ウィキペディアによると、本名はフィリップ・ロベール・ルイ・パジェスだそうです。
容姿が優れている点も評価されてデビューしたらしい。
実家にもアルバムがあった。でもまだ60歳だって。意外に若い。
2014年11月3日月曜日
2014年10月12日日曜日
The Greatest Comeback
“The Greatest Comeback: How Richard Nixon Rose from Defeat to Create the New Majority”という本を読んだ。
ウォーターゲート事件によるニクソン大統領辞任から40年の節目に出ているニクソン本のひとつで、側近だったパット・ブキャナンさんが1960年の大統領選でケネディに負けたニクソンがどんな道筋をたどって1968年の大統領選に勝利したかを書いた本です。面白いことは面白いんですが、米国の政治、社会状況に対するニクソン陣営の分析や裏話を集めたような内容なんで、そもそも表舞台で何が起こっていたかという事実関係がしっかりと頭に入っていないと理解が追いつかない部分が出てしまいます。ニクソン本や60年代に関する本なんていうのは無数に出ているでしょうから、まずは基礎知識を身につけてからの方が良かったかもしれません。
というわけでなかなか内容を紹介するのは難しいのです。ただ、ブキャナンさんが言わんとすることは、ニクソンは、ジョンソン大統領らがマイノリティや学生の一部が暴動や大学の占拠事件を起こすような事態になった際に毅然とした態度をとらなかったことで失った「普通の米国人」の支持と、当時の米国内に残っていた人種差別を容認するような古いタイプの人たちの支持を上手にすくい上げて、選挙戦で勝利したんだということだと思います。「普通の米国人」というのは低所得、中所得の白人たちで、公民権運動の流れのなかで忘れられた存在になっていたとのことです。
で、ニクソンがどうやってこの両方の層をまとめたかという話なんですが、まずニクソンはマイノリティや学生の暴動に対しては”law and order”の重要性を訴えます。暴動などを起こす側には差別撤廃などの理由があるわけですが、「どんな理由があろうとも法と秩序は守らねばならない」という立場を明確にするわけですね。そうすることで、「俺たちだって苦労しているんだよ」という普通の米国人の不満をすくいあげることに成功します。
一方、米国には古いタイプの人たちもいた。公民権法に反対票を投じて、1964年の大統領選で大敗したバリー・ゴールドウォーターを支持するような人たちですね。ニクソンはこの人たちとも連帯する。1964年の大統領選でニクソンは、共和党候補として正式に選出されたゴールドウォーターをきちんと応援していた。ゴールドウォーターはこのことを大変感謝し、恩義に感じていたそうです。共和党内のリベラル派であるネルソン・ロックフェラーとかジョージ・ロムニーのような人たちはゴールドウォーターから距離をとったりしたわけですが、そういう態度で共和党を分裂させるような真似は止めるべきだということですね。
ただ、もちろん、人種差別を肯定するような立場をとるわけではありません。ブキャナンによると、ニクソンはリベラルな家庭で育ったそうで、副大統領時代には1957年の公民権法の成立に力を尽くしてキング牧師から感謝の手紙をもらったりもしたそうです。ただ、公民権法に反対するような人たちを共和党から追い出すようなマネはしない。選挙で民主党に勝つためには、こうした人たちからの支持が重要であることを知っていたからです。人種差別撤廃には賛成しながらも、反対する人を批判しないというのはなかなか難しいポジション取りですけど、大統領選に勝つにはそのぐらい難しい配慮が必要だということですね。
1968年の大統領選では、民主党のヒューバート・ハンフリー副大統領と共和党のニクソンが出馬。さらに独立党のジョージ・ウォレスも立候補します。このウォレスという人は元は民主党なんですが、アラバマ州知事として人種差別を支持してきた人で、ニクソンにとってはリベラルのハンフリーと、古いタイプのウォレスから挟み撃ちを受けたようなかたちになります。ただ、ゴールドウォーターとしっかり連帯してきたこともあって、ディープサウスの5州(アーカンソー、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマ、ジョージア)はウォレスにもっていかれましたが、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、フロリダ、テネシーは確保できた。このあたりが勝因だったとのことです。
あとベトナム戦争に対する分析も面白いです。南北ベトナムの間での戦争はアイゼンハワー時代からあったわけですが、ケネディの時代までの米国の介入は軍事顧問団の派遣にとどまっていた。ところがジョンソンは1965年から北爆を始めて、さらには地上軍の投入に突き進んでいきます。ところが思うような成果が上がらず、米国内では厭戦ムードが高まっていた。で、ジョンソンは停戦の道を探り始めて、1966年のマニラ会議で「もしも北ベトナムが兵を引くなら、米国もベトナムから兵を引く」ことに合意します。これに対してニクソンは強く反発してみせます。もしもベトナムから兵を引けばベトナムが共産圏に落ちることを容認することになるし、さらに「撤兵してもいいよ」なんて弱気を見せようなことをすれば、北ベトナム側を「粘れば勝てるぞ」と勢いづかせることになるという判断があったようです。
ニクソンは大統領就任後の1972年にハノイ空爆、ハイフォン港への機雷封鎖などを行なって北ベトナムに壊滅的な打撃を与え、パリ和平会議のテーブルにつかせ、米兵捕虜の解放などと引き替えに、ベトナムからの撤退を約束します。南北ベトナムの戦闘はその後も続き、最終的には北ベトナムが勝利してベトナムは共産圏となる。ニクソンは大統領を辞めた後、ブキャナンさんに対して「ジョンソン大統領がハノイ空爆や機雷封鎖を1965年か66年にやっておくべきだった」と話したそうです。ニクソンは米国がベトナム戦争で負けたときの大統領なわけですが、負けた原因はジョンソンにあるというわけですね。なるほど、こんな理屈もあるのかという感じです。
現在の共和党指導部がティーパーティーみたいな極端な人たちの言動で支持を落としながらも、ティーパーティーを切り捨てるわけでもないのはニクソンがゴールドウォーターと連帯して党をまとめたことが頭にあるのかなという気もします。共和党の候補者としては予備選でティーパーティー系と対立するようなことが避けたいのはもちろんですけど、ティーパーティー系の機嫌を損ねて大統領選で候補者を立てられたりなんかしたら、共和党的には目もあてられない状況になりますからね。
あと、オバマ政権がイラクやアフガンから撤退してきたにも関わらず、ここにきてISIS相手に空爆を始めているところなんかも、あまりいいやり方ではないんだろうなという気もする。今のところは米国が地上軍を投入することはないということですが、うまくいくはずもないような気が。
ニクソンは思想的にはウィルソンを尊敬するような理想主義者なんだけれど、行動は現実主義に基づいていたということです。共産中国との国交を回復に手をつけ、長年の友人であった台湾の蒋介石との関係を切ったのも、ロシアを孤立させることがための判断だったとのこと。あと、「現実主義に基づいた妥協は人々にはアピールしない。現実的な妥協をとらなければならないんだけど、語るときは原則について語らなければならない」という言葉もあるんだそうです。
つまり心のなかに理想主義をもって、人々にはその原則を語るんだけど、行動は現実主義に則って妥協にも応じなければならないということですね。理想主義の原則を語り、理想主義で行動するのもだめだし、現実主義にのっとって行動する際に現実主義を語ってもいけない。ちなみにニクソンは1972年の大統領選では歴史的な大勝利を収めています。
深い。深いな、ニクソン。
でもウォーターゲート事件で失脚するんだけどね。この人のドラマはまだまだ続いていたんだと思います。
ウォーターゲート事件によるニクソン大統領辞任から40年の節目に出ているニクソン本のひとつで、側近だったパット・ブキャナンさんが1960年の大統領選でケネディに負けたニクソンがどんな道筋をたどって1968年の大統領選に勝利したかを書いた本です。面白いことは面白いんですが、米国の政治、社会状況に対するニクソン陣営の分析や裏話を集めたような内容なんで、そもそも表舞台で何が起こっていたかという事実関係がしっかりと頭に入っていないと理解が追いつかない部分が出てしまいます。ニクソン本や60年代に関する本なんていうのは無数に出ているでしょうから、まずは基礎知識を身につけてからの方が良かったかもしれません。
というわけでなかなか内容を紹介するのは難しいのです。ただ、ブキャナンさんが言わんとすることは、ニクソンは、ジョンソン大統領らがマイノリティや学生の一部が暴動や大学の占拠事件を起こすような事態になった際に毅然とした態度をとらなかったことで失った「普通の米国人」の支持と、当時の米国内に残っていた人種差別を容認するような古いタイプの人たちの支持を上手にすくい上げて、選挙戦で勝利したんだということだと思います。「普通の米国人」というのは低所得、中所得の白人たちで、公民権運動の流れのなかで忘れられた存在になっていたとのことです。
で、ニクソンがどうやってこの両方の層をまとめたかという話なんですが、まずニクソンはマイノリティや学生の暴動に対しては”law and order”の重要性を訴えます。暴動などを起こす側には差別撤廃などの理由があるわけですが、「どんな理由があろうとも法と秩序は守らねばならない」という立場を明確にするわけですね。そうすることで、「俺たちだって苦労しているんだよ」という普通の米国人の不満をすくいあげることに成功します。
一方、米国には古いタイプの人たちもいた。公民権法に反対票を投じて、1964年の大統領選で大敗したバリー・ゴールドウォーターを支持するような人たちですね。ニクソンはこの人たちとも連帯する。1964年の大統領選でニクソンは、共和党候補として正式に選出されたゴールドウォーターをきちんと応援していた。ゴールドウォーターはこのことを大変感謝し、恩義に感じていたそうです。共和党内のリベラル派であるネルソン・ロックフェラーとかジョージ・ロムニーのような人たちはゴールドウォーターから距離をとったりしたわけですが、そういう態度で共和党を分裂させるような真似は止めるべきだということですね。
ただ、もちろん、人種差別を肯定するような立場をとるわけではありません。ブキャナンによると、ニクソンはリベラルな家庭で育ったそうで、副大統領時代には1957年の公民権法の成立に力を尽くしてキング牧師から感謝の手紙をもらったりもしたそうです。ただ、公民権法に反対するような人たちを共和党から追い出すようなマネはしない。選挙で民主党に勝つためには、こうした人たちからの支持が重要であることを知っていたからです。人種差別撤廃には賛成しながらも、反対する人を批判しないというのはなかなか難しいポジション取りですけど、大統領選に勝つにはそのぐらい難しい配慮が必要だということですね。
1968年の大統領選では、民主党のヒューバート・ハンフリー副大統領と共和党のニクソンが出馬。さらに独立党のジョージ・ウォレスも立候補します。このウォレスという人は元は民主党なんですが、アラバマ州知事として人種差別を支持してきた人で、ニクソンにとってはリベラルのハンフリーと、古いタイプのウォレスから挟み撃ちを受けたようなかたちになります。ただ、ゴールドウォーターとしっかり連帯してきたこともあって、ディープサウスの5州(アーカンソー、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマ、ジョージア)はウォレスにもっていかれましたが、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、フロリダ、テネシーは確保できた。このあたりが勝因だったとのことです。
あとベトナム戦争に対する分析も面白いです。南北ベトナムの間での戦争はアイゼンハワー時代からあったわけですが、ケネディの時代までの米国の介入は軍事顧問団の派遣にとどまっていた。ところがジョンソンは1965年から北爆を始めて、さらには地上軍の投入に突き進んでいきます。ところが思うような成果が上がらず、米国内では厭戦ムードが高まっていた。で、ジョンソンは停戦の道を探り始めて、1966年のマニラ会議で「もしも北ベトナムが兵を引くなら、米国もベトナムから兵を引く」ことに合意します。これに対してニクソンは強く反発してみせます。もしもベトナムから兵を引けばベトナムが共産圏に落ちることを容認することになるし、さらに「撤兵してもいいよ」なんて弱気を見せようなことをすれば、北ベトナム側を「粘れば勝てるぞ」と勢いづかせることになるという判断があったようです。
ニクソンは大統領就任後の1972年にハノイ空爆、ハイフォン港への機雷封鎖などを行なって北ベトナムに壊滅的な打撃を与え、パリ和平会議のテーブルにつかせ、米兵捕虜の解放などと引き替えに、ベトナムからの撤退を約束します。南北ベトナムの戦闘はその後も続き、最終的には北ベトナムが勝利してベトナムは共産圏となる。ニクソンは大統領を辞めた後、ブキャナンさんに対して「ジョンソン大統領がハノイ空爆や機雷封鎖を1965年か66年にやっておくべきだった」と話したそうです。ニクソンは米国がベトナム戦争で負けたときの大統領なわけですが、負けた原因はジョンソンにあるというわけですね。なるほど、こんな理屈もあるのかという感じです。
現在の共和党指導部がティーパーティーみたいな極端な人たちの言動で支持を落としながらも、ティーパーティーを切り捨てるわけでもないのはニクソンがゴールドウォーターと連帯して党をまとめたことが頭にあるのかなという気もします。共和党の候補者としては予備選でティーパーティー系と対立するようなことが避けたいのはもちろんですけど、ティーパーティー系の機嫌を損ねて大統領選で候補者を立てられたりなんかしたら、共和党的には目もあてられない状況になりますからね。
