2018年6月25日月曜日

ラッセン

No.61

セールスといえば、クリスチャン・ラッセンだ。

街角で綺麗な女性が声をかけてきたら、まずそれはラッセンの手先だと思って間違いない。そうでなければ、シム・シメールか、ヒロ・ヤマガタか笹倉鉄平の手先だ。

絵に関心がありそうなそぶりを見せでもすれば、ビルの一角にある作品展示場に連れて行かれ、彼らのシルクスクリーンを前にして、長々と薀蓄を聞かされる。作品は数十万円もするのだが、「ローンを組めば、今すぐ買える」などと迫る彼女たちのセールストークの真剣さと力強さには、まさに洗脳の言葉がふさわしい。

ほかにも、ミッシェル・ドラクロワとか、トーマス・マックナイトとか、鈴木英人とか、様々な作家の作品を勧められる。彼女たちに展示場に連れてこられるのは男ばかりで、まず女性の姿を見かけることはない。

恐ろしいことだ。やはり男は女に騙される運命にあるのだ。男たちは女に導かれ、イルカやら、白いトラと月やら、無数の人間やら、夕暮れの建物の明かりやら、ノートルダム寺院やら、窓と月やら、わたせせいぞうのような車やら、そういった版画を自室の壁に飾り、至福の時を過ごす。そこには騙されたという自意識すらない。完璧な洗脳なのだ。完璧な洗脳こそ、人類に幸福をもたらすのだ。嗚呼。嗚呼。

あ、ちなみに私は買ってませんよ。流石に。


2005/9/27

セールス

No.60

服を買いに行ったら、店員のセールス攻勢がすごく激しかった。

店に入ってシャツを眺めているだけで、「それはシルエットがきれい」だとか、「内側にこんなシャツを着るとよく合う」とか、「上から羽織る感じでもいい」とか、なんだかんだと商品解説を始める。適当に話を合わせていると、ベルトも買えとか、バッグも買えとか際限がない。自分の店のセンスを客に押し付けようとするのかと、だんだん腹が立ってくる。

こういうセールスを喜ぶ人もいるのだろう。服装について店員に相談して、言われるがままに品物を買う。全部身につければ、それなりに見栄えは整うのだろう。

ただ、それが似合っているかどうかといえば、それもまた違うのではないか。なんせ店員は売ることが目的で話かけているのだし、その場で、その服装が似合っているかどうかを判断する人もまた、店員なのだ。これはもう洗脳商法ではないか。

こんなことを書いてはいるが、結局、そのシャツを買ってしまっている。鏡の前に立つのが若干怖い。


2005/9/26

特盛

No.59

昔はよく晩御飯として吉野家の特盛を食べた。

牛丼特盛とタマゴとゴボウサラダで900円かかった。当時の上司からは、「900円もあったらもっといいもんが食えるやないか」と笑われたが、深夜に食べることができる食事としては最適だったし、味も好きだ。確かに900円は高いかなという気もするが、なんの問題もなかった。

いつからだろう、豚丼の並とタマゴの370円で済んでしまうようになったのは。

上司からは別の意味で笑われると思う。


2005/9/22

高級車

No.58

車の乗り心地が分からない。

この前、仕事で某国産メーカーの高級車に乗ったのだが、ありがたみは今ひとつだ。確かに広いのは分かるのだが、高速道路を走れば、やはりそれなりにガタガタするし、ブレーキを踏めば、体に抵抗を感じる。友人が手に入れたピカピカの新車の助手席に乗せてもらったときも、座席が革張りであることや、SF映画の宇宙船の操縦席を思わせるようなカーナビが付いていることには素直に感動したが、乗り心地に関しては「普通」としか言いようがない。申し訳ないが。

高級車というからには、どんな道を走っても全く揺れないとか、止まるときは自然にフェイドアウトするように止まるとか、なんか車に乗っているとは思えないぐらいの感覚を期待してしまう。手塚治虫のマンガに出てくるような、地面から浮かんでいて、ジェットエンジンみたいなのでスーーーッと移動しているような乗り物のイメージだ。広いとか革張りというのは、自動車の本質的な性能とは関係がないじゃないか。

ここまで書いて、自分が高級車に幻想を抱きすぎであることに気づいた。

いい年をして、高級車をマンガのイメージでしか捉えられない自分に反省を促したい。


2005/9/21

スキップ

No.57

スキップは難しい。

「スキップ」を辞書でひくと、「片足で交互に軽く跳びながら進むこと」となっている。多分、そうだろう。さらに正確に説明するならば、右足で踏み切り、右足で着地し、今度は左足で踏み切って、左足で着地する。これを次々と繰り返していくということだ。

ただ、そんなことを頭で考えているとスキップはできなくなる。なんだか脚がもつれるうえ、弾もう弾もうとする上半身との間にギャップができて、不自然さが高まっていく。そんなところを人に見られでもしたら、「なんと運動神経の悪い人だ」との評価を受けることは避けられない状況だ。

難しいことを考えずに、自然と体を動かせば難しくない。恥ずかしがって動きを小さくしようとしたり、「右足で踏み切って、右足で着地して」と理屈を考え出せば、難しくなる。

これからの人生に役立つかのような教訓も引き出せそうな文脈になったが、スキップごときで人生を語るのはやめておきたい。


2005/9/20

巨泉の気持ち

No.56

昔、大橋巨泉が世界まるごとHOWマッチの司会をしているとき、アシスタントの女性がノースリーブを着ているのを見て、「肩出しのおねえちゃん。いいねぇ」とかなんとか言ったことがある。

