨に比較的安定した価値で交換してもらえると信じられていることも理由です。ギャングがフランスのニースかなんかで別荘を買おうと思ったとき、米ドルをユーロに交換してもらうことは難しくない。それにギャングは為替レートがそんなに急激に米ドル安に触れることはないだろうとも考えているわけです。もちろん実際には米ドルが安くなることはあるわけですが、それでもユーロを含めた他の通貨よりも安定しているということですね。
で、著者は、
“What is true of illicit transaction is true equally of legitimate business.”
と続けます。米ドルが国際通貨であるこということは、世界中の政府や中央銀行や企業や消費者が、ギャングたちと同じように考えているということです。なるほど。
実際の話として、世界の中央銀行が保有している準備資産の多くは米ドルです。米ドルの価値が安定してると考えられているからですね。世界で行われている商取引の多くが米ドルなのも、米ドルを受け取れば、それを支払いにも使えるからです。
で、なんでそんな風になっているかというと、米国の経済が大きいからです。
米国企業はたくさんの製品や資源を輸入しています。このとき、米国は米ドル建てで支払いをしたい。なぜなら、米国企業は米国内での経済活動で米国の消費者からたくさんの米ドルを集めていて、手元にたくさん米ドルがあるからです。もちろん米ドルを他国の通貨に交換したうえで支払うことも可能ですが、それには手間がかかるし、金融機関に手数料もとられます。
一方、製品や資源を米国に輸出する側の国は、できれば自分たちの国の通貨でお金を受け取りたい。米ドルを受け取っても、自国で働いている従業員の賃金支払いには使えないし、自国の生産拠点の設備投資には使えないからです。そのためには、米ドルを自国通貨に交換しなければならないわけですが、それには手間もかかるし、金融機関に手数料もとられます。
で、どっちの主張が通るかというと、米国なのです。というのは、米国はたくさんの製品や資源やサービスを輸出している国でもあるからです。米国に製品や資源を輸出する側が米ドル建てで代金を受け取った場合、今度はその米ドルを米国から製品や資源やサービスを輸入するときに使える。だから、米ドルを受け取ることへの抵抗感が比較的少ないわけです。
つまり、米国にモノを売る国が米国から「米ドルで支払っていい?」と聞かれたら、「いいよ。受けとった米ドルは次に米国からモノを買うときに使えるからね」と答えることが多いということですね。
これが米ドルが国際基軸通貨であるという状況です。この結果、米国企業は米ドルを他国通貨に交換する手間やその際の手数料を省くことができます。これが著者のいう”exorbitant privilege”のひとつです。この言葉は、フランスのジスカール・デスダンが言い出した言葉だそうです。
こうした米国の特権はほかにもあります。それは米ドルが国際基軸通貨であることで、米国の政府や企業は安い金利で資金を調達できるということです。
どういうことかというと、米ドルは国際的に流通して、他の通貨との交換も容易で、すでに各国に蓄えられていますから、米国がドル建てでお金を借りたくなったとき、世界中から「貸してもいいよ」という人たちがたくさん現れます。だから、米国側はそのなかから一番安い金利で貸してくれる人をみつけることができるというわけです。
一方で米国は他国に対して投資もしていて、その結果として利子や配当などのリターンを得ています。つまりは米国は全体として、他国からお金を調達しながら、他国へお金を投資しているわけですが、調達するときのコストが安いために、全体としての勘定がプラスになります。著者によると、「米国が支払う利子は、米国が受け取る利回りよりも2~3%低い」とのことです。
著者はこの説明のあと、”The U.S. can run an external deficit in the amount of this difference, importing more than it exports and consuming more than it produces year after year without becoming more indebted to the rest of the world. Or it can scoop up foreign companies in the amount as the result of the dollar’s singular status as the world’s currency.”と続けています。
ここは国際収支統計上の、経常収支赤字=資本収支黒字+外貨準備増減っていう関係の話をしているように思います。でも、「米ドルは基軸通貨で調達コストが安いから、経常赤字を出すことができる」っていうロジックになるのかどうかはよく分かりません。大事なところですけどね。また勉強します。
とまぁ、こういう風に米国は米ドルが国際基軸通貨であることで、さまざまな特権を得ているということになります。ただ米ドルが国際基軸通貨である理由は、米国経済が大きいからです。だから、米国は何もズルをしているわけじゃなくて、強い国だから特をしているんだというわけですね。
では、この米ドル国際基軸通貨体制が今後も続いていくかということになるわけですが、それを判断するには歴史をひもとく必要があります。なぜなら米ドルは世界が始まったときから国際基軸通貨だったわけではないからです。
当たり前の話ですが、北米大陸に欧州から人々が移住し始めたころには米ドルという通貨はありませんでした。1600年代の初めごろは、先住民との交易には”wampum”(貝殻)を公式な通貨として使っていたそうです。
ところが貝殻が足りなくなってくると、トウモロコシやタバコが使われるようになります。そして、そうなると、入植者たちには低い品質のタバコをたくさん栽培し始めます。そうすると、タバコを受け取る方は「こんな低い品質のタバコはいらないな」なんていうことになって、タバコの価値が低下する。となると一部の入植者が他の人のタバコ畑を荒らしたりする。そんな時代だったそうです。
当時の英国は植民地で貨幣を鋳造することを禁止していました。だから入植者たちが貨幣を手に入れるには、英国などに農産品とか魚などを輸出するのが公式な手段でした。また海賊行為で貨幣を手に入れるというパターンもあった。こうして北米大陸ではスペインの通貨が流通するようになります。このスペインの通貨がロンドンでは”Spanish dollar”と呼ばれていて、これが米ドルの始まりです。さらに貨幣が足りなくなってくると、”bills of credit”つまりは支払手形も通貨の代わりとして流通するようになります。ただし、英国の議会は1751年、借用書を通貨として使うことを禁止。このことが米国の独立戦争につながっていきます。
ここは勝手な解釈ですけど、「貝殻が足りない」とか「貨幣が足りない」とかいう状況がどんなものかを考えてみます。
例えば、入植者たちが先住民にビーバーの毛皮が欲しいと話しを持ちかけたところ、先住民たちが「貝殻とだったら交換してもいい」と言ったとします。さらに入植者たちはトウモロコシなら持っているけど、貝殻は持っていないとします。となると、入植者たちはどこかでトウモロコシを貝殻に交換してこなければならないわけですが、近くにトウモロコシと貝殻を交換したいと思っている先住民や入植者がいないことだってある。そんな場合は、入植者が先住民に対して、「申し訳ないけど、貝殻はないんだ。でもトウモロコシならあるから、トウモロコシとビーバーの毛皮を交換してくれないか」と持ちかけるしかない。そこで先住民側が「いいよ。トウモロコシと貝殻を交換したがっている友達がいるからね」ということになれば、「貝殻が足りなかったけど、トウモロコシが貝殻の代わりになって取引が成立した」ということになる。こんな感じでしょうか。