あと、オバマ政権がイラクやアフガンから撤退してきたにも関わらず、ここにきてISIS相手に空爆を始めているところなんかも、あまりいいやり方ではないんだろうなという気もする。今のところは米国が地上軍を投入することはないということですが、うまくいくはずもないような気が。
ニクソンは思想的にはウィルソンを尊敬するような理想主義者なんだけれど、行動は現実主義に基づいていたということです。共産中国との国交を回復に手をつけ、長年の友人であった台湾の蒋介石との関係を切ったのも、ロシアを孤立させることがための判断だったとのこと。あと、「現実主義に基づいた妥協は人々にはアピールしない。現実的な妥協をとらなければならないんだけど、語るときは原則について語らなければならない」という言葉もあるんだそうです。
つまり心のなかに理想主義をもって、人々にはその原則を語るんだけど、行動は現実主義に則って妥協にも応じなければならないということですね。理想主義の原則を語り、理想主義で行動するのもだめだし、現実主義にのっとって行動する際に現実主義を語ってもいけない。ちなみにニクソンは1972年の大統領選では歴史的な大勝利を収めています。
深い。深いな、ニクソン。
でもウォーターゲート事件で失脚するんだけどね。この人のドラマはまだまだ続いていたんだと思います。
2014年8月19日火曜日
The Good Fight
"The Good Fight: Hard Lessons from Searchlight to Washington"という本を読んだ。民主党のハリー・リード上院院内総務が2008年5月に書いた自伝です。民主党が2006年の中間選挙で上院を奪還した後、2008年の大統領選ではまだオバマ対ヒラリーの候補者争いが続いているという段階ですね。ウォーレンさんの自伝が面白かったので、あまりよく知らないリードさんの自伝も読んでみたという次第です。面白かった。
この本、いきなり"I AM NOT A PACIFIST."という一文で始まったり、リードさんが生まれ育ったネバダ州サーチライトについて「メインの産業は売春だった。誇張しているわけじゃない」なんていう言及があったりして、なかなかパンチが効いています。あと、ラスベガスがあるネバダ州のギャンブル産業を監督する公職についていた際、自身や家族がマフィアたちから度重なる脅迫を受けた経験から、いつも銃を手元に置いているなんていうエピソードも出てくる。リベラル層を支持基盤とする民主党の上院院内総務といえども、お上品なだけの理想主義者じゃないぞということなんだと思います。
ただ、こうした言及は「そんな俺でもブッシュ(子)大統領の対イラク政策は我慢がならない」という主張へのフリみたいなもんです。リードさんは2003年のイラク戦争開戦には賛成した。フセイン大統領が大量破壊兵器を持っているなら、それを取り除かなければならないということだったわけですが、その後、2007年の春の段階では米軍に3200人の死者、数万人の負傷者を出しながらも、大量破壊兵器はみつからないうえ、シーア派とスンニ派の対立も鮮明になり、イラクは内戦状態に陥ってしまった。ブッシュ政権は増派を検討しているけれど、それは1965年にジョンソン大統領が勝てる見込みのないベトナム戦争への増派を決めたようなもんだというわけです。議会は「増派は妨げないが、無期限に認めるわけではない」という予算案を通して、リードさんも大統領に直接会って妥協を迫りますが、大統領は「自分の個人的なレガシー作りのためにやっているのではない。これは正しいことだ」と反論して、議会の予算案に拒否権を行使。結局、大統領の意向を反映した予算案が成立することになります。リードさんはこれが許せないというわけですね。ちなみに、ブッシュ(父)のことについては結構褒めています。で、ブッシュ(父)の夫人については他の上院議員の発言を印象するかたちで、「ビッチだ」と書いたりしています。
この本が書かれた後に就任したオバマ大統領はイラクから撤退期限を宣言して、2010年8月に約束通り戦闘部隊の撤退を完了。11年12月には完全撤退を終えます。で、今になってISILが勢力を拡大して再び空爆を始めたりしている。そう思うとブッシュ政権の判断もあながち間違いじゃなかったんじゃないかという気もしますが、どうなんでしょう。オバマ大統領がイラクから撤退しなければ、イラクの状況はもっとマシになっていたかも。まぁ、歴史に「もしも」はないっていいますから、よく分かりませんがね。
政治ドラマも満載。2000年の大統領選にあわせた議会選挙で上院の勢力が50対50になった際、共和党のジム・ジェフォーズ(Jim Jeffords)上院議員を民主党側に寝返らせて民主党の多数を獲るくだりなんかでは議会の勢力争いの裏舞台も披露されています。当時、上院院内幹事だったリードさんの寝返り候補リストには、リベラルが強い州選出のLincoln Chafee上院議員とか、穏健派のArlen Specter上院議員、Olympia Snowe上院議員、一匹狼のマケイン上院議員なんかの名前もあったようですが、結局、リードさんはジェフォーズ議員から出された「乳製品農家への価格維持政策の継続」「自らのスタッフに影響がでないこと」「民主党側についた後の序列では、共和党議員時代のキャリアも考慮すること」をのんで、ジェフォーズ議員を自陣に迎え入れた。その後、ジェフォーズ議員は上院環境委員会の委員長になります。こういった工作を、民主党から共和党への裏切りを阻止しながら、やっているわけですね。
2004年の大統領選でブッシュ大統領に再選を許し、議会選挙でも上院で45議席しかとれなかった後、民主党の上院院内総務に立候補したくだりでは、当時、いちはやく自分を支持してくれた議員の名前を列挙しています。対抗馬はコネチカット州のクリス・ドッドでテッド・ケネディの支持を受けていたようですが、そんななかでもRobert Byrd, Jim Jeffords, Chuck Schumerなんかはいち早く、リード支持に回ったようです。あと、Ron Wydenは金融委員会に入れて欲しいと要望したとか、Jack Reedが歳出委員会への残留を希望したとか。当時のヒラリー・クリントン上院議員や、バラク・オバマ上院議員もリードを支持したということのようです。で、結局、クリス・ドッドは院内総務選挙に立候補せず、リードの就任が決まる。こういうところで名前を挙げていくっていうのも、なかなか嫌らしい感じがします。
2005年に共和党が判事の任命に関するフィリバスターの廃止をねらった「核オプション(nuclear option)」を検討したことに対する怒りっぷりも印象的です。上院はフィリバスターのおかげで多数派と少数派の妥協が図られる仕組みなのに、それを無効にするとは何事だというわけですね。で、超党派の議員団"Gang of Fourteen"を組織して、核オプションによるフィリバスター廃止を阻止します。共和党から7人、民主党から7人が参加して、民主党側は焦点となっている3人の判事の任命については容認する一方で、共和党側はフィリバスター廃止はやらないと約束するという手法です。少数とはいえ超党派の議員が妥協しあうことで、どちらの側も過半数をとれない状況を作り上げ、妥協を旨とする上院の伝統を守ったというわけですね。
で、リードさんは2013年11月に、民主党が上院の55議席を占めている状態から、核オプションを実行して「最高裁判所判事をのぞく大統領任命人事の承認」に関するフィリバスターを廃止する事実上の規則改正をやってしまいます。2005年の怒りっぷりは何だったんだという話ですが、リードさんは相当なケンカ上手ということなのでしょう。ケンカ上手といえば、2005年11月にイラク戦争についての調査の開始を抜き打ちのクローズド・セッションで決めてしまうという場面も出てきます。これもなかなかドラマチック。弁護士らしくというか何というか、ルールの抜け穴を突くのが得意みたいです。
あとこの本には子供のころのエピソードとかがふんだんに盛り込まれています。金鉱の街であるサーチライトに集まってきた労働者たちの死と隣り合わせの生活とか、シアーズのショッピングカタログが年に1度届くことが一大イベントだったとか、子供のころは無免許で運転するのが当たり前だったとか、友達が自宅の窓から核実験の光を眺めたことがあるとか、ユダヤ教徒の娘だった奥さんと駆け落ちしてモルモン教の教会で結婚式を挙げるとか、DCで警察官として働きながらジョージワシントン大学のロースールで勉強したら死ぬほど大変だったとか。弁護士時代のエピソードでは、妙にミステリー小説っぽい展開だったりもします。1969年ごろのワイオミング州ではヒッピーは犯罪者扱いされていたとか、ジャクソンの街では毎晩、公開絞首刑のまねごとが毎晩行われていたらしい。文脈から察するに観光客にワイルドウェストらしさをアピールするための出し物のようなものだったみたいですが、米国のディープさを感じさせます。ワイオミングといえば、チェイニー前副大統領の地元ですね。ディープ。
多分、語られていない部分の方がたくさんあると思うのですが、勉強になりました。議員の自伝は面白い。
この本、いきなり"I AM NOT A PACIFIST."という一文で始まったり、リードさんが生まれ育ったネバダ州サーチライトについて「メインの産業は売春だった。誇張しているわけじゃない」なんていう言及があったりして、なかなかパンチが効いています。あと、ラスベガスがあるネバダ州のギャンブル産業を監督する公職についていた際、自身や家族がマフィアたちから度重なる脅迫を受けた経験から、いつも銃を手元に置いているなんていうエピソードも出てくる。リベラル層を支持基盤とする民主党の上院院内総務といえども、お上品なだけの理想主義者じゃないぞということなんだと思います。
ただ、こうした言及は「そんな俺でもブッシュ(子)大統領の対イラク政策は我慢がならない」という主張へのフリみたいなもんです。リードさんは2003年のイラク戦争開戦には賛成した。フセイン大統領が大量破壊兵器を持っているなら、それを取り除かなければならないということだったわけですが、その後、2007年の春の段階では米軍に3200人の死者、数万人の負傷者を出しながらも、大量破壊兵器はみつからないうえ、シーア派とスンニ派の対立も鮮明になり、イラクは内戦状態に陥ってしまった。ブッシュ政権は増派を検討しているけれど、それは1965年にジョンソン大統領が勝てる見込みのないベトナム戦争への増派を決めたようなもんだというわけです。議会は「増派は妨げないが、無期限に認めるわけではない」という予算案を通して、リードさんも大統領に直接会って妥協を迫りますが、大統領は「自分の個人的なレガシー作りのためにやっているのではない。これは正しいことだ」と反論して、議会の予算案に拒否権を行使。結局、大統領の意向を反映した予算案が成立することになります。リードさんはこれが許せないというわけですね。ちなみに、ブッシュ(父)のことについては結構褒めています。で、ブッシュ(父)の夫人については他の上院議員の発言を印象するかたちで、「ビッチだ」と書いたりしています。
この本が書かれた後に就任したオバマ大統領はイラクから撤退期限を宣言して、2010年8月に約束通り戦闘部隊の撤退を完了。11年12月には完全撤退を終えます。で、今になってISILが勢力を拡大して再び空爆を始めたりしている。そう思うとブッシュ政権の判断もあながち間違いじゃなかったんじゃないかという気もしますが、どうなんでしょう。オバマ大統領がイラクから撤退しなければ、イラクの状況はもっとマシになっていたかも。まぁ、歴史に「もしも」はないっていいますから、よく分かりませんがね。
政治ドラマも満載。2000年の大統領選にあわせた議会選挙で上院の勢力が50対50になった際、共和党のジム・ジェフォーズ(Jim Jeffords)上院議員を民主党側に寝返らせて民主党の多数を獲るくだりなんかでは議会の勢力争いの裏舞台も披露されています。当時、上院院内幹事だったリードさんの寝返り候補リストには、リベラルが強い州選出のLincoln Chafee上院議員とか、穏健派のArlen Specter上院議員、Olympia Snowe上院議員、一匹狼のマケイン上院議員なんかの名前もあったようですが、結局、リードさんはジェフォーズ議員から出された「乳製品農家への価格維持政策の継続」「自らのスタッフに影響がでないこと」「民主党側についた後の序列では、共和党議員時代のキャリアも考慮すること」をのんで、ジェフォーズ議員を自陣に迎え入れた。その後、ジェフォーズ議員は上院環境委員会の委員長になります。こういった工作を、民主党から共和党への裏切りを阻止しながら、やっているわけですね。
2004年の大統領選でブッシュ大統領に再選を許し、議会選挙でも上院で45議席しかとれなかった後、民主党の上院院内総務に立候補したくだりでは、当時、いちはやく自分を支持してくれた議員の名前を列挙しています。対抗馬はコネチカット州のクリス・ドッドでテッド・ケネディの支持を受けていたようですが、そんななかでもRobert Byrd, Jim Jeffords, Chuck Schumerなんかはいち早く、リード支持に回ったようです。あと、Ron Wydenは金融委員会に入れて欲しいと要望したとか、Jack Reedが歳出委員会への残留を希望したとか。当時のヒラリー・クリントン上院議員や、バラク・オバマ上院議員もリードを支持したということのようです。で、結局、クリス・ドッドは院内総務選挙に立候補せず、リードの就任が決まる。こういうところで名前を挙げていくっていうのも、なかなか嫌らしい感じがします。