当時、小学生か中学生だった私はそれを聞いて、「肩なんか何が楽しいんだ。やっぱり、オッパイかお尻だろう。おっさんの考えることは分からんな」と思った。肩なんてものは、骨の上に筋肉と皮がはっているだけのもので、面白くともなんともない。第一、ゴツゴツしているし、男の肩も女の肩もそれほど変わるものでもないだろう。肩なんてものは、腕を動かすという機能を果たすためのものだ。そんなに肩が好きならば、ケンタッキーフライドチキンでも買ってきて関節の動きを堪能すればいい、という発想だ。

最近、ノースリーブの女性をみると、自分がおっさんになったことに気づく。

こんなところばっかり大人になっていく。


2005/9/16

2018年6月13日水曜日

ちっちゃい玉

No.55

ボールペンを買うと、ペン先にちっちゃい玉が付いていることがある。あれは何のために付いているのだろう。

売り場に並んでいるうちに、ペン先が乾くのを防ぐためだろうか。そうだとすると、あの玉が付いていないボールペンもあることが分からなくなってくる。玉がないとペン先が乾いてしまうのならば、
玉が付いていないボールペンは何故、乾かないのだろうか。

あと、あれは、誰がどうやって付けているのだろう。あの玉を付けるための機械でもあるのだろうか。何のためにあるのか分からないような玉を付けるために、わざわざ機械を開発したということだ。

あの小さい玉を手作業で付ける職人がいるという可能性もある。何のためにあるのか分からないような玉を付けるために、超絶の技巧を持った職人が黙々と仕事をこなしているとしたら、是非とも現場をのぞいてみたい。

だれか、ボールペン業界に知り合いのいる人はいないだろうか。


2005/9/15

サンマを見習え

No.54

タチウオってどうなのだろうか。

あの魚はひどく食べにくくはないか。背骨ががっしり通っているうえに、なんか体の縁から内側に向かっても骨みたいななんかが通っている。面倒だから骨まで一緒に食べてしまえと思ってかぶりつくと、口のなかが
骨だらけになって取り出すのに一苦労する。そのうえ身が少なくて、食べるのに手間がかかるわりに満足感は得られない。さらには、そんなに美味しいとも思えない。一体、何なんだ。

この前、タチウオの南蛮漬けを食べたとき、「南蛮漬けだから大丈夫だろう」と思って注文したら大失敗だった。残念なことこのうえない。

その点、サンマは偉い。食べ易くて、美味しくて、安くて。最高ではないか。

今度タチウオに会ったら、同じ細長い魚としてサンマを見習えと言いたい。


2005/9/14

ミッキーマウス不信

No.53

ミッキーマウスの態度のデカさは、一体何なのだろうか。

東京ディズニーランドに行くとよく分かるのだが、あそこはミッキーマウスがヒーローとして崇め奉られている。誰もがミッキーマウスのことが大好きで、ミッキーマウスの登場を待ち望んでいるという設定を強要されるわけだが、
私としては「ドナルドダックの方が好きだ」と強く主張したい。

大体、ミッキーマウスっていい奴なのか? 映画とかアニメとかは何一つ見たことはないけれど、なんか周りのキャラクターにいたずらをして、相手のことをケタケタ笑ったり、なんだかんだで最後には一人だけ大成功を収めているというイメージがある。そのうえ、「僕らのヒーロー」みたいな扱いをされているわけだから、ロクでもない育ち方したボンボンのような性格ではないだろうか。全くの誤解かもしれないけど。

東京ディズニーランドに行っても、ミッキーマウスのことだけは許さずにいたい。


2005/9/13

日本語もままならない

No.52

よくよく考えたら、日本語すらままならない。

科学とか経済とかの難しい話題になると、例え日本語で話されていても、内容をはっきりと理解することは難しい。そのうえ、小難しいカタカナの言葉をたくさん使われたりすれば、ほとんど理解することは不可能だし、そうなるともう、内容を理解するよりも、眠気と闘う方に必死になってしまう。

ただ逆に、話を聞かなくても分かるというケースもある。「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」と聞けば、そこから先は眠っていても分かるだろう。相手の言っていることを理解できるかどうかは、語学力だけでなく、知識量にも左右される。つまり、私だって「桃太郎」なら英語で話されたとしても理解できる可能性が高いということだ。

そう考えると自分の英語力に絶望する必要はないような気がしてくる。「知っている話題以外理解できないようでは、語学を学ぶ理由はない」という指摘は、この際、却下しておく。


2005/9/12

飛び降り自殺

No.51

飛び降り自殺をする人がいる。

どうしてそんな死に方を選ぶのだろう。私なら絶対に飛び降りてから、地面に激突するまでの間、激しく後悔すると思う。体にものすごい加速度がかかるのと、それに伴う恐怖を感じながら、「ああ、飛び降りなければよかった」と考えるに決まっている。加速の後には、全身が砕けんばかりの激痛が待っているのが確実なのだ。

自殺しようと思うぐらいだから、正常な判断能力は失っているのだとは思うが、それにしたって他に方法はいくらでもあるだろう。睡眠薬とかガスとか。なるべく痛くなくて、怖くない方法を選ぶのが人の常ではないだろうか。
もしかしたら、「自分は空を飛べる」と思っているのかもしれないが、もうしそうなら、その行動は自殺ではなく、勘違いということになる。

高いところから飛び降りようとしている人を見かけたら、「ものすごく怖いから止めとけ」と声をかけるか、「人間は空を飛べないんだよ」と諭してあげたい。


2005/9/9