貨幣が足りないという状況も勝手に解釈してみると、陶器作りが得意な入植者が別の入植者からパンを買おうと思ったけれど、手元に貨幣がない。でも、何日か前に陶器を売ったとき、買い手から「1週間後に払うよ」と約束してもらった際の支払い手形なら手元にある。そこでパンを売っている入植者に、「この支払い手形を受け取ってくれないか。貨幣は1週間後に陶器を買った人から回収してよ」ということになる。そこでパンの売り手が「いいよ。その陶器を買った人は信用できる人だからね」ということになれば、「支払い手形が貨幣の代わりになって取引が成立した」ということになる。こんな感じじゃないですかね。
でも、本来ならトウモロコシは貨幣じゃないし、支払い手形も貨幣じゃない。だから受け取る側が「そんなもの受け取れないよ」ということだってありえる。そうなると、ビーバーの毛皮を買おうと思った入植者や、パンを買おうと思った入植者は困ってしまうわけです。その結果、取引ができなくなるわけだから、入植地の経済活動全体が停滞してしまう。トウモロコシや支払い手形をすぐに貝殻や貨幣に交換してくれるだけの市場があればいいんですけどね。
で、そんなこんなしているうちに米国が1776年に独立。1785年に連邦議会が米国の通貨単位は「ドル」ですと宣言します。銀や金との交換比率も純度に応じて定められました。議会のみが貨幣を鋳造することができ、州政府がIOU(借用書)を紙幣として発行することは禁じられます。
そして当たり前の話ですが、当時の米ドルは国際通貨ではありません。
19世紀まで世界経済の中心はロンドンでした。英国人は世界各国に投資しています。外国の誰かがお金を借りたいと思ったら、ロンドンに行ってポンド建てでお金を借ります。外国政府がロンドンで資金を調達したいと思ったら、ロンドンの銀行に口座を開いて、借り入れや返済の手続きをすることになります。こうした口座は”reserve”と呼ばれるようになります。
英国は各国から綿花などさまざまな産品を輸入していました。あと、海運やそれに関連する保険業務などを行う会社もロンドンに拠点を置いています。こうした会社は決済のためにロンドンの銀行に口座を開きます。もちろんポンド建てです。
こうしたロンドン中心の商取引は米国の企業家にとっては不便なものでした。例えば、ニューヨークの企業家がブラジルからコーヒー豆を輸入しようと思ったら、ニューヨークの銀行とロンドンの銀行とブラジルの銀行の間で、ものすごく煩雑な手続きが必要になり、その度に手数料や何やらをとられてしまいます。しかも、これらの取引はポンド建てですから、ポンドの価値がドルに対して下がった場合には損が出る可能性もあります。また、米国の銀行や保険会社がこうした商取引に関連する業務に参入しようとしても、英国の銀行や保険会社には敵いません。取引はロンドンでポンド建てで行われているからです。
一方、米国は急速に経済力をつけていきます。1870年までに米国のモノやサービスの生産量は英国を追い抜き、1912年までには輸出量でも英国をしのぎます。でも、英ポンドは国際基軸通貨であり続けます。
その理由はいろいろありますが、金融サービスの業務が英国に集中し、資金を集めようとする人が投資をしようとする人たちがロンドンに集まっていること自体が、ロンドンの優位性を高めていたという事情が大きかった。つまり市場参加者が多いために、調達する側はより安い金利で調達できるし、投資する側も優良な投資先を見つけられるということです。「現役王者の強み」ですね。
また、米国は銀行が海外に支店を持つことを禁じていました。さらに米国では中央銀行すらないという状況だった。ロンドンでは銀行が現金を必要とするようになれば、手持ちの債券をBOEに引き受けてもらって現金を手にすることができましたが、米国ではそうしたことができなかったわけです。
米国では1791年、ハミルトンが主導してフィラデルフィアにthe Bank of the United Statesが設立されました。州をまたいで営業できる唯一の銀行で、連邦政府の財政も管理することになります。ハミルトンの狙いはBOEのような中央銀行を作ることでした。しかしジェファーソンやマディソンは、一部の銀行に特権的な地位を与えることについて、「エリートによる米国金融業界の独占支配」の危険を感じ取ります。The Bank of the United Statesが提示するレートが悪かったり、一部の銀行の独占的な地位に監視の目をきかせるようになると、「エリートによる介入だ」と不満を感じるようになったわけです。
そんなわけで、1810年に迎えたThe Bank of the United Statesの認可の更新は、ジェファーソンが主導する民主党の反対で否決されました。
しかしその結果、各州の銀行が勝手に紙幣を発行したりして空前の貸出ブームとなり、インフレが起き、景気はクラッシュします。で、1816年になって、Second Bank of the United Statesがフィラデルフィアに設立されることになりました。しかしこのSecond Bankもジャクソン大統領と金融業界の反対で1836年に認可の更新に失敗。米国は再び中央銀行がない時代に入ります。1907年に起きた金融危機の収束に際して、民間銀行のトップだったJ. Pierpont Morganが大きな役割を果たしたのには、こうした米国の事情がありました。
で、やっぱり中央銀行が必要だろうという機運が盛り上がり、中央銀行支持のNelson Aldrich上院議員らのグループがドイツ生まれのPaul Warburgに計画策定を託します。一部の銀行にだけ特権を与えるような制度には反対が強いことを考慮して、ウォーバーグは1911年、それぞれが債券引き受けの権限を持った15の地域銀行で構成されるNational Reserve Associationの設立計画を発表。各銀行のトップは地域の民間銀行によって選ばれるという仕組みを公表しました。
ただ、Aldrichの娘がロックフェラー家に嫁いでいたことから、この計画には「ロックフェラーを利するだけのものだろう」という印象を持たれてしまいます。また計画を策定したグループのなかにNational City Bank(シティグループの前身)のトップが含まれていたことも疑念をかきたてました。しかしその後、約2年間の審議を経て、トップが民間銀行によって選ばれる地区銀行の連合体を作り、それにFederal Reserve Boardが監視の目を光らせるという体制が作られることになりました。1913年のことです。同時に米国の銀行が海外に支店を持つことも認められるようになりました。
その後、第一次世界大戦が始まると、米国の輸出は急増。世界経済における米国の存在感は急速に大きくなって、米国は債務国から債権国に転じます。戦争で現金が足りなくなったドイツや英国は債券の引き受けをニューヨークの銀行に頼むようになります。この取引はドル建てで行われるようになりました。1915年ごろにはポンドと金の交換レートが不安定になる一方で、米ドルは金との交換レートが強く固定されていました。すると世界中の市場参加者が「ビジネスをするにはドル建てが一番だ」と考えるようになります。