2005年に共和党が判事の任命に関するフィリバスターの廃止をねらった「核オプション(nuclear option)」を検討したことに対する怒りっぷりも印象的です。上院はフィリバスターのおかげで多数派と少数派の妥協が図られる仕組みなのに、それを無効にするとは何事だというわけですね。で、超党派の議員団"Gang of Fourteen"を組織して、核オプションによるフィリバスター廃止を阻止します。共和党から7人、民主党から7人が参加して、民主党側は焦点となっている3人の判事の任命については容認する一方で、共和党側はフィリバスター廃止はやらないと約束するという手法です。少数とはいえ超党派の議員が妥協しあうことで、どちらの側も過半数をとれない状況を作り上げ、妥協を旨とする上院の伝統を守ったというわけですね。
で、リードさんは2013年11月に、民主党が上院の55議席を占めている状態から、核オプションを実行して「最高裁判所判事をのぞく大統領任命人事の承認」に関するフィリバスターを廃止する事実上の規則改正をやってしまいます。2005年の怒りっぷりは何だったんだという話ですが、リードさんは相当なケンカ上手ということなのでしょう。ケンカ上手といえば、2005年11月にイラク戦争についての調査の開始を抜き打ちのクローズド・セッションで決めてしまうという場面も出てきます。これもなかなかドラマチック。弁護士らしくというか何というか、ルールの抜け穴を突くのが得意みたいです。
あとこの本には子供のころのエピソードとかがふんだんに盛り込まれています。金鉱の街であるサーチライトに集まってきた労働者たちの死と隣り合わせの生活とか、シアーズのショッピングカタログが年に1度届くことが一大イベントだったとか、子供のころは無免許で運転するのが当たり前だったとか、友達が自宅の窓から核実験の光を眺めたことがあるとか、ユダヤ教徒の娘だった奥さんと駆け落ちしてモルモン教の教会で結婚式を挙げるとか、DCで警察官として働きながらジョージワシントン大学のロースールで勉強したら死ぬほど大変だったとか。弁護士時代のエピソードでは、妙にミステリー小説っぽい展開だったりもします。1969年ごろのワイオミング州ではヒッピーは犯罪者扱いされていたとか、ジャクソンの街では毎晩、公開絞首刑のまねごとが毎晩行われていたらしい。文脈から察するに観光客にワイルドウェストらしさをアピールするための出し物のようなものだったみたいですが、米国のディープさを感じさせます。ワイオミングといえば、チェイニー前副大統領の地元ですね。ディープ。
多分、語られていない部分の方がたくさんあると思うのですが、勉強になりました。議員の自伝は面白い。
2014年7月17日木曜日
東京から一番遠い首都はモンテビデオ
グーグルマップで2つの地点の距離が調べられるようになったというので調べてみた。
東京からウルグアイの首都モンテビデオまでの距離は1万8500キロぐらいで、よく日本の裏側みたいに言われるアルゼンチンの首都ブエノスアイレスより200キロほど遠い。
ワシントンDCからだと、インドネシアの首都ジャカルタが1万6300キロぐらいで一番遠い。
多分です。
東京からウルグアイの首都モンテビデオまでの距離は1万8500キロぐらいで、よく日本の裏側みたいに言われるアルゼンチンの首都ブエノスアイレスより200キロほど遠い。
ワシントンDCからだと、インドネシアの首都ジャカルタが1万6300キロぐらいで一番遠い。
多分です。
A Fighting Chance
"A Fighting Chance"を読了。エリザベス・ウォーレン(Elizabeth Warren)上院議員の自伝です。あんまり保守ものばかり読んでいてもあれなんで、やっぱりリベラルな人たちの話も読んだ方がいいんじゃないかと思って読んでみた。非常に面白かった。あと、読みやすい。
このウォーレンさんは長らく自己破産の問題に取り組んできた法律学者で、元ハーバード大学教授。金融危機の前から「銀行が消費者に十分な情報を提供しないまま、高金利になる可能性のあるローンを貸し付けているのは問題だ」と主張してきた人です。そうした実績を買われて、金融危機後に金融サービスにおける消費者保護を目的としたConsumer Financial Protection Bureauの設立にオバマ大統領のアドバイザーとして尽力して知名度を上げ、その後、2012年の上院議員選挙でマサチューセッツ州から立候補。ティーパーティ系の共和党現職、スコット・ブラウンを破って当選したという経歴の持ち主です。そんなわけで、リベラル層からの人気が高くて、2016年の大統領選挙に出馬するのではという観測もあります。まぁ、本人は出馬を否定しているし、民主党にはヒラリー・クリントンという大本命がいますから、そんなに可能性は高くないでしょうけどね。ただ、それぐらい人気があるということです。
で、これだけでもウォーレンさんは面白い人なんですが、これだと「超あたまのいいハーバード大学のスーパーエリートか」ってなもんです。でも、ウォーレンさんの面白いのはハーバード大教授になるまでの経緯にあります。というのも、ウォーレンさんはオクラホマ州の生まれで、父親は便利屋さん(handy man)といいますからエリート家庭の出身ではない。美人でもないし、学校の成績も良くないし、スポーツもできないし、歌もダメだし、楽器もできないという、さえない感じの高校生だったそうです。しかも高校生のときに父親が病気で倒れて、学費の面からも大学進学も難しい状態だった。ただ、このウォーレンさんはディベートが大の得意だったそうで、ディベートチームのアンカーだった。そこで、ディベートで奨学金を出してくれる大学を探して、ワシントンDCにあるジョージ・ワシントン大学に進学します。
で、ここからエリート街道が始まるのかというとそうではなくて、ウォーレンさんは大学2年生のとき、4歳年上でIBM勤務のジムさんにプロポーズされて「イエス」と即答。大学をやめてしまいます。1968年、ウォーレンさんが19歳のときの話ですが、後に上院議員になるほどの女性でも当時は「女性は結婚したら家庭に入るのが当たり前」という感覚があったのだと思います。ちなみにジムさんはオクラホマにいた13歳のころからデートしていた相手だったそうです。
で、ウォーレンさんはジムさんの勤務先であるニュージャージー州で障害者学級のセラピストとして働き始めて、21歳のときに長女を出産。当時、女性運動が盛り上がっていたそうですが、ニュージャージーの郊外ではそうでもなかった(The women's movement was exploding around the country, but not in our quiet New Jersey suburb and certainly not in our little family)ということで、ウォーレンさんは良き妻であり、良き母であろうとしてきた。ただ、やっぱり何かをやりたいという気持ちもあって、そういう気持ちに対して、"I felt deeply ashamed that I didn't want to stay home full-time with my cheerful, adorable daughter."と述懐しています。
ということでウォーレンさんは学校に行くことにします。ジムさんも消極的ながらOKしてくれました。それでニュージャージー州のラトガー大学のロースクールに通い始める。法律のことなんて何も知らないのにロースクールを選んだのは、テレビでみかける弁護士が困った人たちのために戦っている姿に感銘をうけたからだそうです。
でね、ロースクール2年目の夏休みにウォールストリートの法律事務所の夏季アシスタントの仕事の面接に行ったときのエピソードがあるんですが、これがかっこいいので紹介します。
女性の秘書や事務員はたくさんいるけど、女性の弁護士はほとんどいない法律事務所だったそうですが、面接官の弁護士がウォーレンさんの履歴書をみて、"There's a typographical error on your resume. Should I take that as a sign of the quality of the work you do?"(あなたの履歴書にはタイプミスがあるけど、これはあなたの仕事の質のあらわれだと考えていいですか?)って尋ねたそうです。そしたら、ウォーレンさんはたじろぐことなく、"You should take it as a sign that you'd better not hire me to type."(私にタイプをさせるだけの仕事をさせるべきではないということのあらわれですね)と切り返したそうです。面接官の弁護士は笑って「君ならいい仕事をしてくれるだろう」と言って、ウォーレンさんを採用してくれたとのこと。帰りの電車で履歴書を見直したら、タイプミスはなかったそうです。わはは。ドラマみたい。
ウォーレンさんは27歳でロースクールを卒業。でもこれでウォーレンさんの法律家としての栄光のキャリアが始まるわけじゃない。実はウォーレンさんはこのとき、第2子の長男を妊娠中で、弁護士試験を受けたのは出産後。自宅に"Elizabeth Warren, Attorney-at-Law"という看板を出して開業します。依頼者が来たら、おもちゃをカウチの下に隠してリビングルームで会おうと思っていたそうです。でも実際には、ラトガース大学から「1週間に1晩だけ、法律文書の授業をもたないか」というオファーを受けて、大学で教鞭をとるようになる。で、1年ほどしたら、ジムさんの転勤先であるヒューストンに引っ越すことになって、またイチから職探しです。そこで、ヒューストン大学のロースクールに願書を出します。教職の空きがあるかどうかも分からない状態ですが、"I was now an experienced law teacher (sort of) and I'd be interested in teaching legal writing at the University of Huston (or anything else they needed), and so on"というノリでの職探しだったそうです。そしたら、しばらくして教授として採用されることが決まります。
で、順風満帆のキャリアが始まるかと思いきや、仕事と育児の両立に悩むことになる。大学での授業を終えた後、保育園に長男(Alex)を迎えいったときの様子が書かれていて、これがまぁリアルな感じです。長いですが、引用します。Ameliaは長女ですね。
"I picked him up. His diaper was soggy, and I tried to lay him down on the cot to change him, but he clung to me and cried. I gave up and carried him to the car. By now, he was going full force, crying louder and kicking. I had tears, pee, and baby snot on my blouse. By the time we got home, he was exhausted and so was I. I called our neighbor Sue and asked her to send Amelia home. I gave Alex a bath and started crumbling up hamburger in a skillet as I made dinner. I put in a load of laundry. When I was in law school, Amelia and I had been buddies. She allowed me to believe that a life that combined inside and outside --family and not family-- could actually work. But Alex cried for hours at a time, turning red and sweating and seeming to be furious at my inability to fix whatever was wrong. Once I started teaching, mornings were torture. Alex knocked his cereal bowl across the room and cried when I dressed him. He kicked me while I tried to fasten him in his car seat and clung to me when I needed to leave. I was outmatched. I was so tired that my bones hurt. Alex still woke up about three every morning. I'd stumble out of bed when he cried, afraid he'd wake Amelia or Jim. I'd feel around in the dark, wrap us together in a blanket, and then rock him back and forth in an old rocking chair I'd had since I was a kid. We held each other, and for a while each night while I drifted in and out of sleep, I prayed that he forgave me for my many shortcomings."
