サンフランシスコ平和条約から沖縄返還協定までの流れを中国側の主張に沿ってみると、
1951年9月のサンフランシスコ平和条約では釣魚島は米国の委託統治地域に含まれていなかった。
1952年2月の68号令、1953年12月の27号令で、琉球列島米国民政府は勝手に委任管理の範囲を拡大し、釣魚島を管轄下に組み込んだ。
1971年6月の沖縄返還協定で釣魚島が日本に返還された際、中国は抗議した。
となります。
で、ちょっと疑問に思ったのですが、中国は1952、53年に米国が尖閣諸島を管轄下に組み入れた際に何の抗議もしなかったのかという点。白書では「1958年に領海に関する声明を発表し、台湾およびその周辺諸島は中国に属すると宣言した」とは書いてありますが、随分と時間があいている。中国が本当に尖閣諸島を自国領土だと認識していたのだったら、68号令、27号令が出た時点ですぐに猛烈に抗議していたはずじゃなかったのか。
あと、中国は下関条約で日本に割譲された尖閣諸島はカイロ宣言やポツダム宣言で中国に返還されたという立場のようですが、それだったら、その時点で尖閣諸島への実効支配を進めるような手段をとっているはずではなかったのか。
まぁ、そんなことを考えていると、外務省サイトのQ&Aのなかにある「1968年秋、日本、台湾、韓国の専門家が中心となって国連アジア極東経済委員会(ECAFE:UN Economic Commission for Asia and Pacific)の協力を得て行った学術調査の結果、東シナ海に石油埋蔵の可能性ありとの指摘がなされ、尖閣諸島に対し注目が集まった」ことを背景として、1971年の沖縄返還協定を機に中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのかなという気がします。
一方、昔の話については、14、15世紀ごろに尖閣諸島を実効支配していたのは中国だったんだけれど、その後、誰も利用していない無人島になっちゃって、それを1895年1月に日本政府が管轄下においたということなんだと思う。ただ、この手続きが国際法上有効なのかどうかは分りません。でも、有効じゃなかったからといって、「尖閣は中国のもの」という結論になるわけでもない気がする。そんなこと言い出したら、世界中の国境がガタガタになっちゃうんじゃないのか。
ただ、領土をめぐる問題というのは今に始まったことではないわけです。にもかかわらず、日中間の経済的、文化的な交流は拡大してきたわけで、まぁ、しばらくすれば仲直りの機運が出てくるんじゃないですかね。中国人だって日本車や日本企業の建物を壊したところで何のメリットもないことは気づくでしょう。あんな映像みせられたら、どんな外国企業だって「中国に投資することのリスク」を再認識するだろうし、「最近、中国の賃金も高くなってきたこともあるから、次の工場はベトナムかミャンマーに建てようかな」と思うかもしれない。
日本としては政治的には闘いつつ、あと中国の暴動のひどさを国際社会に訴えつつ、ユニクロ着て中華料理を食っていればいいんだと思います。
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