米国政府はとりあえずはドル・ポンドレートの維持に協力しますが、英国の戦費拡大やインフレを背景にポンドに対する信頼は失墜。戦後になって米国がレート維持への協力を取り下げると、ポンドのレートは弱くなっていきます。こうしたなかで、National City Bankなど米国の銀行が海外業務を拡大していきます。
ただ、それでもニューヨークの債券市場の深みは、現役王者のロンドンには敵いません。そこでニューヨーク連銀の総裁だったBenjamin Strongが各地区連銀に対して債券を活発に引き受けるように指示。海外の中央銀行などからも債券を引き受けるようになります。こうした取り組みの結果、ドル建て取引の人気は高まり、1920年代後半には米国の輸出入の半分以上がドル建てとなり、米国を介さない第三国同士での取引でもドル建ての比率が増していきます。
また米国は欧州の復興資金を供給するようになります。英国は欧州各国に「米国ではなく、国際連盟(米国は非加盟)を通じて資金を調達しよう」と呼びかけますが、ストロングは欧州への貸出を積極的に推進することで対抗し、ドルの国際化がどんどん進んでいくことになりました。
しかし経験不足の米国の銀行は欧州の質の悪いプロジェクトにも資金を供給してしまい不良債権化が進行。1920年代の終わりには借り換えも続けられないようになって、世界恐慌につながっていくことになります。
世界恐慌の時代、各国政府は関税引き上げなどの保護主義的な政策をとり、世界の貿易量が減っていきます。貸し付けを回収できなくなった銀行は世界中で破綻。世界中というのは、アルゼンチン、メキシコ、オーストリア、ベルギー、フランス、ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、バルト各国、エジプト、トルコ、英国っていうことですから、本当に世界中です。
英国なんかは資金流出を防ぐために利上げをしたいところでしたが、利上げをすると景気に悪影響が出ます。英国のためらいを察した投資家はポンド売りを加速させ、英国は1931年9月にポンドの金兌換を停止します。一方、ニューヨーク連銀はドル防衛のため、利上げを実施。結果、ドルの資金流出の危機は収まりますが、調達コストが増した金融機関は数多く破綻することになります。
英米の異なる金融政策の結果、1ポンド=4.86ドルだったレートは、1931年12月には1ポンド=3.25ドルまでポンド安が進みました。すると英国にとっては輸出が楽になるわけで、英国で緩やかな景気回復が始まります。英国はこれを好機とみて、利下げに踏み切って"cheap money"政策をとります。米国も1933年に金兌換を停止。1936年までには各国も同様の政策をとります。世界恐慌のダメージは英国よりも米国の方が大きく、長かったため、国際経済におけるドルの地位は後退しました。
しかし第二次世界大戦後の世界は別です。世界の主要国のなかで強さを維持できたのは米国だけだったからです。米国は金1オンスを35ドルで売ると約束したため、価値が保証されたドルは世界中の取引で使用されることになります。また、各国の中央銀行は金を蓄えるという選択肢もありましたが、当時の主な金の産出国はソ連と南アフリカで、金は十分に供給されていませんでした。
で、ここがキモですが、著者は
American consumers and investors could acquire foreign goods and companies without their government having to worry that the dollar used in their purchases would be presented for conversion into gold. Instead those dollars were hoarded by central banks, for which they were the only significant source of additional international reserves. America was able to run a balance-of-payments deficit "without tears," in the words of the French economist Jacques Rueff. This ability to purchase foreign goods and companies using resources conjured out of thin air was the exorbitant privilege of which French Finance Minister Valery Giscard d'Estaing so vociferously complained.
と書いています。
訳しますと、
米国の消費者や投資家が外国の製品や企業を買った場合でも、米国政府は(海外の売り手から)支払いに使われたドルを金に交換するように要求されることを心配する必要もなかった。むしろ、支払いに使われたドルは海外の中央銀行に蓄えられた。こうした取引は海外の中央銀行にとって、準備資金を調達するための唯一の手段だった。フランスの経済学者、ジャック・ルエフの言葉を借りるなら、米国は「涙を流すことなしに」貿易赤字を出すことができる。空気のなかから魔法のように取り出された資金を使って外国の製品や企業を買うことができる能力は、フランスのジスカール・デスタン財務相が強く不満を示した途方もない特権だった。
ということですね。
つまり、米国だけが自国通貨であるドルを発行しさえすれば、自由に他国から物資を買うことができるという状況です。
ただし第二次世界大戦後の各国は米国に売るような製品を作ることはできない状況です。なので米国はマーシャルプランやドッジプランのようなかたちで、欧州や日本の復興のための資金を拠出します。マーシャルプランは1年目、米国の連邦予算の10%を占める規模でしたから、とんでもない大盤振る舞いでした。この結果、1950年代の終わりには「ドル不足」は解消されます。
それと並行して、1960年には、各国が保有するドルの額は米国が保有する金の量を超えました。各国のドル保有者が一斉に金への兌換を求めれば、米国は対応しきれない状況で、このままでは各国が保有するドルの価値が値下がりする恐れがあります。一方、だからといって米国がドルの供給を止めてしまえば、ドル不足が再燃して世界の経済活動が停滞してしまう。いわゆる「トリフィンのジレンマ」です。
こうしたなか、各国には「米国はドルの金への兌換に応じられるように、先手を打って金の価格を引き上げる(ドル金レートを引き下げる)のではないか」という観測が生じます。そうなると各国は「今のうちにドルを金に交換してしまおう」という誘惑にかられます。
つまり、米国が1オンス=35ドルでの交換を保証しているなか、ロンドン市場での金の取引価格は1オンス=35ドルで推移しています。しかし将来的に米国が金の価格を引き上げるのであれば、今のうちにロンドン市場で金を買っておいて、後になって金を米国に持ち込めば利益を出すことができます。こうした思惑のなかで、ロンドン市場では金の価格が値上がりします。ウィキペディアによると、大統領選があった1960年の終わりにはロンドン市場の金価格は1オンス=40ドルを超えました。
そこで米国は1961年に「金プール」を提案します。各国が金をプールに拠出し、金を買う動きが強まった場合に「金売りドル買い」を浴びせることで、市場での金とドルの交換レートを維持しようという狙いです。こうしたプールを作るだけで、各国の「金買いドル売り」の誘惑を抑え込むこともできます。