上手に訳すのは難しいですが、全米のワーキングマザーが泣いちゃうんじゃないかっていうぐらいのリアルな感じ。ウォーレンさんは叔母に自宅に住み込んでもらって生活を立て直そうとするのですが、そうした生活にジムさんは不満を抱いていました。で、離婚しちゃんです。
"One night I'd left the dishes until after I'd put both kids to bed, and I was cleaning up in the kitchen. Jim was standing in the doorway, smoking a cigarette, just looking at me. I asked him if he wanted a divorce. I'm not sure why I asked. It was as if the question just fell out of my mouth. I was shocked that I'd said it. Jim looked back at me and said, "Yes." No hesitation, just yes. He moved out the next weekend."
なんたる。なーんたる。ひどい話だと思いますが、ウォーレンさんはジムさんを責めるような心境でもないようです。「ジムは19歳の女の子と結婚したけど、その私は本人さえも予想しなかったような女性になってしまった。このことはとても申し訳なく思うけど、もう引き返すことはできない。私は料理上手な主婦にならねばならなかったのかもしれないけれど、ダメにしてしまった。私は100%を家庭と子供に捧げるべきだったかもしれないけれど、私たちの生活は、私もジムも予想しなかったようなものになってしまった。私はこの大冒険が大好きだったけど、ジムは違った」としています。1970年代後半ごろの話ですね。
ウォーレンさんはこの後、両親も呼び寄せて子育てをサポートしてもらって、自分は大学教授の仕事に集中します。で、法律の歴史を専門にしている大学教授のブルースさんと再婚して、全米屈指のロースクールがあるテキサス大学オースティン校に転籍して、自己破産の増加について関心を持つようになった。自己破産というのは借金が返せなくなった人たちが家とか自動車とかいったほとんど全ての資産を放棄することと引き替えに、返済しきれなかった借金を帳消しにしてもらって再スタートを切るという法的な制度なわけですが、ウォレンさんは「どうして、人々は金銭的にそこまで追い込まれてしまうのか?」ということを研究のテーマとして、「自己破産に至るのは、病気とか解雇といった突然の出来事で、事業のための借金や住宅ローンなどの返済が滞るようになった、ごく普通のまじめで勤勉な人たちだ」という結論に至ります。さらにウォーレンさんはその背景には、1980年代に貸し出し金利の上限が撤廃されたことで、銀行業が大きく変質したことがあると主張します。それまでは決められた上限金利のなかで、借り手が返済可能かどうかを見極めたうえで融資を実行するのがバンカーの手腕だったわけですが、上限金利がなくなったことで返済できないような借り手にも高い金利で貸し出せば銀行ビジネスが成り立つという構図ができた。その結果として、自己破産が増えているといわけです。
自由市場主義に基づいた保守派なんかは「自分が返済可能かどうかは自分で判断すべき問題だ。自己破産を銀行の責任にするな」という反論もあるわけですが、ウォーレンさんは「銀行が融資の際に貸し出し条件を十分に説明していない」と批判します。また、借金返済に苦しんでいる人たちは何も借りたお金で放蕩三昧の生活をしているわけじゃないともしています。
例えば、こういうパターンですね。自分の収入はそれほど高くないけれど、子供にはいい教育を受けさせてやりたいから、少しでもレベルの高い学校の学区に住みたい。そうした学区の家は値段が高いけど、ちょっと無理して住宅ローンを組む。金利は高めだけれど、銀行もOKしてくれたし、しばらくは順調に返済もできていた。でも、そのうちに自分が病気になってしまって、家族の収入が激減してしまった。家を売却してローンを返済しようにも、住宅市場が悪化していて返済仕切れない。それで自己破産するしかなかった。
ウォーレンさんの研究は、実際にこうした経験をした人たちへのインタビューをもとにしているんだそうです。ウォーレンさんは自己破産の専門家として銀行への規制強化の必要性を主張。その間、ハーバードに移籍したり、議会と接触をもって自己破産の際の借り手の負担を少なくするための法律改正などにも取り組んだりもします。
もういい加減、長すぎるんでこのあたりにしますけど、この本の中には、法改正をめぐってマサチューセッツ州選出のエドワード・ケネディ上院議員に直談判したり、金融業界のロビイストたちと対立したり、スコット・ブラウン氏との上院選挙での激しい戦いといったいった面白エピソードも盛りだくさん。銀行にとって有利な法律改正を支持していたとして、バイデン副大統領(当時は上院議員)がさりげなくディスられたりもします。そんななかで、冒頭に書いたようにオバマ大統領のアドバイザーになって、上院議員になる。ちなみにスコット・ブラウン氏は、ケネディ上院議員の死後の補選で、リベラルの牙城であるマサチューセッツ州でティーパーティの支援をうけて勝利したという人ですね。ケネディ家の遺産を取り返したというドラマなわけです。
オクラホマのディベートだけが得意なさえない女子高生が、子育てと仕事の両立に悩みながらシングルマザーになった末に、学問の世界でキャリアを築きあげ、真面目に働く中間層のために立ち上がって大銀行と対決し、ついにはケネディ家の遺産を取り返して上院議員になった。そりゃ、人気も出ますわな。ウォーレンさんに出馬を促す勝手連もできているようですし、ヒラリーさんには「銀行業界からも沢山の献金を受けている」という批判もあります。
まぁ、要注目ってことで。
このウォーレンさんは長らく自己破産の問題に取り組んできた法律学者で、元ハーバード大学教授。金融危機の前から「銀行が消費者に十分な情報を提供しないまま、高金利になる可能性のあるローンを貸し付けているのは問題だ」と主張してきた人です。そうした実績を買われて、金融危機後に金融サービスにおける消費者保護を目的としたConsumer Financial Protection Bureauの設立にオバマ大統領のアドバイザーとして尽力して知名度を上げ、その後、2012年の上院議員選挙でマサチューセッツ州から立候補。ティーパーティ系の共和党現職、スコット・ブラウンを破って当選したという経歴の持ち主です。そんなわけで、リベラル層からの人気が高くて、2016年の大統領選挙に出馬するのではという観測もあります。まぁ、本人は出馬を否定しているし、民主党にはヒラリー・クリントンという大本命がいますから、そんなに可能性は高くないでしょうけどね。ただ、それぐらい人気があるということです。
で、これだけでもウォーレンさんは面白い人なんですが、これだと「超あたまのいいハーバード大学のスーパーエリートか」ってなもんです。でも、ウォーレンさんの面白いのはハーバード大教授になるまでの経緯にあります。というのも、ウォーレンさんはオクラホマ州の生まれで、父親は便利屋さん(handy man)といいますからエリート家庭の出身ではない。美人でもないし、学校の成績も良くないし、スポーツもできないし、歌もダメだし、楽器もできないという、さえない感じの高校生だったそうです。しかも高校生のときに父親が病気で倒れて、学費の面からも大学進学も難しい状態だった。ただ、このウォーレンさんはディベートが大の得意だったそうで、ディベートチームのアンカーだった。そこで、ディベートで奨学金を出してくれる大学を探して、ワシントンDCにあるジョージ・ワシントン大学に進学します。
で、ここからエリート街道が始まるのかというとそうではなくて、ウォーレンさんは大学2年生のとき、4歳年上でIBM勤務のジムさんにプロポーズされて「イエス」と即答。大学をやめてしまいます。1968年、ウォーレンさんが19歳のときの話ですが、後に上院議員になるほどの女性でも当時は「女性は結婚したら家庭に入るのが当たり前」という感覚があったのだと思います。ちなみにジムさんはオクラホマにいた13歳のころからデートしていた相手だったそうです。
で、ウォーレンさんはジムさんの勤務先であるニュージャージー州で障害者学級のセラピストとして働き始めて、21歳のときに長女を出産。当時、女性運動が盛り上がっていたそうですが、ニュージャージーの郊外ではそうでもなかった(The women's movement was exploding around the country, but not in our quiet New Jersey suburb and certainly not in our little family)ということで、ウォーレンさんは良き妻であり、良き母であろうとしてきた。ただ、やっぱり何かをやりたいという気持ちもあって、そういう気持ちに対して、"I felt deeply ashamed that I didn't want to stay home full-time with my cheerful, adorable daughter."と述懐しています。
ということでウォーレンさんは学校に行くことにします。ジムさんも消極的ながらOKしてくれました。それでニュージャージー州のラトガー大学のロースクールに通い始める。法律のことなんて何も知らないのにロースクールを選んだのは、テレビでみかける弁護士が困った人たちのために戦っている姿に感銘をうけたからだそうです。
でね、ロースクール2年目の夏休みにウォールストリートの法律事務所の夏季アシスタントの仕事の面接に行ったときのエピソードがあるんですが、これがかっこいいので紹介します。
女性の秘書や事務員はたくさんいるけど、女性の弁護士はほとんどいない法律事務所だったそうですが、面接官の弁護士がウォーレンさんの履歴書をみて、"There's a typographical error on your resume. Should I take that as a sign of the quality of the work you do?"(あなたの履歴書にはタイプミスがあるけど、これはあなたの仕事の質のあらわれだと考えていいですか?)って尋ねたそうです。そしたら、ウォーレンさんはたじろぐことなく、"You should take it as a sign that you'd better not hire me to type."(私にタイプをさせるだけの仕事をさせるべきではないということのあらわれですね)と切り返したそうです。面接官の弁護士は笑って「君ならいい仕事をしてくれるだろう」と言って、ウォーレンさんを採用してくれたとのこと。帰りの電車で履歴書を見直したら、タイプミスはなかったそうです。わはは。ドラマみたい。
ウォーレンさんは27歳でロースクールを卒業。でもこれでウォーレンさんの法律家としての栄光のキャリアが始まるわけじゃない。実はウォーレンさんはこのとき、第2子の長男を妊娠中で、弁護士試験を受けたのは出産後。自宅に"Elizabeth Warren, Attorney-at-Law"という看板を出して開業します。依頼者が来たら、おもちゃをカウチの下に隠してリビングルームで会おうと思っていたそうです。でも実際には、ラトガース大学から「1週間に1晩だけ、法律文書の授業をもたないか」というオファーを受けて、大学で教鞭をとるようになる。で、1年ほどしたら、ジムさんの転勤先であるヒューストンに引っ越すことになって、またイチから職探しです。そこで、ヒューストン大学のロースクールに願書を出します。教職の空きがあるかどうかも分からない状態ですが、"I was now an experienced law teacher (sort of) and I'd be interested in teaching legal writing at the University of Huston (or anything else they needed), and so on"というノリでの職探しだったそうです。そしたら、しばらくして教授として採用されることが決まります。
で、順風満帆のキャリアが始まるかと思いきや、仕事と育児の両立に悩むことになる。大学での授業を終えた後、保育園に長男(Alex)を迎えいったときの様子が書かれていて、これがまぁリアルな感じです。長いですが、引用します。Ameliaは長女ですね。
"I picked him up. His diaper was soggy, and I tried to lay him down on the cot to change him, but he clung to me and cried. I gave up and carried him to the car. By now, he was going full force, crying louder and kicking. I had tears, pee, and baby snot on my blouse. By the time we got home, he was exhausted and so was I. I called our neighbor Sue and asked her to send Amelia home. I gave Alex a bath and started crumbling up hamburger in a skillet as I made dinner. I put in a load of laundry. When I was in law school, Amelia and I had been buddies. She allowed me to believe that a life that combined inside and outside --family and not family-- could actually work. But Alex cried for hours at a time, turning red and sweating and seeming to be furious at my inability to fix whatever was wrong. Once I started teaching, mornings were torture. Alex knocked his cereal bowl across the room and cried when I dressed him. He kicked me while I tried to fasten him in his car seat and clung to me when I needed to leave. I was outmatched. I was so tired that my bones hurt. Alex still woke up about three every morning. I'd stumble out of bed when he cried, afraid he'd wake Amelia or Jim. I'd feel around in the dark, wrap us together in a blanket, and then rock him back and forth in an old rocking chair I'd had since I was a kid. We held each other, and for a while each night while I drifted in and out of sleep, I prayed that he forgave me for my many shortcomings."