しかし1965年になってソ連や南アフリカによる金の供給が落ち込むと、金買いの圧力が強まり、各国は実際に金売りを始めざるをえなくなります。となると、値下がりが続くドルを買い続けることになるわけですから、各国は厳しい状況に追い込まれ、1967年にはフランスがプールから脱退します。
また1967年には第三次中東戦争が起きて、スエズ運河が閉鎖される事態に発展。アラブ各国はイスラエルを支援していた英国への報復としてポンド売りを始め、英国はポンドの14%切り下げに追い込まれます。するとドルへの不安も高まり、ドルを売って金を買う動きが進みます。金プール参加国はドルの防衛を続けることができず、米国は1968年3月、英国に対してロンドンの金市場を閉鎖するように提案。金市場を自由に取引できる市場と、各国の中央銀行が1オンス=35ドルでの交換を保証する市場に分けることになります。ただ、これは単なる弥縫策にすぎません。
一方、1969年にニクソン大統領が就任した米国は、ドル危機は欧州各国が米国の防衛費を負担し、米国に市場を開放することで解消されるべきだという立場をとります。
いまいち、よく分からない理屈ですが、「第二次世界大戦後、米国が世界にドルを供給してきたことがドルの信任低下につながったのだから、ドルを米国に環流させればドル危機も解消される」ということだったのでしょうか。
さらに米国は、欧州が要求に応じない場合には、次の手段をとると脅迫します。すると、こうした米欧の対立は投資家の不安をあおり、米国の思惑とは裏腹にドルを売って金を買う動きが加速。この結果、1971年8月、米国はドルの金兌換停止を発表しました。ニクソン・ショックです。
このとき、ニクソンは同時に米国企業を守るために10%の関税引き上げを発表します。米国が通貨防衛に敗れたとの印象を避ける効果も狙っていました。
ニクソンは1971年12月のスミソニアン協定で、この上乗せ関税を取り下げることと引き替えに、各国に対してドル安水準での固定相場を維持することを約束させます。さらにニクソンは1972年の大統領選前に景気を浮揚させることを狙って、FRBに対して金融緩和するよう圧力をかけます。この結果、米国でインフレが始まり、ドル売り圧力も高まります。スミソニアン体制は1973年に終焉を迎え、各国は変動相場制に移行していきます。
こうなると、「ドルの信頼はガタ落ちじゃないか。ドルは国際基軸通貨の座を追われてしまうの?」っていう気もしますが、実際にはそうはなりませんでした。ゴルのレートは引き下げられたものの、各国の中央銀行に占めるドルの割合は大きく変化しませんでした。変動相場になったといっても、一方的にずーっとドルが値下がりを続けたわけではなかったからです。
ただし、1970年代後半になると、米国でインフレが始まります。ドル安要因です。一方、カーター政権のブルーメンソール財務長官は1977年夏に「ドルが強すぎる」と発言。ドル安を望んでいることを示唆しました。つまり、ドル安を容認するということです。すると、欧州から「ドル安になったら、欧州の輸出が苦しくなる。米国はドル安容認を止めろ」という声があがり、ブルーメンソールは一転して「強いドル」の支持を表明します。
1978年3月にFRB議長になったウィリアム・ミラーはとにかく雇用の増大を重視すべきだという人で、中央銀行がインフレを抑制する能力は乏しいと考えている人でした。FRB外のアラン・グリーンスパンやチャールズ・シュルツらはインフレを抑えるために金融を引き締めるべきだとの声が上がっていましたが、ミラーは抵抗します。すると、当然ながら、ドルが安くなっていきます。ドルが安くなると、欧州に駐留する米軍の負担が大きくなるという問題が起きますし、もちろん米国外のドル保有者にも損が出ます。
そんなわけで1979年8月、ポール・ボルカーがFRB議長に就任します。利上げを行って、ドル高が始まります。やはりドルは基軸通貨であり続けます。そもそも、ドル以外の通貨に、基軸通貨となるような実力がないのが実情です。
で、ここまでが第3章です。この本は第7章まであります。非常に長くなってきたので、このあたりで止めます。
第4章以降では、欧州でユーロが創設される話やリーマン・ショックの話、ユーロや円がドルを凌駕する基軸通貨になりきれない理由などです。SDRの話も結構出てきます。
中国の人民元については第3章までも折に触れて言及されていますが、「国際通貨としての存在感を増してはいるし、中国政府も基軸通貨にしようと努力を続けている。このあたりはかつての米国とよく似ている。ただし、ドルがポンドをしのぐ基軸通貨となれたのは、第二次世界大戦後の英国経済の失墜という要因があった。米国経済が健全さを保ち続けることができれば、現役王者であるドルが人民元に完全に負けてしまうことはない」という話です。
あと、今になってざっとチェックしてたところ、レーガン政権下での1985年のプラザ合意の話が出てきません。日本にとっては非常に大事な話なので残念ですけど、また別の機会に勉強します。
いずれにしろ大変勉強になりました。
2016年9月29日木曜日
"American Immigration: a very short introduction"
"American Immigration: a very short introduction"という本を読んだ。David Gerverというニューヨーク州立大学バッファロー校の歴史学の教授が書いた本です。米国で何かと話題な移民問題について、歴史的な文脈をちゃんと調べておこうというつもりで読みました。簡潔で、分かりやすく、勉強になりました。
米国は1789年の建国後、3つの移民ブームがあったそうです。
1回目は1840年代から1850年代:欧州での食料危機をきっかけに、アイルランドやドイツからの移民が増える。400万人以上。農地開発が進んでいた北西部に向かう。多くはカトリック教徒だった。
2回目は1890年代から第一次世界大戦の時期:1890年代の不況をきっかけに、欧州からの移民が増える。1901年~1920年で1170万人。南欧、中欧、東欧からの移民の割合が急激に高まる。ユダヤ教とか、正教派、カトリックが含まれる。顔立ちもアングロ・アメリカンとは異なる。多くは独身の男性で、稼ぐだけ稼いで母国に帰ろうという意識が強かった。第一次大戦中は政府が移民たちに大して、米国債を買い、米軍に入隊するよう呼びかけた。
3回目は1965年の移民法の改正後の時代:第二次世界大戦後に移民の受け入れ割り当ての緩和が段階的に進められ、荒廃した欧州や共産主義化した国々から移民が増えた。西側唯一の超大国となった米国には移民への警戒も少なくなっていた。こうしたタイミングで1965年にImmigration and nationality Actが成立。各国別の移民受け入れ割り当てや人種の考慮を廃止した。東半球からの移民受け入れは年間17万人が上限(1カ国最大2万人)、西半球からは12万人が上限。ビザ発行は先着順。欧州以外からの移民が急増し、1980年代から1990年代の移民は13%が欧州からで、82%がアジアや南アメリカから。メキシコからの不法移民も増える。
もともと米国は広大な農地や資源を開発するため、大量の労働力を必要としています。産業化が始まると、工場で働く人たちも必要になる。一方、世界にはどの時代でも母国での生活に苦しんでいる人たちがたくさんいて、その人たちが米国での稼ぎや安定を夢見て自発的に米国に移り住むようになっていくわけです。日本だって、かつては大量の移民を送り出した時代がありました。そうすると次第に、米国内で出身地域別に働く業種に偏りが出てきます。アイルランド系は"ditch digger"、ポーランド系は鉄鋼業、スロバキア系は炭鉱、ユダヤ系は衣料、イタリア系は建設現場みたいな感じだったそうです。メキシコ系は農業、日本系はmarket farmer(青果とか野菜とか)、中国系は鉄道建設なんているイメージもあるみたいです。
どうしてこういう偏りが出るのかというと、各母国の重要産業みたいなものがあるのと、移民同士のネットワークがあるからです。例えば、米国で石炭を開発しようという事業家がいて、米国では人材が不足しているので労働力を海外から集めようとすれば、やはり炭鉱で働いたことがある人材を集めたいわけです。そうなると、欧州の石炭産業がある国から経験者を集めたくなる。またユダヤ人が不動産取引で差別された結果、小売りなどのビジネスに進出していったというようなパターンもあるらしい。そして、こうした移民が増えてくると、母国の仲間に手紙を出したりして、「米国なら稼げるぞ」みたいな話が広がって、さらにその国からの移民が増える。そのうち、働いている地域には移民のコミュニティーもできる。そのコミュニティーには、その国出身者向けの小売店もできたりする。そんな風にして、米国内に移民グループができてくるわけです。こうしたグループは移民の先輩から新人に対して、米国生活の習慣や文化などにについて教える「同化の教室」としての役割も果たしてきました。
そして、そうした移民グループの票を期待する政党ができたりもする。民主党は伝統的にアイルランド系やドイツ系の支持を受けてきたとのことです。1965年の移民制度改革を主導したのは、アイルランド系のケネディ大統領、ユダヤ系のEmanuel Celler下院議員、イタリア系のPeter Rodino下院議員、中国系のHiram Fong上院議員らだったとのこと。
その一方、米国にはいつの時代も反移民感情が存在します。移民は米国人の雇用を奪うとか、賃金水準を下げるとか、米国らしさを失わせるとか、そういった議論ですね。「米国は移民の国」といわれるわけですが、それだけに「反移民感情」の歴史も長いわけです。経営者たちは労働者がストライキを始めると、移民を雇うことでストライキに対抗したりします。移民たちは母国よりも条件が良ければ、喜んで働くわけです。でもそうなると労働組合は移民を敵視するようになる。やはり反移民感情が創出されるわけです。
すでに1798年にはAlien Eneimies Actが成立して、連邦政府が米国に敵対する国からの移民を逮捕し、強制送還することが認められたりしています。アイルランド系はカトリックなので、プロテスタントのアングロアメリカンからは敵視されたりもしたそうです。1864年から1917年にかけては、海外で働いたことがある労働者や犯罪者、売春婦、貧困者、乞食、結核患者、てんかん患者、精神病患者らの入国を禁じる法律が相次いで成立します。ただし、欧州からの渡航者のうち、実際に入国を拒否されたのは1%だけだったとのこと。
1921年と1924年には移民受け入れ数を各国別に割り当てる法律、Emergency Quota ActとJohson-Reed Actが成立します。ロシアで革命が起きると、移民たちの米国への愛国心が疑問視されたりもしました。あと、1930年代の世界恐慌下では数千人のメキシコ人やフィリピン人が米国人の雇用を優先させるとの理由で母国に帰されました。1954年のアイゼンハワー大統領による、"Operation Wetback"なんていうのもあります。不法移民が増えた1965年以降の反移民感情の高まりは、今のトランプ旋風の背景になるわけです。
アジア系への反発だけ抜き出してみると、1870年代にはゴールドラッシュが終息して景気が悪くなったカリフォルニアで、低賃金で働く中国人労働者への反感が高まりました。この運動を指揮したのはアイルランド生まれのDenis Kearneyという人物でWrokingmen's Partyを組織し、演説の最後は"And wahtever happens, the Chinese must go!"で締めるのが定番だったそうです。1882年には連邦政府がChinese Exclusion Actを成立させ、中国人労働者排斥の動きは1943年の同法の撤廃まで続きます。このころ、セオドア・ルーズベルトと日本政府との紳士協定で、日本からの米国本土への移民も3分の1にカットされました。日本は日露戦争後は大国として扱われていたので、中国人労働者のような一方的な法的規制にはならなかったとのこと。ただし第二次世界大戦が始まると、日系人11万人が収容所に入れられました。このうち62%は米国生まれの米国人だったそうです。ただ現在のアジア系には、教育水準が高く、倹約家で、家族やコミュニティーのつながりが強く、将来的な人種のヒエラルキーのトップには欧州系と並んでアジア系も加わるとの分析もあるそうです。
反移民感情は肌の色だけに基づくものではなく、欧州から来た白人の移民たちにも向けられます。移民たちがすでに米国にいる人たちの与える経済的な影響は肌の色には関係ないですからね。あと、移民たちがグループ化して、自分たちのコミュニティーを作るようになると、例え白人であっても「米国に馴染もうとしていない」という批判も出てくる。20世紀前半には、イタリア系移民が貧しい犯罪者の集団として蔑視されました。こういった反移民的なものの考え方は"nativism"と呼ばれます。現在でも、メキシコ系の移民が19世紀半ばに米国がメキシコから奪った領土を取り返そうとしているなんて考える人もいるらしい。
1894年に北東部の学者や政治家たちが設立したImmigration Restriction League(IRL)は、社会の不安定化の原因は野放図な移民の拡大が原因だと主張します。当時注目を集めていた優生学の影響も受けていたようです。IRLの活動は、移民への課税引き上げや、語学テストの実施、さらには移民受入数の制限につながります。また、反移民感情の裏側に人種差別があることも否定できません。筆者のGerberさんは1870年代のカリフォルニアでの反中国系移民運動の参加者たちは、中国系移民と同じ立場から経営側に賃金引き上げを求めるような運動に関わることはなかったと指摘しています。
ただ、nativistたちは全員が人種差別主義者というわけでなくて、既存の米国人たちの生活を守ろうとしているだけの人も多かったりするわけですね。だから、こうしたnativistたちの感情をくみ取ろうとする政治家が、移民の受け入れ数を制限したり、条件を厳しくするなんていう政策をとったりするわけです。そうなると、移民ブームが収束していく。でもやっぱり、労働力に対する需要は常にあって、、、、こうした繰り返しが米国の移民の歴史だということのようです。
現在の移民も経済的な理由で米国にわたってくる点では過去の移民と同じです。ただ、不法移民が多いという特徴もあります。あと非白人が多い。アジアとか南米とか、その他の途上国からの移民ですね。さらに移民が働く業種もかつての製造業から、サービス業にシフトしています。中国系ならチャイニーズレストランを始めたり、ソマリア系女性がホテルで働いたり、ジャマイカ系の看護婦とか、南アジア系のコンピューターサポートとか、そんな感じですね。結果、黒人奴隷の伝統から安価な労働力が豊富だった南部や、アッパー中西部、グレートプレーンのようなこれまで移民受け入れの経験が少なかった地域でも移民が増えています。