上手に訳すのは難しいですが、全米のワーキングマザーが泣いちゃうんじゃないかっていうぐらいのリアルな感じ。ウォーレンさんは叔母に自宅に住み込んでもらって生活を立て直そうとするのですが、そうした生活にジムさんは不満を抱いていました。で、離婚しちゃんです。
"One night I'd left the dishes until after I'd put both kids to bed, and I was cleaning up in the kitchen. Jim was standing in the doorway, smoking a cigarette, just looking at me. I asked him if he wanted a divorce. I'm not sure why I asked. It was as if the question just fell out of my mouth. I was shocked that I'd said it. Jim looked back at me and said, "Yes." No hesitation, just yes. He moved out the next weekend."
なんたる。なーんたる。ひどい話だと思いますが、ウォーレンさんはジムさんを責めるような心境でもないようです。「ジムは19歳の女の子と結婚したけど、その私は本人さえも予想しなかったような女性になってしまった。このことはとても申し訳なく思うけど、もう引き返すことはできない。私は料理上手な主婦にならねばならなかったのかもしれないけれど、ダメにしてしまった。私は100%を家庭と子供に捧げるべきだったかもしれないけれど、私たちの生活は、私もジムも予想しなかったようなものになってしまった。私はこの大冒険が大好きだったけど、ジムは違った」としています。1970年代後半ごろの話ですね。
ウォーレンさんはこの後、両親も呼び寄せて子育てをサポートしてもらって、自分は大学教授の仕事に集中します。で、法律の歴史を専門にしている大学教授のブルースさんと再婚して、全米屈指のロースクールがあるテキサス大学オースティン校に転籍して、自己破産の増加について関心を持つようになった。自己破産というのは借金が返せなくなった人たちが家とか自動車とかいったほとんど全ての資産を放棄することと引き替えに、返済しきれなかった借金を帳消しにしてもらって再スタートを切るという法的な制度なわけですが、ウォレンさんは「どうして、人々は金銭的にそこまで追い込まれてしまうのか?」ということを研究のテーマとして、「自己破産に至るのは、病気とか解雇といった突然の出来事で、事業のための借金や住宅ローンなどの返済が滞るようになった、ごく普通のまじめで勤勉な人たちだ」という結論に至ります。さらにウォーレンさんはその背景には、1980年代に貸し出し金利の上限が撤廃されたことで、銀行業が大きく変質したことがあると主張します。それまでは決められた上限金利のなかで、借り手が返済可能かどうかを見極めたうえで融資を実行するのがバンカーの手腕だったわけですが、上限金利がなくなったことで返済できないような借り手にも高い金利で貸し出せば銀行ビジネスが成り立つという構図ができた。その結果として、自己破産が増えているといわけです。
自由市場主義に基づいた保守派なんかは「自分が返済可能かどうかは自分で判断すべき問題だ。自己破産を銀行の責任にするな」という反論もあるわけですが、ウォーレンさんは「銀行が融資の際に貸し出し条件を十分に説明していない」と批判します。また、借金返済に苦しんでいる人たちは何も借りたお金で放蕩三昧の生活をしているわけじゃないともしています。
例えば、こういうパターンですね。自分の収入はそれほど高くないけれど、子供にはいい教育を受けさせてやりたいから、少しでもレベルの高い学校の学区に住みたい。そうした学区の家は値段が高いけど、ちょっと無理して住宅ローンを組む。金利は高めだけれど、銀行もOKしてくれたし、しばらくは順調に返済もできていた。でも、そのうちに自分が病気になってしまって、家族の収入が激減してしまった。家を売却してローンを返済しようにも、住宅市場が悪化していて返済仕切れない。それで自己破産するしかなかった。
ウォーレンさんの研究は、実際にこうした経験をした人たちへのインタビューをもとにしているんだそうです。ウォーレンさんは自己破産の専門家として銀行への規制強化の必要性を主張。その間、ハーバードに移籍したり、議会と接触をもって自己破産の際の借り手の負担を少なくするための法律改正などにも取り組んだりもします。
もういい加減、長すぎるんでこのあたりにしますけど、この本の中には、法改正をめぐってマサチューセッツ州選出のエドワード・ケネディ上院議員に直談判したり、金融業界のロビイストたちと対立したり、スコット・ブラウン氏との上院選挙での激しい戦いといったいった面白エピソードも盛りだくさん。銀行にとって有利な法律改正を支持していたとして、バイデン副大統領(当時は上院議員)がさりげなくディスられたりもします。そんななかで、冒頭に書いたようにオバマ大統領のアドバイザーになって、上院議員になる。ちなみにスコット・ブラウン氏は、ケネディ上院議員の死後の補選で、リベラルの牙城であるマサチューセッツ州でティーパーティの支援をうけて勝利したという人ですね。ケネディ家の遺産を取り返したというドラマなわけです。
オクラホマのディベートだけが得意なさえない女子高生が、子育てと仕事の両立に悩みながらシングルマザーになった末に、学問の世界でキャリアを築きあげ、真面目に働く中間層のために立ち上がって大銀行と対決し、ついにはケネディ家の遺産を取り返して上院議員になった。そりゃ、人気も出ますわな。ウォーレンさんに出馬を促す勝手連もできているようですし、ヒラリーさんには「銀行業界からも沢山の献金を受けている」という批判もあります。
まぁ、要注目ってことで。
2014年3月27日木曜日
The Loudest Voice in the Room
“The Loudest Voice in the Room”を読了。
Fox News Channel(FNC)のPresidentであるロジャー・エールス(Rodger Ailes)の人生を勝手に振り返って、いかにゴリゴリの保守派として米国政治に影響力を及ぼしてきたかを語る本です。ティーパーティーのことを調べていたら、ティーパーティー支持者の多くがFNCを「信頼できるメディア」と評価しているという指摘を見つけたもので、「ところでFNCってどういうメディアなんだろう」と思って読んでみた。ちなみにFNCは視聴率の面では、CNNとMSNBCが束になっても敵わないほど人気があります。著者はジャーナリストのGabriel Sherman。
長いです。キンドルで読んでいるんで気軽にポチってしまいましたが、今、調べてみたら、最近読んだ”The Dispensable Nation”の1.8倍、”The Right Path”の2.5倍の長さがある。あと登場人物が多すぎ。米国人にとっては有名な人も混じっているんでしょうけど、私なんかはすぐに混乱してしまいます。ちょっと辛い。エールスにかなり批判的な内容なんで、慎重を期して書いているのだと思います。ただ、もうちょっと読みやすくコンパクトにまとめてくれてもいいんじゃないか。
エールスは1960年ごろに地元のオハイオ大学在学中から学内のラジオ局の運営に参加してメディア人としてのキャリアをスタートさせたそうで、その後、オハイオ州やフィラデルフィア州のテレビ局で頭角を現します。人気番組「マイク・ダグラス・ショー」にプロデューサーなどとして関わり、テレビ向け演出のノウハウを蓄積したらしい。当時のテレビ人は、レニ・リーフェンシュタールが監督したナチスのプロパガンダ映画なんかでの演出も研究したそうです。で、そうした手腕を生かして、エールス氏は政治家のプロモーションを手がけるビジネスを始める。なかでもニクソン、レーガン、ブッシュ(父)の歴代大統領の選挙戦や政権のメディア戦略に深く関わったとのこと。カメラの配置はこうした方がいいとか、テレビの候補者討論でこんな質問をされたら、こう言い返してやれとかいったアドバイスをしたりするんだそうです。「複雑な事柄を、感情に訴えかける短いセンテンスで表現する」というのがキモらしいですね。あと、対立候補を批判する政治CMの作成を実質的に指揮していたとも。建前上は候補者陣営がこうしたCMを作ってはいけないらしいんですが、エールスは元部下なんかを利用して過激な対立候補批判CMを作らせて、大きな効果を上げていたんだそうです。
で、そんなエールスはブロードウェーのミュージカルのプロデュースもやったりしながら、1990年代になってNBC系のCNBCのトップになって、1996年にルパート・マードックがFNCの設立を決めた際にトップに就任。この頃は、24時間ニュースチャンネルはCNNしかなかったわけですが、視聴者の間には「今のメディアはバイアスがかかっている」という不満があった。そこでマードックやエールスは「より米国的の価値観に基づいた保守系のテレビメディアを立ち上げたら、絶対に支持される」と思ったらしい。FNCは実際に、陣容ではCNNに劣るにも関わらず、クリントン大統領のモニカ・ルインスキースキャンダルや911といった事件を追い風にして、あっという間に視聴率でCNNを追い越してしまう。ブッシュ(子)政権時代のイラク戦争なんかも開戦を強く後押しした。その後のオバマ政権の誕生と再選は阻止できなかったものの、ティーパーティー運動をバックアップしたりして、現在でも保守系メディアの代表として存在感を発揮しているというわけです。
で、まぁ、これがあらすじというわけですけど、この本のなかにはエールス氏がいかにして米メディア内での権力闘争を勝ち抜いてきたかとか、現場のディレクターや記者に圧力をかけて自分の意にかなった報道をさせてきたかとか、いかに人気キャスターのセクハラ訴訟のもみ消しを図ってきたかとか、いかに自分が住んでいる地元の新聞社を買収して地元の政敵に嫌がらせをしてきたかとか、そういったエピソードがふんだんに盛り込まれています。傲慢で臆病な大金持ちといったキャラクター付けですね。もちろんこの本の内容について、エールス側は猛反発して、出版させないように著者に圧力をかけたそうです。その圧力の経緯も後書きで詳述されています。このあたりは私なんかには「なるほど、ドロドロした世界なんだな」というぐらいの印象ですけど、好きな人にはたまらなく面白かったりするんでしょう。
エールスっていう人は一般的な家庭から自らの才覚で身を立てた人で、父親からも「自分を助けられるのは自分だけだ」といった保守思想をたたきこまれてきた。それがマードックに気に入られて、米メディア界に強い影響力を及ぼすようになった。米国ではこういった保守思想には根強い支持があるうえ、エールスの面白い番組を作る才覚とそれを会社全体に浸透させる腕力もあって、FNCは人気を保っているのかなんていう風に思います。
あと、グレン・ベックの話もちらっと出てきますけど、この人は別にエールスが目をかけて育てたというわけじゃなくて、突然現れ、FNCで大暴れして、その後、去っていったということのようです。
面白いんですが、長い。
Fox News Channel(FNC)のPresidentであるロジャー・エールス(Rodger Ailes)の人生を勝手に振り返って、いかにゴリゴリの保守派として米国政治に影響力を及ぼしてきたかを語る本です。ティーパーティーのことを調べていたら、ティーパーティー支持者の多くがFNCを「信頼できるメディア」と評価しているという指摘を見つけたもので、「ところでFNCってどういうメディアなんだろう」と思って読んでみた。ちなみにFNCは視聴率の面では、CNNとMSNBCが束になっても敵わないほど人気があります。著者はジャーナリストのGabriel Sherman。