サミュエル・ハンチントンは、今の移民の傾向が続けば、"core Anglo-Protestant culture"が失われると懸念したそうです。ハンチントンはnativismと同一視されることを避けるため、これは人種的な意味合いではなくて米国の建国からこれまでの繁栄を支えてきた文化そのものだとしています。
ただ、筆者のGerberさんは、米国の文化は絶えず変化を続けてきたのであって、ひとつの文化によって米国の今の繁栄が成し遂げられたわけではないとします。また移民のなかに悪い人間がいることは確かですが、米国でお金を稼いで豊かになろうという移民たちが勤勉さという美徳をあわせもっていることを見過ごしてはならないとも主張しています。また米国自身も二重国籍を認めたり、資金の移動をしやすくしたりして、移民を積極的に受け入れてきたという歴史があります。そして移民たちが子供を産んで、定住するようになれば、何世代かにわたる時間をかけてでも同化が進んでいくことも明らかです。だから、こうした同化を支援するような政策をとることが重要であって、いたずらに移民を敵視するような態度は建設的ではないということです。
なんかJapanese LoverとかKen Liuの小説で読んだような話もあって面白かった。もちろん現在の米国におけるトランプ支持者の心情が何も特別なものではないということも分かります。
あと、移民を制限しようという運動は米国だけのものではなく、歴史的には豪州やニュージーランド、南アフリカ、カナダ、アルゼンチン、ブラジルなんかでもみられたという指摘もなるほどという感じです。日本だって人種的な差別感情から中国や朝鮮半島からの移民を禁止したりしています。
移民が外交政策に影響を与えたりするというのも面白いですね。何も今のイスラエル・ロビーだけの話じゃなくて、かつてはアイルランド系や東欧系が母国の独立を支援を求めたり、アラブ系がパレスチナ支援を求めたり、キューバ系がキューバ制裁を支持するよう求めたりといった歴史があるようです。第二次世界大戦中に中国系が日本への抗戦を支持し、日本製品のボイコットをしたりもした。台湾系の動きは、以前、Robert Sutterの本で出てきました。
最後にちょっと気になるのが本の終盤で出てきた、
"Yet such findings also suggest the depths of an ongoing crisis that is not sufficiently addressed: the stagnant position of members of America's largest domestic racial minority, African Americans, many of whom are being overtaken and passed by, as immigrants move into the mainstream. It remains a bitter irony in the midst of celebrations of immigrant achievements that programs, such as affirmative action in hiring or in college admissions, which were developed in the mid-twentieth century following civil rights protests to address long-standing institutional racism and to assist African Americans, have been utilized more successfully by non-white immigrants to speed their own entrance into the mainstream. The government has allowed the application of such programs to immigrants of color and their children in the service of the laudable goals of immigrant assimilation and multicultural diversity in workplaces and educational institutions. But the ongoing neglect of their original intentions is no credit to American policy."
という記述。
最後の一文は「米国の公共政策にとって名誉なことではない」という意味だと思うのですが、なんでこうした政策がもたらす影響が黒人と移民の間で差があるんですかね。「文化の違いだ」と言ってしまうと、なかなかギリギリな感じもしますけど、どうなんでしょう。今の米国では"Black Lives Matter"なんていう運動もあるわけですが、こちらもなかなか根深い問題ですね。また勉強します。
米国は1789年の建国後、3つの移民ブームがあったそうです。
1回目は1840年代から1850年代:欧州での食料危機をきっかけに、アイルランドやドイツからの移民が増える。400万人以上。農地開発が進んでいた北西部に向かう。多くはカトリック教徒だった。
2回目は1890年代から第一次世界大戦の時期:1890年代の不況をきっかけに、欧州からの移民が増える。1901年~1920年で1170万人。南欧、中欧、東欧からの移民の割合が急激に高まる。ユダヤ教とか、正教派、カトリックが含まれる。顔立ちもアングロ・アメリカンとは異なる。多くは独身の男性で、稼ぐだけ稼いで母国に帰ろうという意識が強かった。第一次大戦中は政府が移民たちに大して、米国債を買い、米軍に入隊するよう呼びかけた。
3回目は1965年の移民法の改正後の時代:第二次世界大戦後に移民の受け入れ割り当ての緩和が段階的に進められ、荒廃した欧州や共産主義化した国々から移民が増えた。西側唯一の超大国となった米国には移民への警戒も少なくなっていた。こうしたタイミングで1965年にImmigration and nationality Actが成立。各国別の移民受け入れ割り当てや人種の考慮を廃止した。東半球からの移民受け入れは年間17万人が上限(1カ国最大2万人)、西半球からは12万人が上限。ビザ発行は先着順。欧州以外からの移民が急増し、1980年代から1990年代の移民は13%が欧州からで、82%がアジアや南アメリカから。メキシコからの不法移民も増える。
もともと米国は広大な農地や資源を開発するため、大量の労働力を必要としています。産業化が始まると、工場で働く人たちも必要になる。一方、世界にはどの時代でも母国での生活に苦しんでいる人たちがたくさんいて、その人たちが米国での稼ぎや安定を夢見て自発的に米国に移り住むようになっていくわけです。日本だって、かつては大量の移民を送り出した時代がありました。そうすると次第に、米国内で出身地域別に働く業種に偏りが出てきます。アイルランド系は"ditch digger"、ポーランド系は鉄鋼業、スロバキア系は炭鉱、ユダヤ系は衣料、イタリア系は建設現場みたいな感じだったそうです。メキシコ系は農業、日本系はmarket farmer(青果とか野菜とか)、中国系は鉄道建設なんているイメージもあるみたいです。
どうしてこういう偏りが出るのかというと、各母国の重要産業みたいなものがあるのと、移民同士のネットワークがあるからです。例えば、米国で石炭を開発しようという事業家がいて、米国では人材が不足しているので労働力を海外から集めようとすれば、やはり炭鉱で働いたことがある人材を集めたいわけです。そうなると、欧州の石炭産業がある国から経験者を集めたくなる。またユダヤ人が不動産取引で差別された結果、小売りなどのビジネスに進出していったというようなパターンもあるらしい。そして、こうした移民が増えてくると、母国の仲間に手紙を出したりして、「米国なら稼げるぞ」みたいな話が広がって、さらにその国からの移民が増える。そのうち、働いている地域には移民のコミュニティーもできる。そのコミュニティーには、その国出身者向けの小売店もできたりする。そんな風にして、米国内に移民グループができてくるわけです。こうしたグループは移民の先輩から新人に対して、米国生活の習慣や文化などにについて教える「同化の教室」としての役割も果たしてきました。
そして、そうした移民グループの票を期待する政党ができたりもする。民主党は伝統的にアイルランド系やドイツ系の支持を受けてきたとのことです。1965年の移民制度改革を主導したのは、アイルランド系のケネディ大統領、ユダヤ系のEmanuel Celler下院議員、イタリア系のPeter Rodino下院議員、中国系のHiram Fong上院議員らだったとのこと。
その一方、米国にはいつの時代も反移民感情が存在します。移民は米国人の雇用を奪うとか、賃金水準を下げるとか、米国らしさを失わせるとか、そういった議論ですね。「米国は移民の国」といわれるわけですが、それだけに「反移民感情」の歴史も長いわけです。経営者たちは労働者がストライキを始めると、移民を雇うことでストライキに対抗したりします。移民たちは母国よりも条件が良ければ、喜んで働くわけです。でもそうなると労働組合は移民を敵視するようになる。やはり反移民感情が創出されるわけです。
すでに1798年にはAlien Eneimies Actが成立して、連邦政府が米国に敵対する国からの移民を逮捕し、強制送還することが認められたりしています。アイルランド系はカトリックなので、プロテスタントのアングロアメリカンからは敵視されたりもしたそうです。1864年から1917年にかけては、海外で働いたことがある労働者や犯罪者、売春婦、貧困者、乞食、結核患者、てんかん患者、精神病患者らの入国を禁じる法律が相次いで成立します。ただし、欧州からの渡航者のうち、実際に入国を拒否されたのは1%だけだったとのこと。
1921年と1924年には移民受け入れ数を各国別に割り当てる法律、Emergency Quota ActとJohson-Reed Actが成立します。ロシアで革命が起きると、移民たちの米国への愛国心が疑問視されたりもしました。あと、1930年代の世界恐慌下では数千人のメキシコ人やフィリピン人が米国人の雇用を優先させるとの理由で母国に帰されました。1954年のアイゼンハワー大統領による、"Operation Wetback"なんていうのもあります。不法移民が増えた1965年以降の反移民感情の高まりは、今のトランプ旋風の背景になるわけです。
アジア系への反発だけ抜き出してみると、1870年代にはゴールドラッシュが終息して景気が悪くなったカリフォルニアで、低賃金で働く中国人労働者への反感が高まりました。この運動を指揮したのはアイルランド生まれのDenis Kearneyという人物でWrokingmen's Partyを組織し、演説の最後は"And wahtever happens, the Chinese must go!"で締めるのが定番だったそうです。1882年には連邦政府がChinese Exclusion Actを成立させ、中国人労働者排斥の動きは1943年の同法の撤廃まで続きます。このころ、セオドア・ルーズベルトと日本政府との紳士協定で、日本からの米国本土への移民も3分の1にカットされました。日本は日露戦争後は大国として扱われていたので、中国人労働者のような一方的な法的規制にはならなかったとのこと。ただし第二次世界大戦が始まると、日系人11万人が収容所に入れられました。このうち62%は米国生まれの米国人だったそうです。ただ現在のアジア系には、教育水準が高く、倹約家で、家族やコミュニティーのつながりが強く、将来的な人種のヒエラルキーのトップには欧州系と並んでアジア系も加わるとの分析もあるそうです。
反移民感情は肌の色だけに基づくものではなく、欧州から来た白人の移民たちにも向けられます。移民たちがすでに米国にいる人たちの与える経済的な影響は肌の色には関係ないですからね。あと、移民たちがグループ化して、自分たちのコミュニティーを作るようになると、例え白人であっても「米国に馴染もうとしていない」という批判も出てくる。20世紀前半には、イタリア系移民が貧しい犯罪者の集団として蔑視されました。こういった反移民的なものの考え方は"nativism"と呼ばれます。現在でも、メキシコ系の移民が19世紀半ばに米国がメキシコから奪った領土を取り返そうとしているなんて考える人もいるらしい。
1894年に北東部の学者や政治家たちが設立したImmigration Restriction League(IRL)は、社会の不安定化の原因は野放図な移民の拡大が原因だと主張します。当時注目を集めていた優生学の影響も受けていたようです。IRLの活動は、移民への課税引き上げや、語学テストの実施、さらには移民受入数の制限につながります。また、反移民感情の裏側に人種差別があることも否定できません。筆者のGerberさんは1870年代のカリフォルニアでの反中国系移民運動の参加者たちは、中国系移民と同じ立場から経営側に賃金引き上げを求めるような運動に関わることはなかったと指摘しています。
ただ、nativistたちは全員が人種差別主義者というわけでなくて、既存の米国人たちの生活を守ろうとしているだけの人も多かったりするわけですね。だから、こうしたnativistたちの感情をくみ取ろうとする政治家が、移民の受け入れ数を制限したり、条件を厳しくするなんていう政策をとったりするわけです。そうなると、移民ブームが収束していく。でもやっぱり、労働力に対する需要は常にあって、、、、こうした繰り返しが米国の移民の歴史だということのようです。
現在の移民も経済的な理由で米国にわたってくる点では過去の移民と同じです。ただ、不法移民が多いという特徴もあります。あと非白人が多い。アジアとか南米とか、その他の途上国からの移民ですね。さらに移民が働く業種もかつての製造業から、サービス業にシフトしています。中国系ならチャイニーズレストランを始めたり、ソマリア系女性がホテルで働いたり、ジャマイカ系の看護婦とか、南アジア系のコンピューターサポートとか、そんな感じですね。結果、黒人奴隷の伝統から安価な労働力が豊富だった南部や、アッパー中西部、グレートプレーンのようなこれまで移民受け入れの経験が少なかった地域でも移民が増えています。
サミュエル・ハンチントンは、今の移民の傾向が続けば、"core Anglo-Protestant culture"が失われると懸念したそうです。ハンチントンはnativismと同一視されることを避けるため、これは人種的な意味合いではなくて米国の建国からこれまでの繁栄を支えてきた文化そのものだとしています。