長いです。キンドルで読んでいるんで気軽にポチってしまいましたが、今、調べてみたら、最近読んだ”The Dispensable Nation”の1.8倍、”The Right Path”の2.5倍の長さがある。あと登場人物が多すぎ。米国人にとっては有名な人も混じっているんでしょうけど、私なんかはすぐに混乱してしまいます。ちょっと辛い。エールスにかなり批判的な内容なんで、慎重を期して書いているのだと思います。ただ、もうちょっと読みやすくコンパクトにまとめてくれてもいいんじゃないか。
エールスは1960年ごろに地元のオハイオ大学在学中から学内のラジオ局の運営に参加してメディア人としてのキャリアをスタートさせたそうで、その後、オハイオ州やフィラデルフィア州のテレビ局で頭角を現します。人気番組「マイク・ダグラス・ショー」にプロデューサーなどとして関わり、テレビ向け演出のノウハウを蓄積したらしい。当時のテレビ人は、レニ・リーフェンシュタールが監督したナチスのプロパガンダ映画なんかでの演出も研究したそうです。で、そうした手腕を生かして、エールス氏は政治家のプロモーションを手がけるビジネスを始める。なかでもニクソン、レーガン、ブッシュ(父)の歴代大統領の選挙戦や政権のメディア戦略に深く関わったとのこと。カメラの配置はこうした方がいいとか、テレビの候補者討論でこんな質問をされたら、こう言い返してやれとかいったアドバイスをしたりするんだそうです。「複雑な事柄を、感情に訴えかける短いセンテンスで表現する」というのがキモらしいですね。あと、対立候補を批判する政治CMの作成を実質的に指揮していたとも。建前上は候補者陣営がこうしたCMを作ってはいけないらしいんですが、エールスは元部下なんかを利用して過激な対立候補批判CMを作らせて、大きな効果を上げていたんだそうです。
で、そんなエールスはブロードウェーのミュージカルのプロデュースもやったりしながら、1990年代になってNBC系のCNBCのトップになって、1996年にルパート・マードックがFNCの設立を決めた際にトップに就任。この頃は、24時間ニュースチャンネルはCNNしかなかったわけですが、視聴者の間には「今のメディアはバイアスがかかっている」という不満があった。そこでマードックやエールスは「より米国的の価値観に基づいた保守系のテレビメディアを立ち上げたら、絶対に支持される」と思ったらしい。FNCは実際に、陣容ではCNNに劣るにも関わらず、クリントン大統領のモニカ・ルインスキースキャンダルや911といった事件を追い風にして、あっという間に視聴率でCNNを追い越してしまう。ブッシュ(子)政権時代のイラク戦争なんかも開戦を強く後押しした。その後のオバマ政権の誕生と再選は阻止できなかったものの、ティーパーティー運動をバックアップしたりして、現在でも保守系メディアの代表として存在感を発揮しているというわけです。
で、まぁ、これがあらすじというわけですけど、この本のなかにはエールス氏がいかにして米メディア内での権力闘争を勝ち抜いてきたかとか、現場のディレクターや記者に圧力をかけて自分の意にかなった報道をさせてきたかとか、いかに人気キャスターのセクハラ訴訟のもみ消しを図ってきたかとか、いかに自分が住んでいる地元の新聞社を買収して地元の政敵に嫌がらせをしてきたかとか、そういったエピソードがふんだんに盛り込まれています。傲慢で臆病な大金持ちといったキャラクター付けですね。もちろんこの本の内容について、エールス側は猛反発して、出版させないように著者に圧力をかけたそうです。その圧力の経緯も後書きで詳述されています。このあたりは私なんかには「なるほど、ドロドロした世界なんだな」というぐらいの印象ですけど、好きな人にはたまらなく面白かったりするんでしょう。
エールスっていう人は一般的な家庭から自らの才覚で身を立てた人で、父親からも「自分を助けられるのは自分だけだ」といった保守思想をたたきこまれてきた。それがマードックに気に入られて、米メディア界に強い影響力を及ぼすようになった。米国ではこういった保守思想には根強い支持があるうえ、エールスの面白い番組を作る才覚とそれを会社全体に浸透させる腕力もあって、FNCは人気を保っているのかなんていう風に思います。
あと、グレン・ベックの話もちらっと出てきますけど、この人は別にエールスが目をかけて育てたというわけじゃなくて、突然現れ、FNCで大暴れして、その後、去っていったということのようです。
面白いんですが、長い。
2014年2月22日土曜日
The Right Path
“The Right Path: From Ike to Reagan, How Republicans Once Mastered Politics---and Can Again”という本を読みました。読了は確か1月中旬ごろ。MSNBCで“Morning Joe”という番組の司会をしている共和党の元下院議員、ジョー・スカボローが書いた本で、第二次世界大戦後の米国政治の軌跡を振り返りながら、「共和党は右に寄りすぎても勝てないし、左に寄りすぎても勝てない」なんていうことを論じている本です。扱っている時代が長いので全てを記憶に刻めるわけではないですが、勉強になりました。
例えばですね、ケネディ暗殺の翌年、1964年の大統領選で共和党はバリー・ゴールドウオーターを候補者に選びます。7月にジョンソン大統領の下で公民権法が成立した直後の選挙だったんですが、このゴールドウオーターっていう人は公民権法に反対票を投じたっていうぐらいバリバリの右派。「連邦政府が州の政策に介入すべきじゃない」というフェデラリズムの立場からの反対だったみたいですけど、大統領選では得票率で61.1%対38.5%という大敗に終わります。
共和党は前回1960年の大統領選では民主党のケネディに対して、当時の副大統領で、中道路線をとっていたニクソンを擁立し、得票率で49.7%対49.6%という超僅差で敗れていました。ニクソンは黒人票の32%を取っていたそうです。ところが公民権法に反対したゴールドウオーターは黒人票の6%しか取れなかった。このイメージは現在に至るまで続いているということで、共和党にとってバリバリ右派のゴールドウオーターを候補に擁立したことは歴史的な失敗だったというわけです。
で、共和党は1968年の大統領選挙で再びニクソンを候補に擁立します。このときの選挙はニクソン、民主党のハンフリー、独立党のウォレスによる三つ巴の選挙で、ニクソンは43.2%の得票率で当選。4年後の大統領選では、民主党のマクガバンに対して60.7%の得票率で再選。投票人の数では520対17という歴史的な大勝です。
1964年の段階では民主党を圧倒的に支持していた有権者が、1968年以降には共和党支持に移った理由として、スカボローは1965年のワッツ暴動に象徴されるような人種差別反対運動の過激化が進んでいたことを挙げます。もちろん独立党のウォレスのような人種差別を認めてしまうような候補者に支持は集まらないわけですが、ちょっとリベラルの側もやりすぎなんじゃないかという雰囲気が広まっていたとのこと。人種問題以外にも、ベトナム反戦運動の過激化、ドラッグ文化の浸透、教会に対する批判なんていう風潮が広まっていて、多くの一般的な米国人が取り残された気分になっていた。そういう時代において、中道的な立場をとるニクソンが支持を得たというわけです。
ただ、このニクソンはウオーターゲート事件で、1974年に辞任に追い込まれる。しかも副大統領から昇格するフォードとの間で、「フォードが大統領になったら、辞職したニクソンを訴追しない」なんていう密約を結んでいたとの疑惑が持ち上がって、共和党の人気は下落します。さらにフォードは副大統領にリベラル寄りのロックフェラーを選んだ。このことも保守層の反発を招いたということで、フォードは1976年の大統領選では民主党のカーターに敗れてしまいます。ちなみにカーターの得票率は50.1%。フォードは48.0%。
ところが、このカーターも政権をうまく運営できない。失業率は10%を超え、物価は18%も上昇。FRBの政策金利も20%近くまで引き上げられた。さらに1978年にはソ連がアフガニスタンに侵攻して米国内で危機感が高まり、1979年のイラン革命後には在テヘラン米大使館での人質事件が発生。カーター大統領は事態を解決できないままに1980年の大統領選に突入し、共和党のレーガンに敗北する。この時のレーガンの得票率は50.7%でしたが、次の1984年の選挙では得票率58.7%、選挙人で525人を獲得する大勝利です。
このほか、アイゼンハワーとかブッシュ親子とか1994年の中間選挙で共和党が下院で40年ぶりに過半数を取った保守革命なんかについても、いろいろと分析されています。こうした大まかな流れのなかで、いかにアイゼンハワーやニクソンやレーガンが中道的な立場をとって、現実主義に基づいた判断を重ね、結果を残してきたか、なんていう解説が加えられています。
で、気になるのは、それじゃぁ、共和党は2016年の大統領選で誰を候補に立てればいいのかっていうところなんですが、これがなかなか難しい。小さな政府を志向する保守候補で、現実主義に徹して政策を遂行できる中道路線をとる人が理想なわけですが、ただの中道だと、ティーパーティーみたいな保守層右派と「もっとリベラルにシフトすべきだ」っていう保守層左派の双方から批判される恐れもある。そうじゃなくて「保守層右派と保守層左派の両方が支持できる人」じゃないといけないわけですね。穏やかな口調で米国の保守主義の伝統を訴えて、保守層をひとつにまとめられる人材が必要だということになります。
スカボローはコリン・パウエル元国務長官みたいな人がいいというわけですが、パウエル自身はもう76歳ですから現実的じゃない。クルズやルビオはキャンキャンとやるイメージですし、クリスティも「陽気なデブにみえるけど、実は嫌な奴」っていうイメージがついてきた。ランド・ポールは穏やかイメージへの転換を図っている気がしますが、間に合うかどうか。ジェブ・ブッシュは「兄貴よりは賢い」っていうイメージなので、もしかしたら有力かもしれない。
ただ、オバマ政権には決定的な失敗があるわけでもない。ベンガジとかシリアへの対応はまずかったかもしれないけれど、米国の国益が決定的におびやかされる事態が起こっているわけじゃないですし、経済もなんだかんだでじわじわと快方に向かっている。ニクソン政権誕生の背景となった1960年代のジョンソン政権後半の社会的な混乱とか、レーガン政権誕生の背景となった1970年代後半のカーター政権時の経済・外交上の混乱みたいな事態とは違う。米国が抱えるリスクは大きくなっているのかもしれませんが、人口動態的にみても、次の大統領選は共和党にとって厳しくなるんだろうと。
まぁ、そんなことを考えさせられる本でした。面白かったです。
例えばですね、ケネディ暗殺の翌年、1964年の大統領選で共和党はバリー・ゴールドウオーターを候補者に選びます。7月にジョンソン大統領の下で公民権法が成立した直後の選挙だったんですが、このゴールドウオーターっていう人は公民権法に反対票を投じたっていうぐらいバリバリの右派。「連邦政府が州の政策に介入すべきじゃない」というフェデラリズムの立場からの反対だったみたいですけど、大統領選では得票率で61.1%対38.5%という大敗に終わります。
共和党は前回1960年の大統領選では民主党のケネディに対して、当時の副大統領で、中道路線をとっていたニクソンを擁立し、得票率で49.7%対49.6%という超僅差で敗れていました。ニクソンは黒人票の32%を取っていたそうです。ところが公民権法に反対したゴールドウオーターは黒人票の6%しか取れなかった。このイメージは現在に至るまで続いているということで、共和党にとってバリバリ右派のゴールドウオーターを候補に擁立したことは歴史的な失敗だったというわけです。
で、共和党は1968年の大統領選挙で再びニクソンを候補に擁立します。このときの選挙はニクソン、民主党のハンフリー、独立党のウォレスによる三つ巴の選挙で、ニクソンは43.2%の得票率で当選。4年後の大統領選では、民主党のマクガバンに対して60.7%の得票率で再選。投票人の数では520対17という歴史的な大勝です。