ただ、筆者のGerberさんは、米国の文化は絶えず変化を続けてきたのであって、ひとつの文化によって米国の今の繁栄が成し遂げられたわけではないとします。また移民のなかに悪い人間がいることは確かですが、米国でお金を稼いで豊かになろうという移民たちが勤勉さという美徳をあわせもっていることを見過ごしてはならないとも主張しています。また米国自身も二重国籍を認めたり、資金の移動をしやすくしたりして、移民を積極的に受け入れてきたという歴史があります。そして移民たちが子供を産んで、定住するようになれば、何世代かにわたる時間をかけてでも同化が進んでいくことも明らかです。だから、こうした同化を支援するような政策をとることが重要であって、いたずらに移民を敵視するような態度は建設的ではないということです。
なんかJapanese LoverとかKen Liuの小説で読んだような話もあって面白かった。もちろん現在の米国におけるトランプ支持者の心情が何も特別なものではないということも分かります。
あと、移民を制限しようという運動は米国だけのものではなく、歴史的には豪州やニュージーランド、南アフリカ、カナダ、アルゼンチン、ブラジルなんかでもみられたという指摘もなるほどという感じです。日本だって人種的な差別感情から中国や朝鮮半島からの移民を禁止したりしています。
移民が外交政策に影響を与えたりするというのも面白いですね。何も今のイスラエル・ロビーだけの話じゃなくて、かつてはアイルランド系や東欧系が母国の独立を支援を求めたり、アラブ系がパレスチナ支援を求めたり、キューバ系がキューバ制裁を支持するよう求めたりといった歴史があるようです。第二次世界大戦中に中国系が日本への抗戦を支持し、日本製品のボイコットをしたりもした。台湾系の動きは、以前、Robert Sutterの本で出てきました。
最後にちょっと気になるのが本の終盤で出てきた、
"Yet such findings also suggest the depths of an ongoing crisis that is not sufficiently addressed: the stagnant position of members of America's largest domestic racial minority, African Americans, many of whom are being overtaken and passed by, as immigrants move into the mainstream. It remains a bitter irony in the midst of celebrations of immigrant achievements that programs, such as affirmative action in hiring or in college admissions, which were developed in the mid-twentieth century following civil rights protests to address long-standing institutional racism and to assist African Americans, have been utilized more successfully by non-white immigrants to speed their own entrance into the mainstream. The government has allowed the application of such programs to immigrants of color and their children in the service of the laudable goals of immigrant assimilation and multicultural diversity in workplaces and educational institutions. But the ongoing neglect of their original intentions is no credit to American policy."
という記述。
最後の一文は「米国の公共政策にとって名誉なことではない」という意味だと思うのですが、なんでこうした政策がもたらす影響が黒人と移民の間で差があるんですかね。「文化の違いだ」と言ってしまうと、なかなかギリギリな感じもしますけど、どうなんでしょう。今の米国では"Black Lives Matter"なんていう運動もあるわけですが、こちらもなかなか根深い問題ですね。また勉強します。
2016年9月24日土曜日
"The Old Man and the Sea"
"The Old Man and the Sea"を読んだ。アーネスト・ヘミングウェイの「老人と海」です。とっさに読む本が思いつかなかったのですが、最近ネットフリックスで観ているドラマの登場人物が「俺はヘミングウェイになる」と言って小説を書き始めていたのを思い出して、読んでみた。ヘミングウェイなんて、これまで読もうと思ったこともなかったので、勉強になりました。
ヘミングウェイの小説のなかでも短いものを選んだので、わりとすぐに読み終わりました。英語もそんなに難しいものじゃないかったです。ただ、舟や釣りに関する細かな用語は意味がつかみにくかったです。このあたりは日本語で読んでも同じことかもしれません。
まぁ、戦い続けることこそが尊いんだという話でしょうか。主人公の老人が愚痴っぽいところがあったりするのも、普通の人っぽくてよかったです。
ヘミングウェイの小説のなかでも短いものを選んだので、わりとすぐに読み終わりました。英語もそんなに難しいものじゃないかったです。ただ、舟や釣りに関する細かな用語は意味がつかみにくかったです。このあたりは日本語で読んでも同じことかもしれません。
まぁ、戦い続けることこそが尊いんだという話でしょうか。主人公の老人が愚痴っぽいところがあったりするのも、普通の人っぽくてよかったです。
2016年9月3日土曜日
ヒラリーとジャネット
ヒラリー・クリントンとジャネット・イエレンは同時期にイェール大学に通っていた。有名な話なんでしょうか。
ウィキペデイアによると、
イエレンがイェールで博士号を取ったのは1971年。この年の春、ヒラリーはイェールのロースクールでビル・クリントンと知り合った。
イエレンは1946年08月13日生まれ。
ヒラリーは1947年10月26日生まれ。
"Hillbilly Elegy"でイェールのエリートコネクションについてのエピーソードが出てきたんですが、具体的な人名で考えるとやっぱりすごい。
女性の社会進出がそれほどでもなかった時代に、米国初の女性FRB議長になる人と、初の女性大統領になろうかという人が学んでたってことですからね。
ちなみにイエレンの夫は2001年にノーベル経済学賞を取ったジョージ・アカロフ。1962年にイェールで学士。博士号はMIT。
ウィキペデイアによると、
イエレンがイェールで博士号を取ったのは1971年。この年の春、ヒラリーはイェールのロースクールでビル・クリントンと知り合った。
イエレンは1946年08月13日生まれ。
ヒラリーは1947年10月26日生まれ。
"Hillbilly Elegy"でイェールのエリートコネクションについてのエピーソードが出てきたんですが、具体的な人名で考えるとやっぱりすごい。
女性の社会進出がそれほどでもなかった時代に、米国初の女性FRB議長になる人と、初の女性大統領になろうかという人が学んでたってことですからね。
ちなみにイエレンの夫は2001年にノーベル経済学賞を取ったジョージ・アカロフ。1962年にイェールで学士。博士号はMIT。
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