1964年の段階では民主党を圧倒的に支持していた有権者が、1968年以降には共和党支持に移った理由として、スカボローは1965年のワッツ暴動に象徴されるような人種差別反対運動の過激化が進んでいたことを挙げます。もちろん独立党のウォレスのような人種差別を認めてしまうような候補者に支持は集まらないわけですが、ちょっとリベラルの側もやりすぎなんじゃないかという雰囲気が広まっていたとのこと。人種問題以外にも、ベトナム反戦運動の過激化、ドラッグ文化の浸透、教会に対する批判なんていう風潮が広まっていて、多くの一般的な米国人が取り残された気分になっていた。そういう時代において、中道的な立場をとるニクソンが支持を得たというわけです。
ただ、このニクソンはウオーターゲート事件で、1974年に辞任に追い込まれる。しかも副大統領から昇格するフォードとの間で、「フォードが大統領になったら、辞職したニクソンを訴追しない」なんていう密約を結んでいたとの疑惑が持ち上がって、共和党の人気は下落します。さらにフォードは副大統領にリベラル寄りのロックフェラーを選んだ。このことも保守層の反発を招いたということで、フォードは1976年の大統領選では民主党のカーターに敗れてしまいます。ちなみにカーターの得票率は50.1%。フォードは48.0%。
ところが、このカーターも政権をうまく運営できない。失業率は10%を超え、物価は18%も上昇。FRBの政策金利も20%近くまで引き上げられた。さらに1978年にはソ連がアフガニスタンに侵攻して米国内で危機感が高まり、1979年のイラン革命後には在テヘラン米大使館での人質事件が発生。カーター大統領は事態を解決できないままに1980年の大統領選に突入し、共和党のレーガンに敗北する。この時のレーガンの得票率は50.7%でしたが、次の1984年の選挙では得票率58.7%、選挙人で525人を獲得する大勝利です。
このほか、アイゼンハワーとかブッシュ親子とか1994年の中間選挙で共和党が下院で40年ぶりに過半数を取った保守革命なんかについても、いろいろと分析されています。こうした大まかな流れのなかで、いかにアイゼンハワーやニクソンやレーガンが中道的な立場をとって、現実主義に基づいた判断を重ね、結果を残してきたか、なんていう解説が加えられています。
で、気になるのは、それじゃぁ、共和党は2016年の大統領選で誰を候補に立てればいいのかっていうところなんですが、これがなかなか難しい。小さな政府を志向する保守候補で、現実主義に徹して政策を遂行できる中道路線をとる人が理想なわけですが、ただの中道だと、ティーパーティーみたいな保守層右派と「もっとリベラルにシフトすべきだ」っていう保守層左派の双方から批判される恐れもある。そうじゃなくて「保守層右派と保守層左派の両方が支持できる人」じゃないといけないわけですね。穏やかな口調で米国の保守主義の伝統を訴えて、保守層をひとつにまとめられる人材が必要だということになります。
スカボローはコリン・パウエル元国務長官みたいな人がいいというわけですが、パウエル自身はもう76歳ですから現実的じゃない。クルズやルビオはキャンキャンとやるイメージですし、クリスティも「陽気なデブにみえるけど、実は嫌な奴」っていうイメージがついてきた。ランド・ポールは穏やかイメージへの転換を図っている気がしますが、間に合うかどうか。ジェブ・ブッシュは「兄貴よりは賢い」っていうイメージなので、もしかしたら有力かもしれない。
ただ、オバマ政権には決定的な失敗があるわけでもない。ベンガジとかシリアへの対応はまずかったかもしれないけれど、米国の国益が決定的におびやかされる事態が起こっているわけじゃないですし、経済もなんだかんだでじわじわと快方に向かっている。ニクソン政権誕生の背景となった1960年代のジョンソン政権後半の社会的な混乱とか、レーガン政権誕生の背景となった1970年代後半のカーター政権時の経済・外交上の混乱みたいな事態とは違う。米国が抱えるリスクは大きくなっているのかもしれませんが、人口動態的にみても、次の大統領選は共和党にとって厳しくなるんだろうと。
まぁ、そんなことを考えさせられる本でした。面白かったです。
2014年1月15日水曜日
Glenn Beck’s Common Sense
ラジオやテレビ番組の司会者で、ティーパーティー支持者から熱烈な支持を受ける(参照)ベストセラー作家でもあるグレン・ベッグが2009年に書いた本。米国は個人の自由を尊重した小さな政府であるべきだと主張する本です。タイトルは、米国独立戦争時に植民地を一方的に支配しようとする英国からの独立は「常識だ」と主張したトーマス・ペインの著書”Common Sense”にのっかっています。
ティーパーティー運動がリーマン・ショック後のオバマ政権による債務者救済策の表明をきっかけに火がついたことは知っていたのですが、それがどうして「妊娠中絶反対」とか「同性婚反対」といったキリスト教的な価値観と結びつくのがよく分からなかったので読んでみた。
で、この本のなかでは声高に「妊娠中絶反対!」とか「同性婚反対!」とか訴えているわけではなかったです。Abortionという言葉は2回、marriageという言葉は1回しか出てこない。ただ、割と最初の方から”Our Founding Fathers understood that our rights and liberties are gifts from God”なんていう言葉が繰り返し出てきます。要は、米国は神から与えられた個人の人権を大切にする国だという考え方ですね。で、政府であっても神から与えられた個人の人権を侵害してはいけないから、米国は小さな政府であるべきだっていうことだと思います。そう考えれば、妊娠中絶反対とか同性婚反対といった価値観とつながるのもうなずけます。「神はそんなこと許していない」っていうのが支持者の主張でしょう。
財政問題についても主張はシンプルです。世の中には良い借金もある。住宅ローンとか、みんな使っている。常識ですね。ただ、”what most people ignore is that debt works only in the context of an otherwise financially responsible lifestyle”というわけです。つまり謝金するんだったら、返済のために節度ある生活をせねばならないということ。これも常識。”the result of preventing failure in a country rooted in freedom is a country that is no longer rooted in logic”なんていう言葉も出てきて、「自分が失敗すれば自分の責任だ」っていう考え方にも肯定的なんだと思う。
そうなってくると、財政赤字が拡大するなかでさらに政府の規模を大きくしようなんていう考えや、サブプライムローンで借金を返せなくなった人たちを救済しようなんていう考えには納得できないことになる。Social Security is a great example of a “legal Ponzi scheme”. なんていう文章も出てきますし、その後にはメディケアも「コストなしでの国民皆保険」なんていうのも嘘っぱちだと位置づけられています。
グレン・ベックの批判の矛先は「大きな政府」を標榜する民主党だけでなく、財政赤字を拡大させてきたワシントン全体に向けられています。多くの議員がゲリマンダーで選挙区をガチガチに固めて再選を繰り返していることにも批判的で、「議員の任期を制限せよ」と主張したりもする。ワシントンの政治エリートの「個人の権利は政府の権力に従属するもので、公益よりも大切な個人の権利なんてない」という考え方を”Progressivism”と批判して、共産主義やファシズムや社会主義や帝国主義や国家主義と同じだとします。右のプログレッシビズムは米国の海外での軍事活動を拡大させ、左のプログレッシビズムは国連なんかの役割を拡大させる、という記述もある。もちろん、政府は銃を持っていいけど、個人は銃を持っちゃいけないなんていう考え方にも反対です。公的教育のなかで教師が子供たちの友達のように振る舞ったり、テストの点数よりも「みんな平等で仲良くしよう」なんていう考え方を教えたりすることにも否定的です。学校では建国以来の価値観である競争原理を教えなければ米国は弱くなってしまうという発想です。
とまぁ、ちょっと過激なところはあります。あと、ティーパーティーの人たちがよく批判されるように対案は示されていません。とにかく政府の拡大は問題なので国民は立ち上がるべきだというだけですね。
ただ、「あんまり政府をあてにするもんじゃないよ。自分のことは自分で守るのが常識だ」っていう感覚には納得できます。経済低迷で生活への不安が広がるなかで、増税や弱者救済のための負担増という考え方に反発する気持ちも分かる。さらに神を重視する人たちであれば、その他の社会問題にも過剰に反応したりするのでしょう。
なんとなくティーパーティーの気分が分かりました。要は不安なんだと思います。
ティーパーティー運動がリーマン・ショック後のオバマ政権による債務者救済策の表明をきっかけに火がついたことは知っていたのですが、それがどうして「妊娠中絶反対」とか「同性婚反対」といったキリスト教的な価値観と結びつくのがよく分からなかったので読んでみた。
で、この本のなかでは声高に「妊娠中絶反対!」とか「同性婚反対!」とか訴えているわけではなかったです。Abortionという言葉は2回、marriageという言葉は1回しか出てこない。ただ、割と最初の方から”Our Founding Fathers understood that our rights and liberties are gifts from God”なんていう言葉が繰り返し出てきます。要は、米国は神から与えられた個人の人権を大切にする国だという考え方ですね。で、政府であっても神から与えられた個人の人権を侵害してはいけないから、米国は小さな政府であるべきだっていうことだと思います。そう考えれば、妊娠中絶反対とか同性婚反対といった価値観とつながるのもうなずけます。「神はそんなこと許していない」っていうのが支持者の主張でしょう。
財政問題についても主張はシンプルです。世の中には良い借金もある。住宅ローンとか、みんな使っている。常識ですね。ただ、”what most people ignore is that debt works only in the context of an otherwise financially responsible lifestyle”というわけです。つまり謝金するんだったら、返済のために節度ある生活をせねばならないということ。これも常識。”the result of preventing failure in a country rooted in freedom is a country that is no longer rooted in logic”なんていう言葉も出てきて、「自分が失敗すれば自分の責任だ」っていう考え方にも肯定的なんだと思う。
そうなってくると、財政赤字が拡大するなかでさらに政府の規模を大きくしようなんていう考えや、サブプライムローンで借金を返せなくなった人たちを救済しようなんていう考えには納得できないことになる。Social Security is a great example of a “legal Ponzi scheme”. なんていう文章も出てきますし、その後にはメディケアも「コストなしでの国民皆保険」なんていうのも嘘っぱちだと位置づけられています。
グレン・ベックの批判の矛先は「大きな政府」を標榜する民主党だけでなく、財政赤字を拡大させてきたワシントン全体に向けられています。多くの議員がゲリマンダーで選挙区をガチガチに固めて再選を繰り返していることにも批判的で、「議員の任期を制限せよ」と主張したりもする。ワシントンの政治エリートの「個人の権利は政府の権力に従属するもので、公益よりも大切な個人の権利なんてない」という考え方を”Progressivism”と批判して、共産主義やファシズムや社会主義や帝国主義や国家主義と同じだとします。右のプログレッシビズムは米国の海外での軍事活動を拡大させ、左のプログレッシビズムは国連なんかの役割を拡大させる、という記述もある。もちろん、政府は銃を持っていいけど、個人は銃を持っちゃいけないなんていう考え方にも反対です。公的教育のなかで教師が子供たちの友達のように振る舞ったり、テストの点数よりも「みんな平等で仲良くしよう」なんていう考え方を教えたりすることにも否定的です。学校では建国以来の価値観である競争原理を教えなければ米国は弱くなってしまうという発想です。
とまぁ、ちょっと過激なところはあります。あと、ティーパーティーの人たちがよく批判されるように対案は示されていません。とにかく政府の拡大は問題なので国民は立ち上がるべきだというだけですね。
ただ、「あんまり政府をあてにするもんじゃないよ。自分のことは自分で守るのが常識だ」っていう感覚には納得できます。経済低迷で生活への不安が広がるなかで、増税や弱者救済のための負担増という考え方に反発する気持ちも分かる。さらに神を重視する人たちであれば、その他の社会問題にも過剰に反応したりするのでしょう。
なんとなくティーパーティーの気分が分かりました。要は不安なんだと思います。
2014年1月11日土曜日
Foreign Policy Begins at Home
The Despensable Nationを読んで、何か別の人の本でもと思って読んだ。米国の外交を立て直すにはまず内政問題への取り組みが大切だというちょっと変化球的な内容ですが、リチャード・ハースといえば、Foreign Affairsを出していることでおなじみの外交問題評議会のトップですので、そんな無茶苦茶なことを書いているわけでもないんだと思います。2013年4月出版。オバマ政権2期目に入ってからの本です。読み終わったのは11月の下旬ごろ。
米国といえば超大国として国際社会への関与を続けて来たわけです。特に冷戦終結後は唯一の超大国となり、イラクのクウェート侵攻後の湾岸戦争(1991年)とか911後のアフガン戦争、2003年に始まったイラク戦争なんかではまさに「世界の警察官」としてふるまってきた。ところが最近の米国内には戦争疲れが広がって、2008年のリーマン・ショック後は財源的にも余裕がない。そんななかでオバマ大統領は「米国は世界の警察官ではない」と宣言しちゃう。
そういう現状のなかでハースは「米国は自らの影響力の限界を認識して、国際社会で何を成し遂げようとするかを考え直す必要がある。やることが望ましいこととやらねばならないこと、実現可能なことと実現不可能なことの区別をつけなければならない」としています。
ハースは911後のアフガン戦争は米国の安全を守るためには避けられない戦争だったとしています。まぁ、マンハッタンに旅客機で突っ込まれたんだから、やり返さないわけにはいかないということでしょう。ただ、2009年のアフガン増派は回避すべきだったとしています。米国はアフガン増派で911を実行したアルカイダだけでなく、タリバンも攻撃対象としますが、これは「タリバンの支配地域は自動的にアルカイダのものになる」という誤った想定に基づいたもので、増派しなくても無人機攻撃や特殊部隊の投入で対応できる可能性を無視していた。また米国が何をしようとも、アフガン南部でタリバンが勢力を拡大することは避けられないという現実問題も見落としていた。このアフガン増派の結果、米国はアフガン国内の戦闘の主体となってしまい、米国の安全保障とは関係のない戦いに巻き込まれたという分析です。また、歴史的に中央政府の力が弱いアフガンで強大な政府軍を作るという困難な目標をたてたことも間違いだったとしています。
あと、ハースはカーターやレーガンの時代は外交の目的を人権の拡大においたけれど、ブッシュ(子)は民主主義の拡大においた。ただ、民主主義の拡大っていうのは極めて難しい。安全保障の維持とか経済成長のためにはサウジアラビアとか中国とかも協力せねばならないわけです。「いろんな問題で協力を求めながら、同時に相手の体制を否定するというのは難しいことだ」というわけです。中東で民主主義を拡大することは米国にとって望ましいことではあるけれど、米国外交の唯一の目標ではない。もちろん民主主義の問題に口をつぐめというわけじゃないんだけれど、民主主義の拡大を目標にすえる際には「地域の現状や政策的に取り得るオプションや米国へのコストなんかを吟味することが必要」という主張です。「現実問題として考えれば、西側式の民主主義は世界的な価値ではないということを米国は認識すべきだ」とも言っています。
あと、米国はコソボ問題なんかでは「政権による虐殺を防ぐという人道的見地から軍事介入する」なんていうことをしたりするわけですが、こうした人道的見地からの軍事介入も「無制限のリソースが必要になる」と批判的です。こうした軍事介入も、きちんとコストとベネフィットを見極めたうえでやらねばならない。人道的軍事介入が認められる条件としては、「脅威が大きくて疑いのないもので、被害を受けている人たちからの要請があり、反体制派が妥当な目標のもとで機能していて、国際社会の支持と支援があって、資金的なコストを限定できる確実な見通しがあって、他の手段は不適切だと判断される場合」としています。
ハースは現在の米国がとるべき政策として、”Restoration”という言葉を使っています。米国をめぐる国際環境はかつてほど厳しいものではないという認識のもとで、まずは米国のリソースを国内問題に配分する。外交では中東への過剰な介入は控えて、アジア太平洋地域や西側地域にリソースを割く。あと軍事介入偏重を改め、経済や外交交渉といったツールをより重視するということだそうです。「米国は友好国への支持を示して、友好国を攻撃しようとする国を牽制しなければならないが、逆に友好国が挑発的になったり向こう見ずな行動に出たりしないように、無条件に友好国を支持するわけではないことも示すべきだ」なんてことも言っています。
とまぁ、外交パートはこんな感じ。まぁ、今のオバマ政権の外交方針はこんな感じなんでしょうね。昨年夏にオバマがシリアへの軍事行動を検討した際、「化学兵器使用の拡大を防ぐための人道的見地」を強調して「アサド政権の打倒」は否定したところとか、英国が軍事行動への参加を見送った後で、(結果的にせよ)外交交渉を通じた化学兵器全廃が進展したところなんかは、「ハースが後ろでささやいていたんじゃないの」って思えるほどです。日中関係への関わり方もそう。尖閣諸島が日本の施政下にあることは明確にするけれども、安倍首相が靖国参拝なんかをやれば「失望」を表明して、日本が行き過ぎることも防ごうとする。
そんなハースは、イランがもめた場合はミサイル攻撃などで対応できるが、北朝鮮がもめた場合は地上戦の「必要がある」としています。あと、この後、米国の内政を立て直すためには何が必要かという話も沢山出てくるのですが、まぁ、ハースは外交の人でしょうから割愛。
面白かったです。
米国といえば超大国として国際社会への関与を続けて来たわけです。特に冷戦終結後は唯一の超大国となり、イラクのクウェート侵攻後の湾岸戦争(1991年)とか911後のアフガン戦争、2003年に始まったイラク戦争なんかではまさに「世界の警察官」としてふるまってきた。ところが最近の米国内には戦争疲れが広がって、2008年のリーマン・ショック後は財源的にも余裕がない。そんななかでオバマ大統領は「米国は世界の警察官ではない」と宣言しちゃう。
そういう現状のなかでハースは「米国は自らの影響力の限界を認識して、国際社会で何を成し遂げようとするかを考え直す必要がある。やることが望ましいこととやらねばならないこと、実現可能なことと実現不可能なことの区別をつけなければならない」としています。
ハースは911後のアフガン戦争は米国の安全を守るためには避けられない戦争だったとしています。まぁ、マンハッタンに旅客機で突っ込まれたんだから、やり返さないわけにはいかないということでしょう。ただ、2009年のアフガン増派は回避すべきだったとしています。米国はアフガン増派で911を実行したアルカイダだけでなく、タリバンも攻撃対象としますが、これは「タリバンの支配地域は自動的にアルカイダのものになる」という誤った想定に基づいたもので、増派しなくても無人機攻撃や特殊部隊の投入で対応できる可能性を無視していた。また米国が何をしようとも、アフガン南部でタリバンが勢力を拡大することは避けられないという現実問題も見落としていた。このアフガン増派の結果、米国はアフガン国内の戦闘の主体となってしまい、米国の安全保障とは関係のない戦いに巻き込まれたという分析です。また、歴史的に中央政府の力が弱いアフガンで強大な政府軍を作るという困難な目標をたてたことも間違いだったとしています。
あと、ハースはカーターやレーガンの時代は外交の目的を人権の拡大においたけれど、ブッシュ(子)は民主主義の拡大においた。ただ、民主主義の拡大っていうのは極めて難しい。安全保障の維持とか経済成長のためにはサウジアラビアとか中国とかも協力せねばならないわけです。「いろんな問題で協力を求めながら、同時に相手の体制を否定するというのは難しいことだ」というわけです。中東で民主主義を拡大することは米国にとって望ましいことではあるけれど、米国外交の唯一の目標ではない。もちろん民主主義の問題に口をつぐめというわけじゃないんだけれど、民主主義の拡大を目標にすえる際には「地域の現状や政策的に取り得るオプションや米国へのコストなんかを吟味することが必要」という主張です。「現実問題として考えれば、西側式の民主主義は世界的な価値ではないということを米国は認識すべきだ」とも言っています。
あと、米国はコソボ問題なんかでは「政権による虐殺を防ぐという人道的見地から軍事介入する」なんていうことをしたりするわけですが、こうした人道的見地からの軍事介入も「無制限のリソースが必要になる」と批判的です。こうした軍事介入も、きちんとコストとベネフィットを見極めたうえでやらねばならない。人道的軍事介入が認められる条件としては、「脅威が大きくて疑いのないもので、被害を受けている人たちからの要請があり、反体制派が妥当な目標のもとで機能していて、国際社会の支持と支援があって、資金的なコストを限定できる確実な見通しがあって、他の手段は不適切だと判断される場合」としています。
ハースは現在の米国がとるべき政策として、”Restoration”という言葉を使っています。米国をめぐる国際環境はかつてほど厳しいものではないという認識のもとで、まずは米国のリソースを国内問題に配分する。外交では中東への過剰な介入は控えて、アジア太平洋地域や西側地域にリソースを割く。あと軍事介入偏重を改め、経済や外交交渉といったツールをより重視するということだそうです。「米国は友好国への支持を示して、友好国を攻撃しようとする国を牽制しなければならないが、逆に友好国が挑発的になったり向こう見ずな行動に出たりしないように、無条件に友好国を支持するわけではないことも示すべきだ」なんてことも言っています。
とまぁ、外交パートはこんな感じ。まぁ、今のオバマ政権の外交方針はこんな感じなんでしょうね。昨年夏にオバマがシリアへの軍事行動を検討した際、「化学兵器使用の拡大を防ぐための人道的見地」を強調して「アサド政権の打倒」は否定したところとか、英国が軍事行動への参加を見送った後で、(結果的にせよ)外交交渉を通じた化学兵器全廃が進展したところなんかは、「ハースが後ろでささやいていたんじゃないの」って思えるほどです。日中関係への関わり方もそう。尖閣諸島が日本の施政下にあることは明確にするけれども、安倍首相が靖国参拝なんかをやれば「失望」を表明して、日本が行き過ぎることも防ごうとする。
そんなハースは、イランがもめた場合はミサイル攻撃などで対応できるが、北朝鮮がもめた場合は地上戦の「必要がある」としています。あと、この後、米国の内政を立て直すためには何が必要かという話も沢山出てくるのですが、まぁ、ハースは外交の人でしょうから割愛。
面白かったです。
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